For Robert E. O. Speedwagon


 目蓋の裏に、何度も何度も、あの水平線の上を進む船の姿を思い出す。

 もしも、あのときに戻れるのなら。
 あのときに戻って、船に乗り込もうとする彼らに、無理にでも一緒について行っていたなら。
 昔の自分のように何も信用せず、何も信頼せず、どこまでも気を尖らせて、船でこれから何が起ころうとしているのかに気づけていたなら。

 何度も何度も、あのときに戻れるならなんだってする、代わりになんだって差し出す、たとえ自分の命だとしてもと、泣いて願った。神なんて信じていないどころか、つばを吐きかけたこともあったのに、こんなときだけ何度も目をぎゅうっと瞑って、手を胸の前で組んで、願った。
 あの人が生きていてくれるというなら、あの人たちの日常が帰ってくるなら、自分が死んだって構わないと思った。

 でも、目を開けたあとにあるのはいつも、さっきと変わらない、あの人だけがいなくなった景色だった。
 自分のいちばんの願いが叶わないのが、神が意地悪だからなのか、それともそもそも神なんていないからなのかは、わからない。けれどどちらにせよ、願いは届かないのだとわかったときにふと頭が冷えると、いつも虚しさが押し寄せる。それは、「もしもあのときに戻れるとしたって、自分にはいったい何ができただろう?」そんな無力への絶望だった。

 あの人や彼らのように、波紋を使えるわけではない。彼女ほど、身軽なわけでもない。自分にできることは、戦いそのものというよりも、戦いのための準備、せいぜいそのくらいだった。
 あの戦いでだって、思い返せば彼らに何度も助けられた。彼らは何度も自分をかばって、代わりに傷ついた。口だけは達者に、足手まといになる気はないと言っておきながら、結局あの戦いでは救えなかった命のほうが大きかった。
 これからも、戦いは続くのだ。怪物を生み出すあの仮面を壊す。怪物になってしまった者を壊す。これからも血は流れ、傷つき、命を失うことすらあるかもしれない。戦いは続くというのに、守りたいものを守れるくらいには強くなれない。そのことはもう、痛いほどわかっている。

 あの人だけが、光だった。何が善いことなのか、何が悪いことなのか、何が自分のできることで、やるべきことなのか。そんな多くのものが見えないままに、自分のことだけを考えてひたすらに生きてきた。あの人だけが、その暗闇に初めてしるべを示してくれた、光だった。

 なのにまた、何も見えなくなってしまった。あの光があったから、正しいことを、善いことを成す道が見えたのに。光は消えて、また自分は暗闇に戻ってしまった。暗闇のなかで、自分の手や足がどこにあるのかもわからない。どこに進めばいいのかもわからない。

 目を閉じて、あの人の姿を思い出す。
 あの人は、苦しまずに逝ったのだろうか?
 あの人は、さいごに何を思っていたのだろうか?

「――スピードワゴンさん」

 あんなに大きな背中で、あんなに強い手のひらで、あんなに優しいまなざしで、あの人がいまここにいたとしたら、自分に何を言ってくれるだろうか?

「スピードワゴンさん」

 こんなに情けなく、涙が止まらない自分のことを、叱ってくれるだろうか。何もできずうじうじしているこの手を引っ張り上げて、外に連れ出してくれるだろうか――いやそれとも、優しいあの人のことだから、きっとその大きな手で、そっと肩を叩いてくれるのだろう。そしてきっとその手は、驚くくらい温かいのだろう。

「スピードワゴンさん」

 ――あぁ、もう一度、もう一度だけでいい。あの人に会いたい。もう一度だけでいい、進むべき方向を示してほしい、「君ならできるよ」そう言ってほしい、「見守ってるから」その言葉だけでもいい、声が聞きたい――

