08


 それは一瞬だ。もう慣れたものだから、ほんの一瞬だけだ。人間の血を啜る者をとり込むときに感じる苦痛は、そう、一瞬だけなのだ。一瞬だけ、自分が、いまここに存在しているという感覚がなくなる。身体にちからが入らなくなり、目や耳や鼻や皮膚で感じていることを頭が受け取れなくなり、感覚と思考が切り離される。ぐわんぐわんと鈍く、しかしこの上なく強い痛みが頭を駆けめぐる。そして、記憶。自分のものなどでは断じてないはずの、感覚、思考、感情と、その歴史が入り込み、自分の心と混ざる。そのなかから再び、自身を見つけなければならない。何が己のもので、何がそうではないのかを、再び認めなければならない。

 はじめは、それがどうしようもなく怖かった。痛いのが怖かった。何もない空間に放り出されるような感じが怖かった。自分を自分たらしめるものが他のものと混ざり合い、二度と元に戻らないのではないかと思った。
 だのに、いつから慣れたのだろう。今しがたとり込んだ"血を啜る者"は、もう自分のものとなった。いまさっき、瞬きのあいだにその者の心を感じた。それは、老いてままならなくなった足を怨み、無様に抜け落ちた歯を嘲笑う心だった。そして、それらを取り戻したことの歓喜だった。人間はいつもそうだ。失ったものを惜しみ、若さにすがりつく。なんと弱い生きものであることか。あらゆる動物で、人間だけだ。人間だけが、死というものの概念を、老いという過程と結果を、極端に、大げさに恐れる。人間だけが、こんなにも弱いのだ、その心も、その身体も。

「シュ……シュトロ……ハ……イム……」

 2000年ぶりに、喉で空気を震わせた。人間どもの発音はわかってきた。シュトロハイムという単語は、重要なものであるらしかった。一人の人間がこの単語のあとに頻繁に反応しているようだから、おそらく呼びかけられた男の名前だろう。  空気の通り道は、透明な壁。ガラスだろうか。向こう側の部屋と通じているようだ。かすかだが、そこから人間たちのにおいを感じる。もう少しだ。もう少し欲しい。"血を啜る者"ならあと2体、そうでないただの人間なら5、いや8は必要だ。  わずかな空気が流れている穴に、骨と筋を入組みかえて入り込む。久しぶりにからだを動かすのにちょうどいいだろう。穴と通り道を作る材質は、鉄か銅か。眩しさに目をやられたから、色はわからない。が、その感触は軽く、薄い。完全に透明なガラスといいこれといい、人間がものを作る技術ばかりは、少しは進歩したようだ。

「キサマラ、カ……オレノ……眠リヲ邪魔シタノハ……」

 人間どもの言葉で喋ってやれば、シュトロハイムと呼ばれている男の顔がこわばるのが見えてきた。こいつがリーダーだ。この場で一番多く、支配的に喋っている。まずはこいつの手下どもを瀕死にしよう。ただし、喰うのはあとだ。

「ああーッ! サンタナが撃ち返してきたーッ!」

 鉛の玉が高速で発射される道具の原理はわからないが、同じことは自身の身体でできた。鉛の玉を受けた人間たちは、そこから血を滲ませて倒れていく。脆い。脆すぎる。しかしそれだけではない、愚かだ。人間は愚かだ。己がもつ道具が、互いを、自らを傷つけるものになるということが、どうしてわからない? 人間は愚かだから、それでも自らを殺す道具をもち続ける。昔も、今も。

