10 ぜんぶの重さを預けたって

 ピッツェリアの前まで来ると、焼きたての小麦の香ばしいにおいがポモドーロやフォルマッジョの香りと混ざってリリアナの鼻をかすめていった。そうしてやっと、リリアナは腹が減ったことを自覚した。ぐぅという音を立てて――もっともそれはリリアナにしかわからない程度の大きさだったが――、腹は昼食を受け入れる準備が整ったことを主張してくる。スクアーロに背中を押されたリリアナが扉を開けると、上に取り付けられたベルがカラカラと鳴り、ちょうど店の入口近くに立っていた女がこちらに気づいて挨拶してきた。

「あらいらっしゃい。今日はあなただけなのね」
「あぁ。今日は新入り連れて市場に行ってきてよォ」

 スクアーロは軽く手を上げると、その手をリリアナの頭に乗せる。女は少し屈んで、リリアナに視線をあわせた。「あらま、こんにちはお嬢さん」女の目尻にしわが寄る。きれいに巻かれた髪の毛から、ふわりと良い香りがしたのをリリアナは感じた。「こんにちは」リリアナが挨拶をし返すと女はニコリと笑って、それから二人を席に案内した。

「飲み物はこっから決めるんだ」スクアーロは女が差し出した一枚のメニュー表を指す。「おれはソーダ。おまえは?」
「えっと……えっと、ジンジャーエールを……」
「はぁい。すぐ持ってくるわ」

 女はいい匂いが漂ってくる厨房の手前、会計のカウンターのすぐ向こう側に行って大きな冷蔵庫から2本の瓶を取り出すと、さっきの返事通りすぐに戻ってきた。どうぞと言いながら、瓶の蓋を開けて飲み物を差し出す。「おう」「ありがとう」スクアーロとリリアナは、それぞれそう返事をした。リリアナはちらりと目線を女の胸元にある名札にやった。そこにはグレータと書いてあった。

「で?」グレータは向かい合って座るスクアーロとリリアナの席に隣からもうひとつ椅子を持ってきて、二人を交互に見渡たせる位置に置いた。「新入りさん、お名前は?」
「ッ、リリアナ、です」
 リリアナは急に話しかけられたから慌てて口に入っていた炭酸を飲み込んで、ちょっと咳き込みながらそう答えた。
「リリアナ。珍しいわねぇ、こんな小さな、しかも女の子が新入りだなんて」
 グレータは目を丸くしてスクアーロを見る。リリアナは、好奇心で観察するようなグレータの視線を受けながら、自分は手元のジンジャーエールの瓶口を見つめた。
「あぁ、まぁな。ちいっとばかし事情があって、おれたちが面倒見てんだ」
 スクアーロがそう答えると、カウンターの向こうから出てきた男がグレータに言った。
「おいグレータ! あんまさぼってんじゃあねぇぞ」
「はぁい」
 グレータは顔だけ声の主のほうに向けて小言を意に介していない様子で返答し、すぐにまたこちらを向いた。リリアナがちらりと店内を見渡せば、全体の半分くらいの席が客で埋まっていた。
「えー、そうなのね。じゃあ学校は? どこ行ってるの?」
「……え、えっと……」

 また学校のことを聞かれた、とリリアナは思い、言葉を濁してグレータから目を逸らした。
 ティッツァーノと一緒に食料品店に行ったときも店員に学校はと聞かれたけれど、リリアナ自身、どうして自分が学校に行っていないのかよくわからなかった。母と一緒に暮らしていたころ――そして母が男を連れ込むようになる前には――よく初等学校でどんなことをするのかを聞いては、期待で胸がいっぱいになったものだった。学校で勉強するのも、友だちができるのも、新しい文房具を入れた新しい鞄を持って登校するのも、何もかもを楽しみにしていた。
 けれど、あの男が母やリリアナを怒鳴りつけ暴力を振るうようになってからは、母の口から学校についての話題が出てくることはなくなった。ただ、前に一度知らない大人が家を訪ねてきたことはあって、そのとき母が「この子身体が弱いから、1年先にしようと思ってますの」と困った顔をして笑ったことは憶えている。別にリリアナは自分の身体が弱いと思ったこともないし母からそう言われたこともなかったが、「ね?」と同意を求めてくる母の視線の圧を感じて、ただ黙って首を縦に振った。「そうですか、それではこの書類に記入して役所の児童福祉課に出してください」そう言って差し出された数枚の紙は、1週間後も経てば泥酔して家に上がり込んできたあの男の吐瀉物の下敷きになったので、ごみ箱に捨てざるを得なかった。

「あー……学校はあんま行ってない。だよな、リリアナ」

 口を少し開けたまま眉を下げて何も答えられないリリアナの頭を、スクアーロはまた雑に撫でる。本当は「学校はあんまり行っていない」のではなく「学校はまったく行っていない」のだが、このことを素直に答えればどんな非難をされるかわからないことを、スクアーロは理解していた。