「スピードワゴンさん!」
「……ッ!」

 その声にびっくりして、ぎゅうっと瞑っていた目が開いた。目の端から涙が一粒、頬を伝って落ちていった。後ろを振り向くとニナさんがいて、眉を寄せてこちらを見ていた。

「あ、すまねぇ、……ちょっと考え事をしてたもんで……」
「……スピードワゴンさん……」

 手の甲でごしごしと目をこすった。泣いていたことを見られたのが恥ずかしくて、顔をそむける。「どうしたんですかい」声に鼻水が混じるのを自覚しながら、そう訊いた。

「チベットから手紙が届きましたから、一緒に読もうと思ったのですが……」
「あぁ、トンペティさんからか。今回は早かったな」そう言って立ち上がり、閉め切っていた部屋のカーテンを開けようとして、しかし気づいた。「あ、全部は開けないほうがいいよな」
「あ、ええ……」
 ニナさんは気の抜けた返事をして、こちらを心配そうな目で見つめた。その視線に気づかないふりをして、手紙を受け取る。部屋には少しだけ開けたカーテンから、午後の光が差し込んでいる。その光を頼りにして、手紙をそれぞれで読んだ。そこには、この世に残る石仮面と、ロンドンに隠れているかもしれない屍生人の破壊の行程について書かれていた。

「……うん、そうか……。そうだよな、たしかにエリナさんの出産が終わってからのほうがいいかもしれねぇが……」
「そうですね。だとすると早くても来年になってから……しかし真冬に山を下るのは危ないでしょうから、春になってからのほうがいいかもしれません」
「春……いや……いや、でもよ、……」

 手紙には、イギリスのジョースター家を拠点にするなら活動を開始するのはエリナさんの出産後、多少落ち着いてからのほうがいいのではないかと書かれていた。しかしそうすれば、早くても動けるのは来年になってしまう。

「こうしてるあいだにも誰かが……誰かが石仮面に触っちまったらッ……もし屍生人がどこかに潜んでいて、人を喰っちまってたらッ……」

 来年の春にやっと動けるようになるのでは、遅すぎるのではないか?ーー頭の中で、あの戦いの惨状が断片的に繰り返される。無残な姿になって死んだ、たくさんの人たちの姿が。

「待てるわけがねぇッ……いますぐにでもッ、動き出さなきゃあならねぇのにッ! あの人だって……ジョースターさんだって、そう、言う、はずだぜッ……」

 呼吸が速くなる。心臓がばくばくと音を立てて、上手く息ができない。顔がくしゃくしゃになって、涙で視界がゆがむのを感じた。もう立っていられなくて、さっき座っていた椅子に倒れるようにして腰かけた。

「スピードワゴンさん! 落ち着いて……落ち着いてください」

 大丈夫ですから、落ち着いて。ニナさんはそう繰り返しながら、屈んでおれの背中をさすった。ゆっくり息を吸って、吐いてください。そう言われるのに従って、涙は溢れてくるままにして、何度かできるだけの深呼吸をする。

「掘り返された石仮面については、わたしたちは場所を把握しています。どれも、下手に人が触れられないところに、保管されている」
 ニナさんに擦られる背中に、温度を感じる。それでもふるえて強張っていた肩や胸からは、力が抜けなかった。
「そして少なくとも、あの地にいた屍生人はみな気化できたはずです。それはあなたが一番良く知っていることでしょう」

 そう、そうだった――ウィンドナイツ・ロットでディオの配下となった屍生人――あの町の元住人については、おれは誰がいなくなってしまったのかを把握したじゃあないか。そしてその人数は、たしかにトンペティさんたちが気化させた者の数と一致しているのだ――だんだん呼吸が整っていくと、そうやって少しは冷静に考えられた。こんなに動揺して、涙まで流して、情けない。あの人が見たら、きっと呆れさせてしまうだろう。

「残る石仮面については……各地の遺跡を調べるのには相当な時間がかかります。これについては、焦ってもあまり意味がない……」

 ニナさんは言葉尻を濁した。背中をさすってくれていた手が止まる。おれはニナさんを見上げた。

「それに何より、資金が……もう、ないのです」
「…………」

 その言葉を聞いたおれも、何も言えなかった。この戦いで失われたのは、燃え上がったジョースター邸だけではないのだ。ディオが吸血鬼となった夜に死んだ警官たちの、遺された家族。ウィンドナイツ・ロットで屍生人となった者たちの、遺された家族。あの人は、そんな遺された人たちに、できるだけの援助を申し出た――彼らが死んだのは、あの人のせいではない、あのディオのせいだというのに。

