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 わたしたちはいつも、月の下で遊んでいた。

「あー! あったぁ! ねぇこっち来て! あったよ!」
「えー見つけちゃったのぉ?!」
「こっち全然ないんだけどー」

 月の光は、わたしたちの瞳にちょうど良いのだ。真っ暗がりでも遠くが見える、闇のなかでも色彩を感じられる、この瞳には。

「うわぁ! え、ほんとだ、ほんとに6枚になってる!」
「ねー! 初めて見たねぇ」
「どこから生えてたんだ?」
「えーとね、ここ!」
「ここ?……他のはフツーの花びらだな。5枚になってる」

 それに、月はいつも表情を変えるから面白い。あるときは大きくて赤い土の色なのに、あるときは小さくて、わたしの髪と同じ色。まんまるになったかと思えば、半分になって、すごく細くなって、そして気がつけば、またまんまるになる。

「じゃあ、今日もわたしの勝ちね!」
「だめだ! おまえばっかり勝ちすぎだ! もう一戦やるぞッ!」
「そうだよう、またぼくらの負けじゃ怒られちゃうよ」
「ええー、しょうがないなぁ。じゃあもう一回! ま、どうせ次もわたしが勝つもんねー」
「言ってろー! おまえは次あっち! おれはここ探す!」
「ずるーい! ぼくだってここで探したいよぉ」

 月は優しい。夜のなかで、星と一緒に、わたしたちを見てくれている。半分のときも、すごく細くなっているときも。いちばん明るく空にあるときも、雲を従えているときも。いろんな顔をしながら、月は夜のあいだじゅうずっと、わたしたちを見てくれているのだ。

「あー、そろそろ帰らなきゃなぁ」
「え、もう? あーあ、まだ決着ついてないのに! ね、もうちょっと遊ぼうよ、もうちょっとだけ」
「だめだよう、朝がいちばん怖いんだから! 山の向こうがあの色になったら、もう帰らなきゃ」

 でも、太陽は嫌いだ。
 太陽は、勝手に照らしてきてはわたしたちをいじめるから。草や木や、花や虫たちばっかり贔屓にして、わたしたちにはひどいことばかりするから。

「じゃあ帰り、誰がいちばん早く着くか競争な! おれいっちばーん!」
「あッ待ってよ! わたしもーッ!」
「もう二人ともッ! 置いてかないでよおー」

 そう、わたしは太陽が嫌い。嫌いだった。
 でもそれでよかった。
 だってわたしには、わたしたちには、月があるから。優しくて穏やかで、じいっと見つめると見つめ返してくれる、月があるから。

「あーもう! はッ、また、負け、たぁ……! はッ……はッ……足痛い……」
「おまえは、はぁ、おれには勝てないよ、は、足の、速さではッ……」
「はー疲れたッ、……二人とも……速すぎるよう……はぁ……」

 わたしたちは月の下でだって、たくさん遊べるから。それだけでじゅうぶん、楽しいから。
 太陽なんかに頼らなくたってみんなでいれば温かいし、夜は空にも海がある。風は遊んだあとのほっぺたを冷やしてくれるし、夜の虫の声のほうがずうっときれいなのだ。

「おーおまえら。ギリギリだったな」
「おまえたち、また走ってきたのか。いつも言っているだろう、もう少し余裕をもって帰ってきなさい。これからは朝が来るのが早くなる。向こうの山の麓には行かないように。山に近づきすぎると朝が来るのに気づけないからな」
「はい」
「はぁい」
「はーい」

 だから、このままでいい。このままがいい。
 わたしたちは、月と一緒に、夜に生きている。それだけでいい。それだけでいつも楽しいし、温かい。

 だから、このままでいい。このままずっと、こうして遊んで、笑って、みんなで過ごしたい、それだけでいい。それだけでよかった。

 それだけで、よかったのに。

***

 あのころに戻れたことが嬉しくてまだ遊んでいたかったのに、目が覚めつつあるときになってやっとわかった。あれがただの夢だったのだということが。いつか必ず覚めるべき、まぼろしだったのだということが。
 夢なら仕方がない。時間というのは一方的に流れていくものなのだから、あのころに戻れるわけがないのだ。というかそもそも、戻るつもりもない、そのはずだったじゃあないか。

