For Erina Joestar


 午後の陽射しが少しだけ寒さを和らげた日に夫と散歩したあの時間を、いまでも思い出すことがある。

「エリナ、ここにね、春になるとたくさんの花が咲くんだ。来年の4月かな。もっと暖かくなったら、この辺りに小さな水色の花が咲くんだよ。昔は生えていなかった花なんだけど、ぼくがスクールに通うようになってから1、2年後くらいかな。種が飛んできたみたいなんだ。ええと、名前は……前に何回かニナに教えてもらってたのに、また忘れちゃったんだけど……」 

 ねぇ、わかる? こんなに小さくて、空の青みたいな色の花なんだーー彼は自分の指先を丸く囲ってそう言った。骨張った大きな手で、可憐で小さな花を表そうとするその姿がおもしろかったから、思わずくすりと息を漏らして笑ってしまう。

「どうかしら。春に咲く空色の小さな花はいくつかあるから、わからないわ」
「あぁそっか。じゃあまたあとで、ニナに聞いてみよう」

 私が頷くと、彼も微笑んだ。それから彼は屋敷のほうを見上げると、庭が無事で本当に良かったよと、呟くように、しみ入るように、言った。

「そうね。それに、屋敷だってもうすぐよ。昨日、デイビスさんがあと1週間くらいだと言っていたじゃない」
「そうだったね。そういえばエリナ、君の部屋をどこにするか決めなきゃならないんだった。といっても、たぶん父さんの部屋がぼくのになって、母さんの部屋が君のになると思うけど。それでいいかい?」
「えぇ。私もあのくらいの広さが良いわ」

 私がそう答えると、彼はこれから忙しくなるねと楽しそうに言いながら、腕を広げて伸ばした。大きく息を吸い込んで、また吐く、そんな動作を私も真似して、深く呼吸をした。今日は、風が吹かなければ身を縮こませなくてもいいくらい、暖かい日だった。

「もうすぐ……もうすぐだ。ぼくらが旅行から帰ってきたら、ちょうど咲き始めているかもしれない。あぁ早く……早く君に見せてあげたいよ。とてもきれいなんだ。満開に咲けば、まるで緑と水色の絨毯みたいに、このあたりをびっしりと埋め尽くすんだよ」

 満開に咲いた花が地面を埋め尽くすのだということを聞いて、私はその花の名前が思い当たった。

「ねぇ、その花ってもしかして――」

***

 いっそ気を失ったほうがましだと思うくらいの痛みのなか、どうにかして気を紛らわそうと、そんな昔のことを考えていた。

「痛い……痛いッ……」
「えぇ痛いでしょうとも! でもしっかり呼吸して! 短くてもいいから吸って……そう、そしてできるだけ深く吐いて……」

 いま思い出していたのは、この1年間のことだ。
 1889年は、あらゆる物事が目まぐるしく変わっていく、忙しない日々ばかりだった。あの悲惨な船の大事故から戻ってきた私、そして、私の腕に抱かれた赤ん坊。でも生還したのは私たち二人だけではなかった。

 このお腹には、のちにもうひとつの命が宿っていたことがわかったのだ。それは、夫が早く見せたいと言って笑ったあの花の、ちょうど盛りが過ぎたころだった。

「あぁッ! 痛い、痛い! 痛い!」
「まだいきまないで! まだ開いてないから!」

 妊娠しているとわかったとき、私の心にまずやってきたのは、嬉しさとも悲しさともつかない、微妙な気持ちだった。

「はいッ……でもッ……でもッ、痛いのッ……」
「ええ! 痛いでしょうね! でも呼吸はして!」
「エリナ様、もうちょっとですよ!」

 なぜなら妊娠を喜び、生まれてくる子を一緒に育てていくはずの人が、もう自分の隣にはいなかったから。

「ううッ……痛いッ……もういやッ……痛い、痛い……」
「だんだん開いてきましたよ、もう少し頑張って!」
「エリナさんッ……おれの手! 爪立ててもいいんでッ……」
「わたしもです、エリナ様! わたし! ここにいますからねッ!」

 私はただ、彼と一緒にいられればそれで良かったのに。
 あの日――今日という日が、この穏やかで幸せな日がずっと続けばいいのにと、彼方に飛んでいく鳥に愛と自由を重ねて、ただそう願ったあの日。
 あの日、彼は私を置いて、逝ってしまった。

「そう、そう、上手ですよ! そのまま呼吸を続けて!」
「んんーッ……ふう、ふう、はぁッ……」

 少女だったころ、私は彼と出会った。
 私を助けてくれたあの春の日。一夏を笑って遊んで過ごした少年と、やっと再び会えた先の冬。離れていた時間のほうが長かったのに、ずっとそばにいたのかというくらい自然に、私は彼を支えて、二人並んで歩いた。そのあとすぐに、彼は何かを隠したまま姿を消したかと思えば、疲れ果てた顔をして、でも笑って、ここに帰ってきた。