「…………」
「…………」

 沈黙が、重く横たわる。まず何から始めればいいのか決めることさえ難しいのに、決めたとしても、「金」という問題はずっとついてまわるのだと痛感した。これから石仮面をめぐってやらなきゃならないことをすべて終えるまでに、いったい何年かかるのだろう。先が見えない。先が見えなくて、怖い。恐ろしい。不安だ。あの人だったら、きっとそれでも明るくいてくれるだろうに――

「しかし、あてはあります。ジョージ様が考えていらっしゃった事業については、わたしも少しは知っています」
 ニナさんが沈黙を終わらせた。俯いていたおれに目を合わせて、そう言った。
「……アメリカの……」
「はい。アメリカの採掘事業です。……ジョナサン様も、きっと資料をのこしてくださっています」ニナさんは、ジョナサン様、と言うときに、少しだけ目を伏せた。「だからまずは、そちらの準備をしましょう」
「ジョースター、さんが……、のこし、た……」

 おれは、あの人の名前を口にするだけで精一杯だった。心では、鬱陶しいと思われるんじゃあないかというくらい何度も呼びかけているというのに、どうしても口に出すことができなかった。だって口に出してしまえば、それは必ず「過去」についての語りになってしまう。それはどうしても嫌だった。あの人のことを、過去のことと結びつけたくないのだ。だってそんなふうに語ってしまったら、本当に願いは叶わなくなるような気がするから。あの人がもういないのだということが、本当にほんとうのことになってしまうような気がするから。
「…………」
「…………」
 それからニナさんと一瞬目が合う。何も言葉は交わさないが、ニナさんはおれの考えていることをわかっているのだと思った。それからおれができたのは、ただ黙って頷くことだけだった。

***

 心はあの日から何一つ動いていないというのに、景色は――あの人がいた場所がぽっかりと穴の空いた景色は、そんなことも知らずにどんどん変わっていく。イギリスの短い夏が終わると、朝晩の地平線は冷えた霧に包まれるようになった。

「スピードワゴンさん、ちょっとお願いしたいことがあるのですけれど」

 その日は、デイビスさんに用事を頼まれた。屋敷の半壊後、使用人の数を減らしたジョースター邸では、おれも立派な雑用人の一人だった。でも、エリナさんの友人というだけでここに置いてもらっているのだから文句はないし、あるわけもない。
 デイビスさんは、前の家政婦が年で引退してから新しく来た人だ。この屋敷に務めて7年ほどにもなるが、それでも家政婦としては新人といってもいいくらいだ。だからなのか、他の人と違って突然泣き出したりしないし、つらそうな顔を見せることもあまりない。いつもてきぱきと、当主がいないこの屋敷の采配を取っている。おれには、そのように思われた。

「わかりやした。どんな用事です?」
「町の方で、買ってきてほしいものがありますの」
 これと、あれと、それにこれも。デイビスさんはやはりてきぱきと、紙のリストを見せながら買い出し内容を読み上げて、小袋に入った金を手渡してきた。
「あぁそれから、昨日からフットマンがお休みしておりますの。買い物が終わったら、彼の代わりにエリナ様の午後のお散歩に付き添って差し上げてください」
 いつも屋敷の周りをゆっくり1周なさっていますから、お願いしますわね。デイビスさんは最後にそう言うと、また厨房のほうへと早足に戻っていった。