 でも、どうして昔のことなんて夢に見ていたのだろう。夢なんて、普段は見ないはずなのに――

「――何だ――は――ひどい――だ」
「――が倒れてい――ないか! おい衛生兵! こっちに――」
「いやもう――でいるんじゃ――」

 夢から覚めたかと思えば、いつも耳にしていた言語とは少し違う、誰かの、それも複数の人たちが喋る声が、遠くから聞こえてきた。

「くそッ、いったい何が――」
「――の数は――人か――」
「ひとまず――しよう――では――ないだろう――」
「それなら――しないと――」
「無駄だ――だってこいつら――じゃあないか――」

 まだ空気中に漂うすべての言葉がわかるほど、頭は澄んでいない。雑音と雑念とが頭のなかでごたごたに混ざり合って、ここはどこなのか、いつなのか、いま自分が何をしていたのか、そういったことをはっきりと考えることができなかった。

「うわッ――もひどい――なってきた――」
「おい吐くなよ――なる――が――」

 近づいてきた何人かがどんなことを喋っているのか、よくわからない。頭がはっきりとしない。
 わたしははなぜここにいるのだろう。なぜ横たわったまま身体が動かず、頭もぼうっとするのだろう。起き上がりたい。でもできない。意識は水面に近づいてきたというのに、まだ身体が追いついていない。
 そうだ、ちゃんと息をしよう、そう思って口から肺に、できる限りの息を入れた。するとむせてしまった。ごほごほと痰の絡んだ咳をすると、口のなかにあったのか、それとも身体のなかから出てきたのか、赤の混ざったものが出てきてそこらに飛沫が広がったのが、ぼんやり視界のなかに見えた。

「おい! 一人――してるぞ!――持って――早く!」
「――だ! 女が――」
「早く――!――」

 誰かが、わたしのそばに寄ってきた。人影の顔は、霞んだ視界では朧気にしか見えなかった。大丈夫か、おい、と声をかけられたけれど、「大丈夫か」という言葉の意味も、ぼうっとした頭では考えられなかった。

「持ちこたえろよ、すぐに戻るから」

 その言葉が聞こえたかと思うとすぐに、人の影はまた遠くに行ってしまった。
 もう一度、口から息を吸う。身体中がきしんで痛かったけれど、今度は咳き込まなかった。よしもう一度、今度は鼻から大きく息を吸って――そう思ったのに、できなかった。この空気を吸うことを、身体が拒絶した。周りで何が起こっていたのか、そのことについての嗅覚からの知らせが、再び息を吸うのをためらわせた。なぜなら――ひどくにおって、どうしてもこの空気を鼻に、肺に、入れたくない、そう思うくらいひどいにおいだったから。

 嗅覚からの強すぎる刺激が、少しは頭を覚ました。げほ、げほ、げほ、と何度も咳き込んだ。あまりにひどいにおいのせいで、何も入っていないはずの腹から、強烈に嫌な味のする液が少しだけせり上がってきた。苦しくて視界が霞む。鼻で息ができないけれど、痰の絡んだ喉から目一杯空気を入れた。だんだんと、頭が覚醒してくる感じがする。
 苦しくてこみ上げてきた涙を落としながら、何度も瞬きをする。そうすると涙が視界を洗ったようで、眼を動かせばあたりの様子が見えるようになってきた。
 ここは薄暗く、陽の光は向こうの入り口から差し込むぶんだけだ。虫の羽音がうるさい。蝿だろうか、何匹も顔や腕に止まってはすぐに離れていく感覚がする。

 そのほかにわかったのは、目の前の薄暗い空間にただ横たわるものが、いくつか並んでいるということだった。

 ――この者たちはいま、私が殺した――

 その動かないものが何なのかということを認めてやっと、自分が最後に見たものの断想が、脳裏で再生された。

 ――あなたも抵抗しなければ、痛みなく殺そう――

 いったい何をやっているの、どういうつもりなの、と問いただす暇もなく、彼がこちらに刹那のうちに近づいたかと思うと、首元に鋭い衝撃が来て次の瞬間には、自分の身体が勝手に倒れていった。

