09 着たいものを、好きなように

 次の週末、リリアナはスクアーロに車に乗せられて、また県都ナポリに出掛けることになった。しばらくはコンドミニオの3階の、あの一室で過ごすことになるリリアナの服や日用品を揃えるためだ。それにあの拠点には大人の男が数日滞在できるだけの最低限のものしか置いていないので、スクアーロやティッツァーノが長く滞在するための洗剤、タオルやシーツだとか、そういった品々も買い揃える必要があった。
 リリアナが着ていたみすぼらしいズボンやぶかぶかのシャツは、ここに来て次の日にはティッツァーノが替えさせていた。でもリリアナに合ったサイズの服なんてここに置いているわけもないので、組員と懇意になった女が置いていった部屋着のような服を、ここ数日は着ていた。その服は清潔ではあるがやっぱり大きすぎるので、いい加減リリアナにちゃんとした服も用意することになったのだった。

 食事にかかる金も、服や日用品にかかる金も、何も持たずにここに来たリリアナは当然持っていない。だから服と日用品を買いに行くぞと言われたリリアナは、スクアーロの車の助手席に座ってトンマーゾ・デ・アミーチス通りをしばらく南下した頃、「あの、お金は……」とやっとの思いで話を切り出してみた。スクアーロは一瞬ぽかんとしたあと、はは、とちょっと笑って、そういう「教育費」は上からもらっているのだと教えた。

「おまえの能力は未知数だが強力だろうからな、『教育』は惜しまねぇつもりだろうさ。上だってこんな小さいときからいろいろ仕込めるんだから、願ったり叶ったりだ。おまえ、なかなか見込まれてんぞ」

 そう言ったスクアーロはハンドルから右手を伸ばして、リリアナの頭をがしがしと撫でた。でもリリアナは、スクアーロの言葉を喜んでいいのかどうかわからなかった。未知数ではあれど、「与えられた傷を、与えてきた相手に返す」という自分のスタンド能力が自分自身にも他者にも痛みを伴うものだということだけは、もう知っていたからだ。スクアーロはこの前の夜「誰かを傷つけること、誰かに傷つけられること」を覚悟しなきゃならないとリリアナに言ったけれど、この覚悟がすぐにもてるほどリリアナは大人でもないし、経験を積んでいるわけでもない。いずれ、再び死んでしまうかもしれないと思うほどの痛みを味わったとしても、果たして自分のスタンドは本当に発動するのか。そしてスタンドの力によって再び間接的にでも人を死なせてしまったとき、果たして自分の心は無事でいられるのか。これらのことは、リリアナの想像を越えた先にあるものだった。
 微妙に目を伏せて返事をしないリリアナを、スクアーロは運転しながら横目で見た。

「そんな心配すんなって、な? スタンドってのはな、自分の意志でどうにでも能力を伸ばしていける。おまえのスタンドだって、お前自身や、誰かが傷つかないやり方で、なんとかできるようになるかもしれねぇんだぜ」
「……ほんとう?」
「あぁ。おれの『クラッシュ』だってな、最初は風呂くらいの深さがあるところじゃねぇと出せなかったし、噛む力だって強くなかった。でも何度も特訓して、実戦で扱うようにもなって、この前みたいにボトルの中だって出せるようになったんだ」
「あのサメは、噛むの?」
「え、……あぁ、まぁな。『クラッシュ』は何でも噛み砕いちまうんだ」

 スクアーロは内心しまった、と思った。基本的にスタンド使いは自分の能力を他人に教えない。スクアーロのスタンドについても、その能力の詳細を知っているのは組織の数人の幹部と、相棒であるティッツァーノだけだった。

「じゃあ、えっと……ジュース瓶も壊せる?」

 けれどちらりとリリアナを見ると、その瞳が好奇心をいっぱいにしていて、「あの水道の蛇口も?」とか「あの皿も?」とか、車窓から目に入ってくるもの一つ一つを指して「クラッシュ」が噛み砕けるのかを訊いてくる。スクアーロはいらぬ心配をしたなと一人笑って、年相応の感じを見せたリリアナの頭をまた撫でた。

***

 20分ほど走ると、車の窓から見える景色がだんだん背の高い建物ばかりに埋め尽くされるようになってきた。建物どうしの間は狭くて、当然道路も狭いうえに、混雑している。リリアナにとってはこのような風景は見慣れたものではあるけれど、別に親しみを感じているわけではなかった。それどころか、自分がしかばねのように生きていた、混沌としたこの街に戻ってきてしまったとさえ思って、心がそわそわとしだした。
 メダリエ・ドーロ駅近くの駐車場に車を停めると、2人はそこから歩いてアンティニャーノ市場に向かった。ちょうど市場が開いた時間だったから、小さなテントをたくさん道の両端にずらりと並べた広場は、人で溢れかえっている。このままでははぐれてしまいそうだったから、リリアナは人混みを縫ってすたすたと前を歩いていってしまうスクアーロのすぐ後ろまで追いつくと、咄嗟に彼の上着の裾を掴んだ。スクアーロはいま気づいたという感じで「おお」と小さく反応すると、リリアナの手を握った。そうしてスクアーロの歩幅はリリアナに合わせて狭くなった。