 本当に、てきぱき、さっぱりしている。彼女の後ろ姿をぼうっと眺めながら、そう思った。
 昔の自分なら、このような愛想のなさに対して怒りを感じることもあっただろう。もっと人情というものがあるんじゃあないか、もっと他にも話すことがあるだろう、もしやおれの出自を馬鹿にして、話す時間すら惜しいとでも思ってるんじゃあないのか、などと。
 しかし、顔を合わせれば昔の思い出に浸って涙する、前の当主も新しい当主もいないこの屋敷の寂しさを語り合う、そんな過ごし方よりは、彼女のようにさっぱりと気持ちを区別しているほうが幾分ましなのかもしれない――だって、悲しみには、きりがないのだから。寂しさも、涙も、一度あふれると終わりがないのだから。

 ――でも、あの人は、どう思うだろう? あの人ならきっと、悲しみも涙も受け入れて、大丈夫だよと、言ってくれるんじゃあないか。あの人がいまここにいてくれたらきっと、ぼくがいるからと、光を示してくれるんじゃあないか。あぁ、あの人なら――いつも、何をしていても、あの人ならどうする、あの人なら何を言ってくれる、そんなことばかり考えてしまう。

 この気持ちをどこにも向けられなくて、ただ手元のメモを、穴が空くくらい見つめる。このメモに書かれたものを買ってくる、ただそれくらいのことしか、自分にはできないのだ。メモには何の罪もないというのに、手汗で張りついたそれを、くしゃりと握った。

***

 お腹の大きくなってきたエリナさんは、天気や具合がいい日は散歩をするのを日課にしていた。屋敷のまわりを1周するだけだが、そのくらいが妊婦にはちょうどいいのだと言う。小石や段差に躓かないように、いつもの散歩道は平坦に整えられていた。

 エリナさんとも、しばらく二人きりで話すことがなかった。そもそもあの人がいなければ、おれたちは出会うことすらなかったのだ。去年の12月、あの戦いが終わってからやっとお互いのことを知り始めたのに、いまとなってはおれたちのあいだにいるはずのあの人の場所が、穴になっている。だから、二人きりになると、何を話せばいいのかわからなかった。

 ざり、ざり、こつ、こつ。腕をゆるく組んで歩くから、おれたちの足並みは揃っていく。何も言わないエリナさんとおれのあいだに、その音だけが響く。

「今日は、暖かいですね」

 だんだんと歩幅と速さがゆっくりになったかと思うと、エリナさんが立ち止まって、前を見つめたままそう言った。その声は穏やかで、足音に馴染んで聞こえたから、さっきの沈黙のあとに彼女が急に会話を始めたことには驚かなかった。おれも前を見たまま、そうですね、とだけ答えた。

「落ち葉が、増えてきました」

 また、エリナさんはぽつりとそう言った。たしかに散歩道には、赤や橙に色づいた葉がたくさん落ちている。落ちてから大分経ったのだろう葉は、もう茶色くなっていた。おれはまた、そうですね、とだけ答えてから、こう付け足した。
「全部落ちたら、絨毯みたいになりそうだ」
「絨毯……」
 何気なく言っただけだったのに、それを聞いたエリナさんは「絨毯」と繰り返した。それから不意におれの腕から離れると、そばにある生け垣のほうに近寄っていく。そこには細い葉をした草が、まばらに生えていた。

「……ここ……」

 おれは彼女が何をしようとしているのかわからなくて、黙ってその様子を見ていた。

「このあたりに……春に、花が咲くのですって」
「花?」
「えぇ。小さくて……空色の花が、たくさん」
 エリナさんは生け垣の根本に視線を下ろしたまま、そう言った。
「へぇ……そうなんですかい」
 おれは彼女の背中に返事をする。エリナさんが何を話そうとしているのかわからなくて、あるいはただなんとなく思い出したことを言っただけなのかもわからなくて、そんな返事しかできなかった。でも、

「……ジョナサンが、」

 彼女の口からは、あの人の名前が、聞こえてきた。

「ジョナサンが……私に見せたいと、言っていたのです」

 エリナさんは振り向いた。やっと、彼女と目が合った。その縁には涙が溜まっていて、眉は下がっていて。でも口元は、かすかに笑っていた。
「今年の春は余裕がなくて見られなかったから……来年。来年もきっと咲いてくれるでしょうね」
 私、とても楽しみにしてるのですと言って、エリナさんはまた後ろを向いた。そして目元を拭ったのが、おれにはわかった。

