長期戦


 週末になるとディオ様は御学友をお招きになって、皆様で政治や経済や、オペラや絵画のことについて語り合ってお過ごしになることがある。

 いつもいらっしゃるのは三、四人の、ディオ様と同じお年頃の男性たち。ときどきもう少し年上のかたか、もう少し年下のかたがいらっしゃることもある。皆様、ディオ様と同じく立派に教育を受けた上品なかたたちで(それでもやはりディオ様が一番利発でお上手に会話を主導なさっている)、彼らとお話しているときのディオ様は、いつもよりもっと楽しそうにしていらっしゃる。使用人に話しかけるときのディオ様はとてもお優しくて、ジョナサン様に話しかけるときもゆっくりとした口調でいらっしゃるけれど、御学友とお話しているときのディオ様は比して早口。ときどき冗談も混ぜながら、わたしなどには到底わからない難しい話題を次から次へと持ち出していらっしゃる。
 わたしたち使用人は、皆様をお出迎えしたらコートと手袋、それにお帽子をお預かりして、応接間までご案内ののちにお茶とお菓子をご用意する。お呼びがあればすぐに用事をお伺いできるようにしているけれど、この前の午後の暖かい日などはマリアがウトウトしていたところをこっそり肘で小突いたら、それをディオ様に見られていて二人揃って恥ずかしい思いをした。
 
 わたしも一応は学校に通っていたけれど、いまもパブリックスクールでお勉強されているディオ様とは、彼が御学友となさっているようなお話ができるはずもなくて、そのことを少し残念に思うこともある。ディオ様が御学友にお見せになるいきいきとした表情や、少し興奮した口調で紡がれる聡く美しい言葉たちが、わたしは好きなのだ。こんなことおこがましいにも程があるから人には言えないけれど、それらがわたしにも向けられることがあったならどんなに幸福だろうと、ほんのちょっぴり、思ってしまう。
 
 けれどさすがディオ様という言うべきか、ある日の夜にディオ様は、とても嬉しい提案をしてくださった。

「ナマエ、きみにこの本を貸すよ」
 お夕食を終えて、ディオ様がおやすみ前の読書をなさっている傍らで、読書のおとものナイト・ティーを準備していたときのことだった。ディオ様がお読みになっていた御本をいったん閉じたので読み終わったのかしらとそちらを見たら、ディオ様は御本をわたしに差し出す。そして、おっしゃったのだ――この本を貸すよ、と。
 その本の表紙には『自由論』と書かれていて、それだけではわたしにはどのようなことが書かれたものなのか全然わからなかったけれど、厚みはそれほどでもなく、装丁もきれいなので古いものでもなさそうだった。
 わたしはその提案に驚いたから、ナイト・ティーにブランデーを少々加えながら「え、あ」と間抜けな声を返してしまった。
「ぼくは読み終わったから、返すのはいつでもいい」
 けれどディオ様はそんな間抜けな返事を笑うこともなく、本の表紙を見つめ、手のひらで撫でた。このお屋敷に来てから二年、ディオ様のおそばにいる機会が増えてからは一年も経っていたから、わたしにはディオ様のこの表情が、彼の気分が良いときのものであることがわかる。
「あ、ありがとうございます。けれど、わたしに読めるかどうか……」
 きっと、わたしには難しくて読めるはずもない。書いてあることも、文体も、全然馴染みのないものだろうから。そう思った。
「大丈夫じゃあないかな。内容はそんなに難しくない。それに、けっこう良いことが書いてあるし、面白いと思うよ」
 けれどディオ様はティーカップを受け取ると、代わりに御本を差し出してきた。その流れで受け取ってしまったけれど、どのように扱えばいいかわからない。本を手に持ったまま表紙を開こうともしないわたしをちょっとのあいだ見つめて、それからディオ様はくすり、と笑みをこぼした。
「それを読んだら、きみの意見を聞かせて。働く女性から見ればこの著者の言ってることがどのように映るのか、知りたいんだ」
 ディオ様はそう言ってティーカップに口を寄せた。「うん、美味しい」と呟く。
 わたしはというと、ディオ様がおっしゃったことをようやく理解して――そして、涙が目尻に溜まっていくのを感じていた。やっぱり、ディオ様は知っていらっしゃったのだ、わたしが恐れ多くもディオ様と、ディオ様が御学友となさっているようなお話をしてみたいと思っていたことを。
「あ、あの……」
 驚きと、嬉しさで、少し息が上がった。まずは何から申し上げればいいのだろう。感謝、感動、どんなに長い時間がかかったって、どんなに目や頭のなかが辛くなったって、きっと最後まで読み終えるという意志。気持ちばかりが心に溜まって、口からはなかなか然るべき言葉が出てこない。
「わたし、読みます。……時間がかかるでしょうが、最後まで、読みます」
 けれどどうにかそう伝えたら、ディオ様は「良かった」とおっしゃって微笑んだ。わたしは頬を伝った雫が御本にかからないように抱きしめて、そして泣いているのをディオ様に見られないようにして頭を下げた。
「明日の夜はハーブティーにしようかな。ナマエ、選んでおいてくれる?」
 ディオ様の問いかけに、袖でさっと目元を拭って、はい、と返事をした。ディオ様はまた満足そうに微笑んだ。
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