「まだ! まだですよ、まだもうちょっと!」
「えぇッまだなんですかい!」
「痛いッ……うう……」

 この人と結ばれるのだろうと、言葉にしなくてもお互いが感じていた。少年と少女だったころに芽を出した気持ちは、会えないあいだにも、密かに育っていた。その想いは消えるどころか、再会こそが花を咲かせることになったのだ。
 「ぼくと結婚してほしい」そう言ってまっすぐに見つめてくるその瞳は、泥だらけになって笑いあったあのときからちっとも変わっていなかった。だから考えなくたって、私の答えはだた一つに決まっていた。

「よし、いいですよ、その調子! でも呼吸はやめないでッ」
「ううーッ……ううッ……」
「エリナ様、もう少しですよ!」

 春に咲く花を早く見せてあげたいんだと言って微笑む夫。この旅から帰ってくれば、新しくなった家で、新しい生活が始まるのだと思っていた。私は、それだけで良かったのだ。もうこれ以上なにもいらない、ただこの人と一緒にいたい。頼もしい夫の親友と、夫の大切な、母のような素敵な女性と。彼らと一緒に、あの場所で、ただ平穏に暮らしていきたい。私は、それだけを願っていた。それなのに。

「はい、一緒に吸ってー、吐いてー、そうです、それを続けて!」
「ううッ……うーッ……」

 あの船のなか、いきなり立ち上がり、足早にどこかへ向かったまま戻らない夫。あちこちから、何かを蹴破ったり破壊したりするような物音が聞こえてくる。そこに人々の悲鳴と、骨が折れ肉が裂ける音が混ざり始める。混乱をかき分けてやっと夫を見つけたかと思えば、彼はたくさんの血を流し倒れていた。

「よし、いきみましょう! あとは出すだけですからね!」
「はいッ……うッ……ふうーッ……」

 さいごに私たちが交わしたのは、たった一つの口づけだけだった。
 もっとたくさん言いたいことがあったはずなのに、あまりにたくさんの恐ろしいことと信じられないことが次々にやってくるものだから、私はあなたとともに死にますとしか、言えなかった。本当はもっと、あなたを愛している、あなたと生きていきたい、あなたとの未来が待ち遠しいと言いたかった。彼の生が彼から遠ざかろうとしていることに気づいていながら、それでもこの旅から帰ってきたらあれをしよう、これをしよう、そんなたくさんのことを伝えようとすら思った。けれど無情な時間は、弱々しく言葉を紡ぐ彼の唇に口づけることしか、ゆるしてはくれなかった。

「エリナさんッ……!」
「エリナ様ッ、もう少しですよ!」

 「泣いてくれてもいい。でも君は生きなくてはならない」。
 夫が指をさした先には、すでに息絶えた人の腕に抱かれて、泣いている赤ん坊がいた。一緒にあの場所へ戻れないならせめて、一緒にここで死にたい。そんな私の絶望的な願いを、夫の気高さや優しさは、美しく照らしてしまった。けれど――そう、そうだ、夫はそういうひとだ。初めて会ったときも、自分が傷つくことを恐れずに、一心不乱に私を助けてくれた。いつもまっすぐで、優しくて、正しいことをしようと思えるひとだった。だから私は、彼のことが好きになったのだ。

 大勢の人々を乗せたまま燃え上がり、沈もうとしている船。
 夫はもう尽きかけている最後の力を振り絞るように、暴れ蠢く首を抱いて押さえつけていた。
 涙で目の前が霞んでも、爆発の音が耳の奥を揺らしても、さいごに彼がどんな表情で、何を私に言ったのかは、よくわかった。

「ジョナサンッ……ジョナサンッ……」

 ここにはいない彼の名を呼ぶ。もうこの手を握ってくれることのない、彼の名を。

「ジョナサンッ……! 痛いッ……痛いの……ジョナサン……」
「エリナ様ッ……」
「エリナさん! ……く、うッ……」

 でもきっと、あのときの彼のほうが痛かったのだろう。手のひらを貫かれ、首からはたくさんの血を流していた、彼のほうが。
 それなのに彼は、あのときほほえんでいた。泣いている赤ん坊を、同じように泣きながら抱いた私に彼が向けたのは、ほほえみだった。そう、彼とさいごに目を合わせたあの瞬間を、いまも鮮明に思い浮かべることができる。あのとき――あのとき彼が私に願ったのは――

「よし! 出た! 出ましたよ!」
「おおッ……おわッ……」
「うッ……! ……はぁ、出たの……」
「ええ、無事に出ましたよ! ようし、このままへその緒を切ります。よく頑張りましたね」
「エリナ様! 良かった……良かった……」
「エリナさんッ……!」

 涙と汗が混ざって、いくつもの雫が額や頬を伝っていくのを感じる。握りしめていた手のひらはうまく力が抜けていかなかったけれど、両隣で手を握って、ずっと私の名前を呼んでいた二人が、そっと外してくれた。これまで生きてきたなかでは一番の痛みだと思ったし、これからもこれに並ぶ痛みはないような気がする。というか、そうであってほしい。呼吸を整えながら目の焦点は合わないまま、頭の隅ではぼんやりとそんなことを思った。

