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 広大な芝の緑に映える白亜のペディメントの下には、朝から大勢の人が詰めかけていた。とはいっても、その建物の玄関口は人々が30、40人ほど集まったとしてもまだ広く、ペディメントがそびえる部分が占める面積は、全体の3分の1にもならない。新古典様式の長方形の箱は端から端へ行って帰って来たなら数分はかかるだろう幅に、地上に見えているだけでも高さは5階建てで、さらに地下にもいくつもの部屋を備えている。
 昇ってからずいぶん経つ日は白い壁に反射して、遠くからでも人の目を惹く。芝の上は休日や昼時なら子どもらの遊び場になったり婦人たちの憩いの場になったりするのだが、今日の人々は、そうではないある目的のために、ここに集っていた。

 人だかりの多くは男、ちらほらと女もいる。男はエルボーパッチのついたくたびれたジャケットを着て、ハンチング帽を深くかぶる。女はAラインのコートの前をぴったり閉めて、クローシェ帽を頭に添わせている。彼らは大きなレンズが組み入れられた正方形のカメラをそばに立てて、手には角が丸まった使い古しのメモ帳やしわになった新聞を持っており、皆、閉じられた大扉の前で何かを待つようにしてじっとそこに立っていた。

 彼ら記者たちが求めるのは、この広壮とした堂の主、ロバート・E・O・スピードワゴンについての情報だった。
 今日、財団からの正式な発表があると聞いて、彼らはやってきたのだ――財団の設立者、スピードワゴン会長がメキシコで行方不明となっている事件について、現在判明しているだけの情報を得るために。しかし、先ほど発表会見の予定時刻を少しばかり過ぎたころに、一度疲れた顔をした職員が出てきたかと思えば、「もう少しお待ちください」と言葉尻を弱くして、また引っ込んでしまった。その様子を見て記者たちは、今回の会見で何をどこまで、どのように発表しようかという方針が、職員間でもいまだに一致していないのだろうと察した。

 しかし、それは記者たちにとってでさえ、已む無しと思われた――なにしろ今回の事件は、あまりにもいろいろな要因が絡みすぎていているのだから。

***

 この財団は、スピードワゴンが自身の一生をかけてでも使い切れないほどの金を元に作った組織だ。スピードワゴンはロンドン時代の数人の友人を伴って、20世紀をまたぐ10年ほど前、テキサスの太陽が強烈に照りつける砂漠の採掘事業を始めた。テキサスの都市ガルベストンの港が元は綿花の貿易港の大手だったことからジョージ・ジョースターがこの地の開発に目をつけていたのだが、彼がその事業を始める前に他界、その息子ジョナサンも早世したために、ジョナサンの親友だったというスピードワゴンが種々のことを引き継ぐことになったのだ。
 世紀が終わる直前に、スピードワゴンたちはついに油田を発見した。この発見がテキサスの石油ブームの先駆けとなり、それからフォード・T型の大量生産と石炭からのエネルギー転換の波に乗じて、「スピードワゴン・インダストリアル」は「スピードワゴン・オイル・カンパニー」となった。
 そうして膨大な財を元手にスピードワゴンが設立したのが、いまや合衆国有数の財団であるこの組織だった。研究部では主に医療技術の開発や実験、臨床もやっていて、その知見を応用する研究所や病院も合衆国内に点在している。一方事業部は世界各地の文化的遺産の発掘と保存の活動を行っていて、エスノセントリズムに批判的な学徒が研究員として在籍し、これまでいくつかの発掘調査に参加してきた。

 しかし遺跡の発掘調査は、近年の国際情勢の再悪化に伴い中断せざるを得ないケースが増えてきていた。その最たる例は、イタリア・ローマでの古代遺跡の発掘だ。これは第一次大戦の惨憺たる有様からヨーロッパがやっとのことで回復し始めたころに開始され、最近までは順調に事が運んでいた。合衆国出身の財団や調査隊たちの主義信条は、もちろん国家ファシスト党のそれとはまったく反りが合わなかったものの、国民意識を統一し高揚させる「イタリア固有の伝統文化」の発見それ自体は、独裁政権下の世論にはむしろ歓迎されるものだった。それで1920年の半ばまでには、財団はかなりの程度自由にイタリア国内やイギリスの考古学者たちとの協同で、ローマを中心にポンペイやタオルミナにまで事業の足を伸ばし数々の遺構や遺物の発見を達成していた。
 しかしながらこのような状況は、そう長くは続かなかった。
 1929年、ウォール街から始まった恐慌。この凶事は、単に大戦後の好景気の終焉を無情に告げただけではなかった――それはヴェルサイユ体制化の矛盾を孕んだ平和維持を、ついに崩壊させることにもなったのである。