 わたしは思い出した。あぁそうだ、このにおいは、人だったものの、腐ったにおいだ。
 あの瞬間に起こったことと、こうして自分が痛みのなか横たわっていたこととの因果を、ようやく思い出した。しかも、これはたったいまそうなったものではない。風の通らないこの洞窟のなかで淀み蒸されて、この世に存在してはいけないくらい、ひどいにおいになっている。

 ――そんな目で見ないでくれ。あなたには……あなたたちには、わかるまいよ、私がどれだけ、怖かったかなんて――

 わたしに向けられた視線を、言葉を、はっきりと思い出した。
 ストレイツォ、彼が裏切ったのだ。不老と不死へのあこがれを口にしながら、彼はわたしを殺したのだ。

 ――血迷ったか、ストレイツォ――

 辛うじて発せられたような、弱々しいその声を聞いて、ここに残るだろう生者はストレイツォだけなのだと悟った――いや、彼はもはや生者ではなかった。生を捨てて、老いと死を受け入れることも拒絶した、人ならざるものになってしまった。
 ほとんど力の入らなくなった手で、首を押さえた。最初に感じた鋭い痛みは身体の感覚を奪い去って、もうどこがどのくらい痛いのかもわからない。彼を止めたいのに、身体が動かない。目は開いているはずなのに、見えているもののかたちも、自分自身の在るところも、わからなくなっていく。限度を越えた痛みはもはや痛みではなかった。意識は何もない場所へと消えていく。それを感じながら、もうどうすることもできなかった。わたしはそのまま、自分を失ったのだった。

 自分が殺された記憶は、頭を冷やした。やっと、呼吸が整ってきた。
 ここがどこなのかはわかった。いまがいつなのかは、だいたい予想できる。わたしは倒れていて、いま目覚めた。そしてこれからやることは、ここから逃げることだ。

 力の入りにくい身体に無理をいって、なんとか起き上がる。しばらく動かしていなかった身体はひどくきしんで、力が入らない。できるだけ鼻から息を吸わないようにして、立ち上がる。膝を叩いて、どうにか踏ん張った。

 あのドイツ語を話す兵士たちには、見つかるわけにはいかない。保護されたとしても、この惨状の理由を訊かれても答えられない。なぜわたし一人が「生き残った」のかということだって、答えられるわけがない。

 わたしたちの計画はすべて失敗したのだ。そう自覚すると、悲しさなのか悔しさなのか、自分でも分別のつかない感情で顔が歪むのがわかった。それは振り出しに戻ったどころではない、こうして関わった人たちの命が失われ、これまで準備してきた何もかもが、もう意味を失ってしまったのだ――ただ、この「柱にあるもの」を除いたすべてを。

 それでも、逃げなくては。一刻も早く拠点に戻って、ストレイツォが吸血鬼となったことを知らせなければ。そして、スピードワゴンさんが死んだことを、伝えなければ――とそこまで考えて、周りを見渡した。
 彼の遺体がない。そこにいたのは波紋使いの2人と調査隊の2人のなきがら、それに彼の荷物や手記だけで、彼本人がどこにもいなかった。よく見ると、乾いた血溜まりに何かを引きずったような跡がある。ということは、彼もなんとかここから逃げ出せたのか、あるいは――

「――だ! 一人だけ――だから―」
「一度――しよう――これじゃあ――だろ――」
「どうして――んだ――なのに――」

 また向こうから、ドイツ語の話し声が聞こえてきた。声の数が増えている。さっきよりも多くを連れて戻ってきたようだ。

 逃げるならいましかない、スピードワゴンさんがどうなったかを考え込んでいる暇はない。
 荒い呼吸をできるだけ抑えて、ふらつく足をなんとか前へ、前へと動かした。見つけ出すのにも掘るのにもあんなに苦労したこの洞窟が、今回だけはわたしの味方だった。

 最後にもう一度振り返る。声は出さずに、口だけを動かして言った。

 ここまで一緒に来てくれた、けれどもう動かない人たちに――ごめんなさい、きっと連れて帰るから、と。

 そしてその奥で、柱となって動かない彼に――どうかそのまま、そこで眠っていて、まだ目を覚まさないでいて、と。


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