「男の子ですよ。とても元気です!」

 白に包まれたその子はしわしわの顔をして、皮膚は赤くて、とても小さいのに、大きかった。少しだけ生えている髪は暗い色で、生まれたばかりだというのに、もう立派に産声を上げている。
 胸に抱き寄せると、その小ささも、大きさも、そして温かさも、もっとよく感じられた。こんなに小さくて大きい命が、ずっと自分のお腹のなかに入っていたなんて、そしてたったいま生まれて出てきたなんて。これまでの不安も期待も、痛みも楽しみも、一気に心に押し寄せてきて、混沌とした、でも悪くはないような、不思議な気持ちになる。それで何と言ったらいいかわからずにただ、「良かった」とつぶやいた。

「よっし! おれぁ皆さんに伝えてきますんでッ!」

 涙も鼻水も拭わずに、彼の親友は駆け足で部屋を出ていく。その後姿を見送ってから、残った彼女と顔を見合わせて笑った。助産師や看護師が慌ただしく準備と片づけをしているなかで、私たち二人だけが、まだこの奇跡のような瞬間の余韻に浸っている。

「男の子、でしたね」
 彼女は私の腕のなかを覗き込んだ。
「髪色は、彼に似ています」
「そうですね。瞳の色は、まだわからないわ」
「ええ。それに、顔立ちもまだわかりませんね」
「赤ちゃんって……生まれたばかりだと、こんなにしわしわなのね」
「ふふふ、そうですね」

 産声は小さくなってきた。口をもごもごとさせたりしながら、ときどき泣き出しそうになったり、かと思えば息を吸っているだけだったりして、見ているだけで飽きない。二人でじいっとその様子に見入っていると、屋敷の人たちに報告を済ませてきた彼が戻ってきた。

「ふう、デイビスさんたちはあとから見に来るそうですぜ」
「ありがとう、スピードワゴンさん」
「いえ。じゃあおれもちょっと失礼して……」彼も待ちきれないといった表情で目を輝かせて、私の腕のなかを覗き込んだ。「あぁ……髪色は……あの人に似てるんだな」
「ふふ、ニナさんと同じこと言うのね」
 あ、そうでしたか、と言って彼は緩んだ頬を掻く。
「それでエリナ様、男の子だったから……」
「ええ、男の子だったから、ジョージ。ジョージ・ジョースターU世」

 それは、夫がつけたいと言った名前だった。尊敬し、愛し、そして早くに亡くしてしまった自分の父親の名前を、もしもこれから生まれてくる子が男の子だったらつけたいと、言ったのだ。

「ジョージ……ジョージ。……ジョナサンの、子」

 何気なくそう言ったというのに、自分の声が耳に入ってきたらまた目と鼻がつんと痛くなって、霞んでいった。いま腕に抱いているこの子が無事に生まれてきてくれたことが、嬉しくて。それなのに、この子がいまはもういない彼との子だと思うと、悲しくて。
 ぽたり、ぽたりと落ちた涙が、汗ばんだ襟に染み込んでいった。手の甲で雑に涙を拭うと、すぐ隣にいたニナさんは黙ってその手をとって、子を支える腕と一緒に抱き包んでくれた。ニナさんの頬からも雫が落ちてきて、私の腕を濡らした。

「ジョージ様はきっと……お父上によく似た、優しくて、強い子になるでしょうね」
「そうだよ、エリナさん、そうに決まってる! 楽しみだよなぁ……」
 スピードワゴンさんも鼻声を精一杯張って、しわになったハンカチを取り出すと顔を拭った。そうしていると、失礼します、と言ってデイビスさんが入ってきた。彼女の腕には、あのとき一緒に海を漂った赤ん坊――エリザベスが抱かれていた。

「まぁ! 無事に……元気にお生まれになって……本当に良かった……」

 彼女は目頭を押さえながら笑っている。ニナさんがエリザベスを受け取って抱き上げると、エリザベスは丸い瞳でジョージを見つめた。まだ言葉を話せるわけではないけれど、興味をもっていることはわかる。その様子が可愛らしくて、私たちはふふ、と笑みをこぼした。

 私たちは、ふたつの小さな命を守るように身を寄せ合って、互いの涙を拭う。無事に生まれてよかったと言いながら笑って。そしてまた、笑いながら泣いて、泣きながら笑って。

 そうしていて、やっと私はわかった――私の夫は、ジョナサンは、たくさんのものを私にのこしてくれたんだ、と。いま腕に抱いているこの子も、あのとき彼が救ってと私に言ったこの子も。そして、この子たちを見守ってくれる、私の周りの優しい人たちも。ぜんぶ、彼がのこしてくれたものだったのだと。

 彼がのこしてくれたものは、こんなにたくさんあったのだ。彼とは記憶のなかでしか会えなくても、彼がいた証が、いまの私に、つながっているのだ。いま私が抱いているこの子に、私のそばにいるこの子に、私と一緒に泣いてくれる人たちに、私を抱きしめてくれる人たちに、つながっているのだ。

 どうしても涙は流れるけれど、私はそれでも嬉しいと思えた。
 だから私は、きっと前を向いて生きていけるだろう。彼がさいごに私に願ったように、これからを、幸せに。


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