 サントーロの元へ向かう前にスクアーロとティッツァーノが多少調べたところによれば、サントーロはリリアナの家に入り浸っていた男が突然死んで、さらにリリアナの母親もいなくなってすぐに、彼女を自分のシマへと連れて行ったらしい。役所の人間はそのことを知らないのでリリアナ親子の行方は現在も調査中となっているが、あの男の突然死と親子の失踪にサントーロのようなやくざものとの関わりがあるだろうと察した役所も警察も、積極的な捜索はできずにいるのだという。
 親が行方知れずとなっているなら相応の対処を州なり市なりの役所に依頼してリリアナの保護をしなければならないというのが「マトモ」な大人の考えるだろうけれど、スクアーロもティッツァーノも「マトモ」に分類されるような人生を送っていないし、「マトモ」と呼ばれるような人柄でもない。そして何より、リリアナがスタンドを宿していることが確定したいま、スタンドの制御ができずその真価もわかっていない状態で彼女を一般人のなかに放り込むことはできない。あるいはサントーロのグループのような非スタンド使いの組織にいいように使われる危険性だってある。だからリリアナはパッショーネが保護しなければならない――というのが、幹部たちも同意しているところだった。

「あー、まぁ学校ってつまんないもんね。あたしも中学はけっこう遊んでたわ。そのせいで留年もしちゃったのよねぇ」しかしグレータはそんな事情を知ってか知らずか、あっけらかんとした様子で自らの留年経験を笑った。「特に数学! だいっきらいだったわ。割り算なんていまだに全然意味わかんないもの」
「こらグレータ。さぼんなって」グレータが苦々しい顔をして数学の悪口を言い始めようとしたとき、さっきの男がカウンターの向こうから再び彼女に声をかけた。「2枚出来上がり。持っていけ」

 ちょっとごめんね、と言ってグレータは出来上がったピッツァを取りに戻った。その後ろ姿を目で追いながら、リリアナは学校とはつまらないものなのだろうかと考える。「すうがく」や「わりざん」というものはそんなにも憎まれるものなのだろうか。しかし実際に自分でやったことがないのだから、リリアナにその気持ちがわかるはずもなかった。

「リリアナ。おまえ、学校行きたいか?」

 スクアーロはソーダを一口飲んで、リリアナと同じく店の奥を眺めながらそう訊いた。「…………」リリアナはスクアーロのほうを向く。こくん。そして一つ頷いた。「……そうか」スクアーロはリリアナを一瞥して、また視線を外し、「そりゃそうだよなぁ」と呟くように言った。

***

 種類の違う2枚のピッツァを分け合って食べると、ジンジャーエールの炭酸も相まってリリアナの腹は満たされた。
 昼を過ぎたナポリの街は人々や車の喧騒に包まれている。高い位置にあった太陽は少し下がって建物のあいだを縫い、リリアナとスクアーロの歩く石畳を温める。10月初旬の午後の空気は乾いていて、ちょうど良く暖かい。リリアナは石畳に反射する陽に目を細めた。

 来た道を戻っていると、あの細い路地――財布を手にした3人の少年たちが走り去り、怒鳴り声を上げてそれを追いかけていった男がいた路地の近くの、もう少し大きな通りで、ちょっとした人だかりができていた。「あ、」とスクアーロが最初に気がづくと、すぐ近くを歩くリリアナの手を取って引き寄せた。それでリリアナも、道の先で何かが起こっているのに気がついた。

「――それにしたってやりすぎですよ、それは!」

 10人くらいの人々が何かを緩く取り囲むようにして立っている。その中心からは、まずそんな声が聞こえてきた。

「しょうがねぇだろ! そいつが抵抗するからやったんだ。そもそも――」

 続いて男が声を荒げてそれに答えるのが聞こえる。リリアナはその怒声にびくっと身体を震わせた。立っている人々は、その中心で行われている2人の声の主どうしのやりとりを眺めているようだった。スクアーロは繋がれた手が強張ったのを感じて、もう少しちからを強くして握った。リリアナはスクアーロの背に隠れるようにして、歩いていく。

「正当防衛ってやつだろ! 盗んだやつが悪いんだッ!」
「わかったから! まずは手を離して!」

 その人だかりの横を通り過ぎようとするとき、リリアナは見た――さっき盗みをして走り去っていった3人の少年のうち、財布を持っていた先頭の少年が壁際で男に胸ぐらを掴まれて、鼻や口から血を、目からは涙を流しているのを。一方少年を掴んで離さない男は、さっきとは別の、もっと風貌のいかつい男だった。頭に血が昇って、顔が赤くなっている。その男とやりとりをしているのは、上下に黒い服を着て帽子をかぶった、大柄な男だった。警官だ、とリリアナはすぐにわかった。「行くぞ」とスクアーロは平坦な声で言ったが、リリアナはその場に立ち止まった。
 