 1933年、イタリア・ファシズム政権による独裁と抑圧を受けて、財団理事会はイタリアでの活動を中止を要請した。調査員たちは、発掘途中となっていたローマの遺跡への心残りを必死に抑えて、帰国することになった。特にフォロ・ボアリウム地区にある古代の水路図は完成を目前にしていたので、皆ままならない世情を憂いながら、帰路についたという。

 これ以降は、事業の注力がヨーロッパ以外での調査へと移されることになった――それで始まったのが、メキシコに遺された文明の跡、これを調査し開拓するという仕事だった。

 1935年、事業部は新たなアステカの遺跡を、メキシコ中央高原の南部に発見した。
 その遺跡のしるしは、太平洋へと続くリオダダ川沿いの密林の奥に、ひっそりと眠っていた。発見の経緯は、ごく単純なものである――メキシコ担当の一グループが、中央高原での活動を開始してすぐのころだ。ある地域の村民に聞き取りを行ったところ、何人かの者が「スペイン人が来る前からあって、運良く疫病からは逃れ、100年ほど前まで続いていた集落が近くにある」ということを口にした。調査員が詳しく情報を聞き出そうとすると、100年も昔のことだから誰もたいていのことを覚えておらず、集落があった場所のだいだいの位置しか知れなかった。しかし村民のなかの、その集落の者を先祖にもつ者たちが、「人のかたちに見えるような木には触ってはいけない」という奇妙な教えが親から子へと伝えられている、ということを話した。そしてもし触ったら、その夜木に封印されていた魔物が姿を現し、触った者を襲って食べてしまうのだという。こんな話を聞かせたあとに、森は怖いんだからアンタも入らないほうがいいよと、調査員に忠告する者もいた。
 すっかり人影の絶えた集落はすでに地図上からも消えつつあり、もう家屋や畑の姿は森の木々の勢いに負けて見えなくなってしまっている。しかしそれでもなお、この教えだけは親がやんちゃな子どもたちに聞かせる寝物語として、いまの村民にも伝わっているようだった。人のいなくなった森の、その先に踏み入ることへの恐怖と絡みついて、いまでも高齢の村民などは樹齢の高そうな、しわを深く刻んだ幹にはあまり近づきたがらないのだという。

 集落のだいたいの位置を聞いてそこに行ってみると、やはりただ多少開けた土地が広がっているだけで、そこにかつて人が住んでいたのだということだけを伝えてくる景色になっていた。スペイン人が来る前からあったらしい集落なので調査員たちも期待しつつさらに周辺を探索してはみたが、特にこれといった遺跡や遺物の証拠もなかった。

 そうして調査を終えて事業部会議で結果を報告すると、同席していた職員のほとんどは「変な民話もあるものだ」と言って笑った。マヤ、あるいはアステカが栄えたという根拠を示す土地なり遺構なりは他にもいくつかあって、この調査報告は、あの集落周辺を優先的にさらに調べるという方向へと動機づけるものではなかった。
 じゃあ次の報告を、と事業部長が指図すると、隣で険しい顔をしていた男――会長スピードワゴンが、黙ったまま手をわずかに上げて制した。「人の、かたちに見える木?」そして念を押すように、そう訊いた。

「えぇ、はい。村民は、木に魔物が封じられているのだと言っていました」
「魔物とは? 見た目が人に似ているということか? なぜ木に封じられているのだと?」
「えぇと……」

 報告した職員は、鋭く飛んできたいくつかの質問に、順に答えようとした。しかし組織のトップを務めるこの老人が、こんなふうに続けざまに喋るのを見たことがない、それどころか、このように直接会って話したことも多くはなかったから、焦って資料をぱらぱらとめくっては口ごもった。「会長?」と隣の事業部長が上司の顔色を伺う。
「もしや、これは……彼女が言っていた……うむ……」
 しかしスピードワゴンは口元に手を当てたままぶつぶつと独りごとを言い始めた。どうしてしまったのかと周囲は顔を見合わせる。「あの、会長?」事業部長が、スピードワゴンに再び声をかけた。すると、
「この件、もっと調べる必要がある。いますぐに調査チームを再編するぞ!」
 老人は顔を上げると、眉間のしわをさらに深く刻み、奮然としてそう宣言した――このような始まりが、会議にいた数人の職員の口からは語られた。