 唇がうまく動かなくて、返事がすぐに出てこない。言葉を出そうとしても、唇がふるえて、うまく言えない。

「……どうして」

 けれど心は、ふるえる唇を待ってくれなかった。

「エリナさん、あんたはどうして……」

 涙を見せない彼女。「ジョナサン」と、あの人の名を口にすることができる彼女。そしてあの人のことを、思い出として語ることができる彼女。

「どうして、そんなに……そんなに強くいられるんだ?……」

 おれが一番怖かったこと、それは、あの人がここにいたということが、過去のものになってしまうことだった。弱いのだ。心が弱いから、あの人がもういないのだということを、どうしても受け入れられなかった。どうかあの人を返してくれと、神に祈るしかできなかった。そうして願いが叶わないと知ったら、今度は神を恨むしかなかった。何もできずに、ただ泣いて蹲るだけで、どんどん変わっていく景色を睨んでいた。そんなことしか、おれにはできなかった。
 それなのに彼女は――いちばん不安で、悲しくて、つらいはずの彼女は、こうして、強くあろうとしている。わんわんと泣いてわめいて、誰かに縋りつきたいはずの彼女は、大きくなった腹を抱えて、涙を隠している。

 ――どうして? どうしてあんたは、そんなに強いんだ?――視界が霞んでいく。こんな姿を見たらあの人は、おれに呆れてしまうだろう。守るべき彼女の前で、その強さに嫉妬して、どうして、どうしてと、駄々をこねる子どものようだと。

「"強い"……?」

 エリナさんは、ゆっくり振り返った。おれは彼女の顔を見られなくて、霞んだ視界をそのままにして、俯いていた。一方で、次に彼女の声は、はっきりと強く聞こえてきた。

「私、そんなに強くないわ」

 その言葉は、怒りという感情に乗せられているのかと思うくらい、はっきりと聞こえてきた。顔を上げて彼女を見ると、その目は赤くなって、いつもゆるやかに下っている眉のあいだには、しわが寄っていた。

「だって……だってずっと……私、彼と一緒に死にたかったんだもの。あのときどうして一緒に連れていってくれなかったのって……何度も何度も、彼を、恨んだのよ」

 縁に雫をためて見据える瞳から、目を逸らせない。それなのに心臓は、次第に鼓動を早めていく。いやだ、これ以上を聞きたくない、これ以上を聞けば、あの人が愛した人の口から、あの人がもういないのだという現実を、突きつけられてしまう。そんな恐怖に、かき立てられる。

「夢のなかで会ったときでさえ、私、彼に恨み言ばかり言っていたのよ。どうして、どうして私を置いていったの、ずるいわ、どうしてあなただけ先にいってしまったの、寂しいわ、寂しくてつらいわ、って……」

 彼女は拳を固くして、服を握り込んでいた。力が入って、その両手は白くなって、ふるえていた。どうして、どうして、と、彼女も言った。おれは彼女の言葉を聞くのが怖いはずななのに、耳を塞げないし、身体のどこも動かなかった。

「ナイフを手首に当てたことだってあったのよ。ちょっとくらい痛くたって構わない、だっていま生きているほうがつらいのだからってッ……。し……しんだらッ……、死んだら彼に会えるのだと思えば、何も怖くないと思ったのッ……」