「やつを外に出してはいかん! サンタナを殺さねばならないッ!」

 サンタナと、自分は人間たちに名づけられたようだ。もちろん本当の名前は別にある。しかしそのことを、目の前の人間たちが知るはずはない。我らは文字をもたない。文字をもたないから、自分の名前をどこかに記すことはない。人間に対して、我らの名前を教えたことはない。だから、本当の名前を人間が知っているはずはない。
 けれど人間たちは、どんなものにも名前がないと我慢できない生きものらしい。自らそう名乗ったわけではないのに、いつのまにか我らが、人間の言葉でいう「主」とか「夜の化身」とか「霊長の王」などと呼ばれるようになったことが、何度もあった。それだけではなく、いつだったか「神」と呼ばれたときもあった。そうした概念が何なのかは知っている。人間にとって、神とは創造主だ。この世界を作った何者か。この世界を観察し、生きもののさだめを操り、試練を与える存在。

「サンタナさぁん! さぁご一緒にィ! はっぴーうれぴーよろぴくねー」

 自分は神などではないと、おれは思っていた。この世界を作ったのが誰なのか、どのようにして自分は産まれたのか、自分のさだめとは何なのか。むしろ知りたいのはこちらのほうだった。
 ――父とはなんですか。母とはなんですか。
 小さい頃、そう尋ねてみたことがあった。生きものとは、次の生きものを産む存在のことだ。ならば、生きものである自分は、誰から産まれたのか? 純粋にただ、そんな疑問を抱いたから。
 ――父とは、我らのような大きな男がなるもので、母とは、女……そうだな、彼女のような女が大きくなったらなるものだ。
 あのひとはそのように答えた。
 ――では、家族とはなんですか。
 おれがまた問うたとき、あのひとは、なんと言ったか。

「ど……どうなってるんだいまの! いまの、足が、通り抜けた感触はいったい……」

 ふいに浮かんだ昔の記憶を振り払って、鉛の玉を出す道具を手に取った。初めて見る道具だ。「銃」と呼ばれていたから、そのような名前なのだろう。

「しゃべったッ! やはり理解しているッ!」

 しかし、構造は複雑ではない。大きいものから細かいものまで、目に見える一つひとつの部位が、単純に組み合わさってできている。先ほど感じたにおいと派手な音からして、玉のほうにはいくつかの鉱物を混ぜ合わせたものが詰まっているのだろう。「銃」の内部で火花を散らすことで、高速で玉を発射する仕組みになっているようだ。それなら弓矢とさほど変わらない。ただ、より速く、強力になっただけだ。
 さらに驚いたのは、光だ。太陽の光ではもちろんなく、炎の光でもない。一定の明るさと強さでずっとこちらを照らし続けている光だ。色は白色で、太陽のそれと似ている。しかし太陽の光を浴びるときに感じる、刺すような、焼けるような痛みはない。これを人間が作ったのだとすれば、人間どもはこれまでには比類できぬほどの進歩を遂げていることになる。

「おいこらぁ! 言葉がわかんなら返事ぐらいしろよなァ! 何者なんだよてめぇ!」

 うるさい。先から後ろでちょろちょろしていた人間か。おれの髪を引っ張っている。人間どもの状況はわかった。もういいだろう。いま立っている2人は活きがいい。ちょっかいを出してくる男は特に、若く体格が大きい。2000年前には、このような体格の人間はほとんどいなかった。手足を拘束されている老いた男はあまり糧にはならないだろうが、一応喰っておこう。まだ少し足りないぶんは、すぐに見つかるはずだ。人間の体格をこれほど大きくできるのならば、着ているものや道具がこれほど質の良いものならば、人間の数も相当に増えているに違いないのだから。

 2000年ぶりの感覚を研ぎ澄ませて、再び骨を組みかえる。肋骨で数か所穴を開けてやれば、血を大量に流して、人間は黙るようになるはずだ――

 バチィッ!

 ――火花。いや、雷のような、細切れであるも、眩しい光。なぜ? たしかに骨は当たったはずなのに。骨で串刺して、それからとり込んでしまおうと思ったのに。しかし弾かれるような音がして、そうはならなかった。人間は後ろに飛ばされ、血を流しているが軽症だ。
 何が起こった? 初めてだ、人間を摂り込もうとしてできなかったのは。試しに老いた男に指を入れてみると、

「うわあああぁぁーッ!」
「じいさんッ……!」

 やはりすっと入る。なぜだ? なぜあの男は喰えなかった? 活きが良すぎるからか?