 市場には地元の住民らしき老夫婦や子供連れもちらほらといたけれど、ほとんどが観光客のようだった。多くの観光客はここに食べ物や衣料品を買いに来たのではなく、この市場の様子を見物しに来ているので、並べられている品物を一見するだけで買わずに立ち去る。リリアナの手を引いたスクアーロはたくさんの青果が積み上げられて売られている一角を抜けて、その奥の衣料品が集まっているところまで真直ぐに来た。テントの奥で座って観光客で賑わう市場を眺めていた店主は、その様子からスクアーロとリリアナが買い物客だということを察して、立ち上がって近寄ってきた。

「この子に何着か選びたいんだが」
 スクアーロが店主に話しかける。
「はいよ。身長は……120くらいか。それならこの辺にあるから自由に見るといい」

 リリアナはスクアーロに背中を押されて、少女向けの衣類が置いてあるところまで進む。そのテーブルには、白、黄色、水色やピンクの服がいくつも置いてあった。

「…………えっと……」
 けれどリリアナは眉を下げてスクアーロを見つめた。
「ん、なんだ? 気に入ったのがなさそうか?」
「……いえ、あの……」
 リリアナは目を泳がせて口ごもった。
「どうした? 金のことなら気にすんなよ」
「…………」
 リリアナは首を横に降って俯いた。

 スクアーロはちょっと頭をかいて、しゃがんでリリアナの顔を覗き込んだ。スクアーロは普段の仕事仲間や取引相手なら、こんなふうにぐずぐずと煮え切らない態度をされたらすぐに苛立ってしまうのだが、何故かリリアナ相手なら話を聞く気になれる。不思議なものだと思いながらスクアーロがリリアナの頭を撫でると――今度は優しい手つきだった――、リリアナは自分の服の裾を握りしめて、申し訳なさそうに口を開いた。

「どんな服を着ればいいか、わからなくて…………」

 スクアーロにとってはそれは少し予想外の言葉だったけれど、そういえばこの少女はそういう子だったなと思い出した――リリアナは、いきなり自分たちのような大人に車に乗せられて知らない土地に連れてこられたというのに、しかもパッショーネという組織に半ば強制的に入ることになったというのに安心して涙を流すような少女だった。それだけではない、食事を作ってみんなで食べていると温かいと言って泣き出してしまうし、濡れた髪を乾かしてやるだけで嬉しそうで悲しそうな顔をする少女だったのだ。

 スクアーロは、下唇を噛んでうつむくリリアナを見て、まだ両手で数え終わるくらいしか生きていないこの少女の、これまでの人生がどれほど無情なものだったのだろうと、思いをめぐらした。それからリリアナの手を取り、ぎゅっと握って皺の寄った服の裾を撫でて直すと、リリアナの目を見て言った。

「おまえが着たいものを、好きなように選べばいい。誰も文句なんて言わねぇよ、絶対に」

 リリアナはぱちぱちと何回か瞬きをして、ちょっと俯いて、それからまた顔を上げて、小さく頷いた。リリアナはスクアーロの手を握ったまま、色とりどりに並んでいる衣服をしばらく見つめた。それでややあってから、白のブラウスを指差して、スクアーロをちらりと見上げた。

「おう、いいじゃねぇの」スクアーロが店主に目配せをすると、店主はそのブラウスを袋に入れた。「他には?」
 スクアーロの問いに、リリアナは首を横に振った。
「子ども服ならまだ向こうに何軒かあるよ」ずっと様子を見ていた店主が、市場の奥を指して言った。「一度見てきたらどうです?」

 スクアーロはリリアナにそうするか、と訊く。リリアナは頷いた。その頬は少しだけ、赤く色づいていた。

***

 市場をあとにする頃、リリアナは3つの袋を、スクアーロは4つの袋を手に下げていた。リリアナが持っているのは自分の服や靴、スクアーロが持っているのはリリアナや自分たちで使う日用品だ。

 あのあとリリアナは、何軒か子ども服を置いている店まで行くと、自ら服を選んでいった。
 たいがいは置いてある服をじっと見つめて、ちょっと手を伸ばして触り心地を確かめたりもしながら、最後にスクアーロに「これ……」と言って、決めた服を指差す。リリアナが申し訳なさそうにしてちらりと見上げてくるので、スクアーロは「何度も言うが金は気にすんなよ」と答えて、店主に金を渡す。服の入った袋をもらうとリリアナは礼を言って、その袋を大事そうに抱える。