 彼女は一歩、一歩とこちらに近づいてくる。
 息ができない。おれは呆然としたまま、目の奥が痛み、涙があふれていくことだけを、感じていた。

「でも……」

 彼女はおれの襟元を掴んだ。そうして俯いたまま、肩をふるわせた。彼女の重さが、固くなって動かない身体にのしかかった。

「でも私ッ……やっぱり……やっぱり死ねなかったのッ……だって――」

 そう言って彼女は顔を上げた。彼女の目からは、涙が2つ、3つと、次々に流れていった。

「――だって彼は私に、"幸せに"って、言ったのよ……」

 襟を鷲掴みにしたまま寄りかかる彼女の腹が、触れる。あの人がいない世界でたしかに育っていた、あの人ののこした命が。

「血がたくさん出て、苦しそうな顔をして、炎に焼かれようとしているその口で、……彼、私に幸せになってほしいって、願ったのよ……」

 彼女はそこまでを言うと、あぁ、あぁ、とかすれた声で嗚咽を上げて、ジョナサン、ジョナサンと、何度もあの人の名前を呼んだ。次第に膝からは力が抜けていって、おれにのしかかる重さが増えてきた。でも、おれもその重さを支えられずに、二人して地面に膝立ちになった。

 彼女の強さに見えたものの、脆さ。彼女が抱えたもう一つの命。彼女がさいごに託された、あの人の願い。おれはいったい、何を、どこから支えていけばいいのだろう。泣いてふるえる彼女を抱きしめることもできずに、何か言葉をかけることすらできずに、ただ彼女の重さを、この頼りのない身体で受け止めていることしかできずに。

 この人は、ずっと言えなかったのだ。新しい命が宿っていると告げられて、気丈にふるまうことしかできずに、本当の気持ちを押し殺して。つらくても、悲しくても、現実を受け入れようと、前に進もうと、たった一人で、立っていたのだ。
 おれは、あの人に代わって、あの人の大切な人たちを守ろうと思っていたはずだったのに。あの人に代わって、あの人が望んだことを成し遂げようと思っていたはずだったのに。それなのにおれがいままでしてきたのは、ここにあの人がいてくれたらどんな言葉をくれるだろうと、そんな妄想ばかりで心を虚しく満たして、自分はみんなに置いていかれているのだと、勝手に思い込むことだけだった。

 あぁ、おれはなんてことを――そのことに気がついたとき、やっと息が胸に入ってきた。目の奥が熱く痛くなって、うめき声とともに、涙の粒がいくつも落ちていった。
 あの人は苦しんで逝ったのだろう。けれど、あの人がさいごに思ったのは、「幸せに」という優しい願いだったのだ。

「エリナさん……おれ……おれはッ……すまねぇ、おれ、自分のことばっかりで……」

 まずは何から言えばいいのか、たくさんの伝えたいことがあったのに。たくさんありすぎて、沸騰した頭ではどうにもきれいに話せなかった。けれどそれでも、力の入らないエリナさんを柔く抱きとめて、薄く、ふるえている背中に腕をまわす。あの人くらい強い腕でも大きな手でもないけれど、それでもこれから彼女を支えるのは、この自分なのだ。
 それがいいんですよね、ジョースターさん――もう一度だけ彼の名を呼んで、語りかける。涙で濡れた顔を上げて、空を見た――「ありがとう、頼むよ、スピードワゴン」彼がそう答えて、笑ってくれた気がした。

「エリナ様ッ! どうなさいましたか!?」

 二人して地面に膝をついたままでいると、血相を変えたデイビスさんがこちらに駆けてきた。

「お具合が悪くなりましたか!?」
「あ、……あの、いいえ。……私は平気です。ちょっとスピードワゴンさんと思い出話をしていたら、涙が出てきてしまって……」エリナさんは涙を拭う。「本当に、何もないのです。私は元気ですよ」そうしてすっきりとした笑顔を見せた。
「まぁ、そうでしたの……。あぁ、驚きましたわ。でも、何もなくて良かった」
 デイビスさんは額に汗を流したまま、胸に手をあててため息を漏らす。立ち上がろうとするエリナさんを、おれと彼女の腕が支えた。
「あの、すんません、デイビスさん」
「スピードワゴンさん。まったく、びっくりさせないでくださいな」
「はい、すんません。……二人で、ここに咲く花のこと、話してたもんで」
 デイビスさんはエリナさんのドレスの裾をはらうと、生け垣のほうを見た。
「ああ、あの花ですね。小さくて水色の」
「はい。……そういえばその花、名前は何ていうんです?」
 デイビスさんの横顔とエリナさんを交互に見て、そう訊いた。デイビスさんが答えた。
「……マイオソーティス、という名前ですよ」
「へぇ……」