 このひと声を受けてすぐに、事業部は多くの人員を招集して、森の奥に消えたアステカの遺構を再び探す調査を実施した。1935年、メキシコ国内の政治的混乱をかいくぐり再び中央高原へとやってきた調査隊の隊長の椅子には、スピードワゴン自らが座ることになった。

 1935年、重機械を用いた徹底的な探索の末に、件の集落があった位置からさほど遠くはない場所に、アステカの文明を示す遺跡の入り口が発見された。欧米の考古学者や地元の村民たちとの共同作業で遺構の周辺は開拓され、埋まっていた遺物や墓の跡が丁寧に掘り返されていった。
 1937年の半ばになってようやく、遺跡の全容が露わになった。その遺跡は切り出してきた岩によって頑丈に作られているために、建設されてから少なくとも300年ほどは経っているというのに内部の保存状態が良いままだった。
 祭事道具や武器はもちろん、共同体の主導者のものと思われる墓や、そこで生贄を捧げたのだろう祭壇や壁に掘られた文様までが、たしかなかたちを保ったまま遺っていた。調査隊員はそれぞれに、この偉大な発見を喜んだ。考古学の歴史に自分の名前が載ること、博物館の展示品の横に自分の写真が飾られることを、皆が夢見た。

 しかしあるとき、それら遺物のなかに、人の顔をかたどった仮面が発見された。仮面があったという報告が調査隊長スピードワゴンにまで伝わると急に、遺跡の脆い構造が見つかったからなどという理由で、人の立ち入りが制限されるようになった。調査隊員は当然、この遺跡がそう簡単には崩れることのない造りになっていることや、事故防止のための措置をじゅうぶんにとっていることを知っていた。納得のいかない理由で隊から離脱されられることに不満をもって上司に直訴する者もいたが、それでも上の決定は変わらなかった。

 そうだというのに人数の減った調査隊には、このあとすぐに、なぜか一人の女が加わっていた。女は黒い服に黒い帽子、それに黒い布で顔のほとんどを覆っていて、隊員には何も知らされないままにそこに現れた。スピードワゴンはその女を「自分の遠い親戚だ」とだけ紹介し、彼女は作業に加わるなり慣れた手付きで石仮面を外へと運び出し、車の荷台にどんどん積んでいく。何も知らされていない隊員がどこに保管するのかを訊ねると、一度メキシコ国内の化学研究施設で分析をしてから、合衆国へ運輸するのだという。このことは遺物処理の計画にはなかった行動だったが、スピードワゴンがその女に対して重く信頼を置いている様子だったので、誰も彼女の行動を不審には思わなかった。

 それから発掘が進むと、遺跡のさらに奥に、大きな空間があることがわかった。人手は少なくなっていたので、その空間への道を整備するのにはこれまでの倍以上の時間がかかった。1938年の11月の初めにやっとのことで遺跡の入り口からの道を繋げると、その広い間には大きな木の幹のようなものが一本立っていた。
 しかしその報告がスピードワゴンにもたらされると、今度はたちまち調査が急遽取りやめになり、隊員たちのほとんどは遺跡に一切の関わりをもつことを禁じられてしまった。前回の人減らしと違って今回は、隊員に理由の説明すらされなかった。ただ、これまでの働きに応じた報酬がじゅうぶんすぎるほど与えられ、スピードワゴン自らが隊員たちをねぎらって、帰国の準備を促した。
 ある隊員は、最後まで働きたいとしつこく訴えた。するとスピードワゴンがだんだんと不機嫌になって、これ以上は機密事項だからと言って冷たく突っぱねられてしまった。しかしやっぱり彼の隣には1年ほど前に急に現れた、スピードワゴンの親戚だというあの女がいて、「残念ですけれど、これ以上は危険なので、あとは別の者が引き継ぎます」と言って申し訳なさそうにしていた。
 それなのに隊員たちが渋々合衆国へ帰国するころになって、また見知らぬ人物が3人、入れ替わるようにして現れた。その3人はいずれも体格の良い男たちだったが、発掘事業に関わってるような学者や調査員とは全然異なるたぐいの雰囲気をまとっていた。結局現場に残ったのは、スピードワゴンと2人の発掘隊員、新たに来た3人の頑強な男たちと、スピードワゴンの親戚だという1人の女だけだった――


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