 男は警官に何度か「落ち着いて」「手を離して」と言われてやっと、少年の胸ぐらを解放する。泣いている少年の足元の壁を勢いよく蹴って、舌打ちした。警官はその場に崩れるようにして座り込んだ少年に近づき、大丈夫かいと声をかける。少年は血の出る鼻を押さえて、弱々しく頷いた。

「クソッ、あんた警官だろ? なんでこんなウジ虫みてぇな連中を心配すンだよ、こいつは犯罪者だぞ?!」
 男は上着の内側から財布を取り出し、中身を確認する。そしてまた舌打ちして、財布を上着に戻した。
「だからって私刑は許されないんだよ、こんなに……」
 警官は懐からハンカチを取り出して少年に渡す。一連の出来事を立って見ていた群衆のなかからは一人の女が近づいて、水のボトルを少年に差し出した。
「ハッ! ウジ虫がどうなったって俺ァ知らないねッ! こいつらは人様のものを盗るしか能のねぇ、社会のゴミだ!」
「わかったから。もうすぐ車来るから、あんたも一緒に来て。君たちもだ」
 警官はそばに立っていた2人の少年のほうを向いてそう言った。
「あぁ?! なんで!」
「いろいろ書いてもらうことがあんだよ! さぁ、立てるか?」

 この様子を見ていた人々の群れは、一件落着の空気に安堵して散り散りになっていく。そのなかでリリアナは、足が地面に縫い付けられたみたいに動けなくて、スクアーロの手を固く握ったまま、立ち尽くしていた。

 ――「俺のものを盗んだおまえが悪いんだ」。
 絶望が心を支配して、痛みさえも感じなくなっていったあの夜。
 あの夜の自分もちょうどこのようにして、痛みを与えられていたのだろうか。

 ――「人様のものを盗ることしか能のねぇ、社会のゴミだ!」。
 自分を痛めつけてきた男たちもちょうどこのようにして、痛みを与えることを正しいと信じたのだろうか。

 ――「誰かを傷つけるやつは、誰かに傷つけられる覚悟をしていなきゃならねぇんだ」。
 そして男たちは死んだ。
 私刑は許されないと言う勇敢な誰かが仲裁に入ることもなく、「誰かを傷つけたから」、ただそれだけの理由で、男たちは死んだ――いや、わたしが殺した。わたしが、殺したのだ。

 目に見えている景色に焦点が合わなくなっていくのと同時に、頬に涙が伝ったのがわかった。リリアナ、と頭上から呼びかける声がしたが、その声は耳に入ったはずなのに、心には届かないままどこかに消える。
 ――あの少年はわたしだ。そしてあの男も、きっといつか、わたしになるだろう――自分が傷つけられたからという理由をもって、傷つけてきた相手を殺すこと。それを正しいと信じることにするのならば。

「リリアナ!」
 目の前にスクアーロの顔が現れてやっと、リリアナは呼吸の仕方を思い出したように、はっと息を吸った。スクアーロはリリアナの視線に合わせて腰を下ろすと、頬を伝い顎先で落ちそうになっている雫をすくった。リリアナはぱちぱちと数回瞬きをする。やっと、瞳の先に焦点が戻ってきた。
「…………」
「…………」
「…………帰るか」
 二人はしばし見つめ合っていたが、スクアーロがぽつり、と口を開いた。リリアナはゆっくり頷いたけれど、どうにも身体全体が強張って、うまく動けないのがわかった。「あ……」と意味のない音を零して、立ち上がってリリアナの手を取ったスクアーロを見上げる。スクアーロに握られた手は震えて、汗ばんでいた。スクアーロは再び腰を下ろした。「ほら」そう言って、背をリリアナに向けた。「おぶってやるよ」

 リリアナはまた目の前が霞んでいくのを感じた。
 誰かを傷つけるなら、誰かに傷つけられる覚悟をしなければならないと言ったその人は、いったいこれまで何人の人を傷つけ、命を奪ってきたのだろう――リリアナは覚束ない足取りで一歩進み、そのままスクアーロの背中に身体を預けた――けれどその人は、涙をすくってくれるし、手を握ってくれるし、こうしてぜんぶの重さを預けたって、支えてくれる。その背中に頼らないと自分は生きていけないだけではない、それどころか、涙をすくい、包んでくれる手のひらも、いまはもう、いちばん安心するものになってしまったのだ。
 リリアナはスクアーロの肩にすがりつくようにして腕をまわした。彼の背中は、煙草と香水、それにピッツァの香ばしいにおいがした。

 スクアーロはリリアナを背負って立ち上がる。スクアーロはやがて自分の肩が濡れていくのに気づいたが、何も言わなかった。
 二人分の影が、ナポリの路地の石畳の上に伸びていた。

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