 耳慣れないその名前を、何度か心のなかで繰り返した。ジョースターさんが、エリナさんに見せたいと言った、小さな空色の花。これまで花に興味をもって生活したことがなかったから、名前や外見を聞いても、それは想像の範囲に留まるものだった。でも、ジョースターさんが気に入っていたなら。

「きれいなんでしょうね」

 これまでの自分には似つかわしくない感じの言葉が出てきた。言ってからちょっと恥ずかしくなる。でも、「ええ、とても可愛らしいのよ」とエリナさんは返してくれた。

「……種が、飛んできたようなのです」

 デイビスさんは生け垣のほうを見つめたまま言った。その声色は、おれが初めて聞くような、弱々しさがあった。

「何年か前……わたくしがここに来て、すぐのころ。……春になって、いくつか勝手に生えてきたものだから、抜こうとしたのですが……」
 デイビスさんは一度言葉を切った。俯いて、手で口元を覆った。
「……ジョージ様が、抜かないでおこうとおっしゃたのです。こんなに可愛い花、抜くのはもったいないと……」
 彼女の声がだんだんくぐもって聞こえてきた。はぁ、と息を短く吸って、なんとか声を整えようとしているのがわかった。
「それから……いまではあの端からここまで、花を咲かせるようになったのですよ」
 デイビスさんが振り向くと、彼女の目の縁にも雫がたまっていた。それはかすかに笑っている彼女の頬を伝って、ぽたりと落ちていった。
「そうだったのですね。……話してくれて、ありがとう、デイビスさん」エリナさんは彼女の手をとって、そして腕を組んだ。「来年の春が、もっと楽しみになりました」
「えぇ、えぇ……本当に……」

 デイビスさんは何度か瞬きをして雫を落とすと、エリナさんの腕をぎゅう、と包み込んだ。おれも真似して、もう片方のエリナさんの腕を自分のそれと組ませた。そうして三人で、屋敷までの帰り道を歩き出す。

 ――みんな、苦しかったのだ。つらかったのだ。悲しみは、そう簡単にはなくなってくれないのだ。だから、過去を振り返るのもいい、こうして涙を流して思い出を語らうのもいい。だって、あの人のいなくなった寂しさは、あの人以外に埋められるわけがないのだから。

 けれど――あの人のさいごの願いは、優しい願いだった。
 あの人は、痛みと苦しみのなか、逝ったのだろう。たくさんのやりのこしたことを思いながら、逝ったのだろう。
 けれど、あの人はさいごに、幸せに、と言ったのだ。自分がいなくなった場所で、自分の大切な人が笑って過ごせることを、願っていたのだ。

 あの人はもういない。あの人の大きな背中はもうおれを守ってはくれないし、あの人の大きな手は、おれを引っ張っていってもくれない。
 でも、正しさや、善いことや、やるべきことを示してくれる光は、たしかにここにある。みんなの涙のなかに、みんなの思い出のなかに、あの人が大切にしていたものが、たしかにある。

 だからおれは、泣きながら、寂しい、悲しいと思いながら、それでもこれからを、まっすぐ歩いていける。そんな気がした。

***

「ジョースターさんが花の名前を知ってたなんて、意外だよなぁ」

 午後の日差しは、おれたちの背中を照らして温めている。組んだ腕からも体温は伝わって、これからもっと寒くなるだろうというのに、そんなことは微塵も感じなかった。

「あら、違うのよ。ジョナサンは花の名前を忘れていたの。それであとからニナさんに聞いたのよ」
 エリナさんはそう言って、くすりと笑った。
「マイオソーティスなんて、耳慣れませんものね」
 デイビスさんも頷く。
「えぇ。でも、もっとわかりやすい名前もあるのよ。たしかドイツのおとぎ話から来ている名前なのだけれど……」
「へぇ。どんな?」
「ドイツ語で、"Vergiss-mein-nicht"というの。それを英語にすると――」


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