「野郎ッ……! じいさんを離しやがれッ……!」

 もう一人の男を摂り込めるかどうか確かめようとしたが、

「波紋をブン流してやるッ!」

 邪魔された。血を流した男は、手負いの猛獣のように襲いかかってくる。

 バチッ、バチッ、バチッ……

 まただ。弾けるような音と、ぴりぴりとした感触。空気を裂く光が、皮膚のうえを這う。周囲の血溜まりを湧かせている。  おれは男を摂り込めない。おれも男も、互いに傷つけることができない。反撥。互いの性質が、反撥しているのだ。
「こいつには波紋がきかねぇッ!」

 "波紋"。度々人間が口にしている言葉。波紋というのが、あの光の名前か?

「くっそー! とんでもねぇぜ! なにか方法を考えなきゃあな!」

 観察が必要だ。どのような条件で、どのような構えで、それが出てくるか。

「うあッ」
「やつの指がッ!」

 まずは、男の手以外から波紋が出てくるのか――いや、出てこない。こちらに意図的に波紋を放つには、手をかざす必要があるようだ。

「眼に蹴りを入れてやるぜ!」

 修正。男は足の指先でおれの眼を狙ってきた。やろうと思えば、身体の先端から波紋を出すことができるようだ。ということは、

「にゃ、にゃにぃーッ!? 目ん玉までゴムのようだーッ!」
「まずい! ジョジョ逃げろッ!」

 波紋というのは、この男の身体中を巡るちから。身体中を巡るものは、血。血を巡らせるのは、呼吸。ならば――

「ぐあッ!」
「ジョジョォーッ!」

 ならば、呼吸を阻害すれば波紋が止まるはずだ。

「ジョジョーッ! 波紋の呼吸をしろーッ!」

 正解。肺と肋骨あたりを砕いた男の身体は、おれに溶け込んでいく。
 ずっとそうだ。ずっと昔から、喰われようとする人間が全力で刃向かわないことはなかった。生贄として捧げられてもなお、最期になって必死の抵抗をしないことはなかった。しかしそれらはすべて、無駄だった。泣いて命だけはとすがっても無駄だし、交渉が通用しないとわかって逆に襲いかかろうとしても無駄だった。

「ジョジョォォーッ! 波紋のッ! 波紋の呼吸をしてくれーッ!」

 強さ。生物としての強さが違うのだ。兎を殺せない狼がいるか? 兎を喰おうとして、逆に兎に害される狼がいるか? 否だ。決してありえない。なぜ? なぜなら、生物としての位が異なるからだ。

 ――それでもわたしはいや! 絶対にいや!

 そういえば、しかし、彼女はそれを嫌だと言っていた。人間を喰うほうが、植物やほかの動物を喰うのよりもずっと効率が良い。そう言われたとき、それを知ってもなお、絶対に、どうしても、喰うことはできないと、彼女は言った。慣れれば簡単なことなのに。抵抗されるのが怖いなら、こうして黙らせてから喰えばいい。なぜ嫌なのだ、とあのひとが問うと、彼女は――

「だめだ! もうこうなったらこの屋敷をヤツごと爆破するしかないッ!」

 いや、黙らせたはずのこの人間、なんとなしに、違和感がある。波紋とやらを使うからか? なんだ、この、完全に沈黙したものを喰うときとは違う、かすかな……

「待てシュトロハイム! あわてるんじゃあねーぜ!」

 大きな塊が得意げに喋りだす。違和感、それは、やはり、この男、この男は! こいつは気絶などしていなかった! あぁ、あ、引き裂かれる、おれの、おれの身体が……

 ――だって、わたしたちは、"同じ"でしょう? 生きる長さが違っても、身体の丈夫さが違っても、わたしたちは、みんな……

「くらえッ! 波紋をーッ!」

 ――みんな、勇気をもつ生きものなのだから……

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