 スクアーロ自身はこれは嫌だ、これは好みだ、などとあれこれ言いながら買い物をする傾向がある。ティッツァーノの買い物を見ていても彼のこだわりは伝わってくるし、今までに一緒に買い物をしたことのある女の様子を思い出してもそうだ。だから自分らとは正反対のリリアナの様子からからは、彼女が本当に着たいものを選べているのか、スクアーロはわからなかった。
 リリアナは着たい服がわからないのではなくて、着る服をどうでもいいと思っているのかとも考えたが、店主が「これはどう?」と勧めてきた猫のキャラクターが描かれた濃いピンク色の服に対しては即座に首を横に振って断ったりもしていたので、何でも着るというわけでもなさそうだ。

 でも、この2週間ほどを一緒に過ごしてみてわかってきたリリアナのちょっとした表情の違いが、彼女が買い物を楽しんでいるということをスクアーロに伝えていた。
 黙って色とりどりの服をしばらく見つめ、不意に「これ」と指差す様子はさながら熟練の骨董鑑定士のようではあるが、その頬は赤く、口元は緩んでいる。そういう顔をしているときのリリアナは、言葉にはしなくても、嬉しかったり楽しかったりしているのだと、スクアーロはわかり始めていた。

 実際、リリアナはこんなにたくさんの、しかも自分が選んで買ったものを両手に抱えて歩いたことはなかったから、嬉しさや楽しさで胸がいっぱいになっていた。スクアーロはリリアナがどんなものを選んでも叱ったり呆れたりすることなく、「いいじゃん」とか「似合いそうだな」としか言わなかった。そのおかげでリリアナは、自分で自分の服を選ぶということを恐れなくてもいいのだと、わかり始めていた。
 ただ、リリアナの心の隅には、母と一緒に出掛けて服を選び、母が「可愛いわね」と褒めてくれた、あの遠い日々の思い出も浮かんできて、寂しい気持ちにもなった。でも、こうして並んで一緒に歩いてくれる人がいることの嬉しさのほうが、今は寂しさよりもちょっとだけ勝っていた。

***

 荷物をいったん車のトランクに入れると、2人はそのまま歩いてフォルチェッラ地区に向かった。
 フォルチェッラはナポリでも危険な地域だといわれているのをリリアナは知っているから、贔屓にしているナポリピッツァの店があるからそこで飯にするとスクアーロに言われると、怪訝な顔をした。「大丈夫だ、おれがいるんだから」そう言ってスクアーロは笑うが、歩いていて離れてしまったりしないように、スクアーロの上着の裾に手を伸ばす。するとスクアーロは「皺になるから、こっち」と言って、自分の手を差し出した。リリアナはその手を握ったけれど、大きくて逆にリリアナの手が握り包まれた。

 フォルチェッラ地区に近づくと、アンティニャーノ市場の活気とは違う雰囲気を街全体がまとっているように、リリアナには感じられた。リリアナが暮らしていたスパニョーリ地区も、大通りから一本二本と狭い路地のほうに進めば壁の落書きも落ちている煙草の吸殻の数も増える。しかしフォルチェッラはまた微妙に違った空気感があって、こちらもまた重々しいものだった。大きな通りに面したトラットリアや商店以外の建物の窓や扉はほとんどが閉まっていて、観光客はこの地区の評判をよく知っているから大通り以外を歩かない。道の両脇にずらりと並んで停められている車のあいだを縫ってときどきすれちがうのは、地元住民のような適当ななりをした男女か、とっつきにくそうな顔をして早足で歩いていくいかつい男だけだった。

 スクアーロは勝手知ったるといった様で、車1台ぶんがやっと通れるくらいの細い路地を縫うように進んでいく。「もうすぐだ」と言ってスクアーロがリリアナの手を握りなおしたとき、突然背後から男の怒鳴り声と、数人分の騒がしい足音が聞こえてきた。

「クソッ! こら、てめぇらッ!」

 スクアーロがリリアナの身体を引き寄せ包み込むようにして道の端でいったん立ち止まると、3人の少年たちが横を走り去っていく。先頭を走る少年の手には、その年頃の男の子がもつには不釣り合いに高級そうな財布が握られていた。少年たちがリリアナとスクアーロのいる道の曲がり角を左に曲がって走り去ったころ、ぶっ殺すぞとひどく悪態をつきながら追いかけてきたのは大人の男だった。
 リリアナはスクアーロの腕にしっかりと包まれたまま、横目でその光景を見ていた。男が左に曲がって姿を消してすぐ、「ちくちょう! 顔覚えたからなクソガキがッ!」という怒声が短めに響いて聞こえてきた。それを聞いてやっと、スクアーロはリリアナを解放した。

「おーおっかねぇな」

 スクアーロはへらへらとおどけるようにそう言ったが、リリアナが彼を見上げるとその目はあまり笑っていなかった。リリアナはスクアーロの顔を見上げていた視線を、少年たちと男が消えた道の曲がり角に戻した。スクアーロはリリアナの手を握りなおして、二人は黙ったまま再び歩きだした。

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