30


 雨が降っている。

 どんよりと厚くて重たい雲は太陽を隠し、まだ昼にもなっていないというのに、まるで陽が沈んだ直後のような空だった。
 空から止めどなく落ちてくる雫は、家屋の屋根や塀にぶつかってはぼたぼたと音をたてる。一つ一つの音は無作為に発生するというのに、しばらくその音たちに耳を傾けると、まるで小気味の良い、規則正しい拍子のように聞こえてくる。
 まだ春の遠い空の空気は雨を含んでしっとりと冷え、芽がやっと顔を出してきた木々の表面を、無慈悲に濡らしている。

 向こうが霧でかすんで見えない地平線には民家がぽつぽつと点在していて、灰色の空の下に広がる草原は輝きのない緑色をしている。そのうちのある一角には、きれいに芝の刈り取られた地面の上にいくつもの石が立ち並んでいて、そのなかに黒い服に身を包んだ人々の影が群れをなしていた。

 ──愛は寛容であり、愛は親切である。愛は妬むことをしない。愛は高ぶらず、不作法をせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。

 人々の前で聖書の言葉を述べる男の声は、傘を叩く雨粒の音にときどき消されながらも、淡々とした調子で聞こえてくる。

 ──愛は不義を喜ばず、愛は真理を喜ぶ。

 それに混じって、人の嗚咽と、鼻をすする音や咳き込む音がしている。

 ──愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

 黒い人々の目の前、男の隣には、大きな箱があった。六角形の下半分が長くなった形のそれには簡易な装飾だけが施されていて、雨粒がぼたぼたという音をたてながら、その箱を叩いている。
 たくさんの雫がぶつかる音は軽く響き、木箱の中にほとんど何も入っていないのだということを示していた。

***

 雨が降っている。

 黒い服に黒い帽子を身に纏ったエリナは、傘の端から落ちてくる雫から守るように、腕のなかにいる赤子を自分の胸に抱き寄せた。

 エリナは静かに聖書の言葉を読み上げる牧師を、じっと見つめた。でもその言葉など、エリナの耳には、入って抜けていくだけの音だった。いまは、何を言われたって、何も感じられなかった。
 エリナは信じられなかった。炎が燃え広がる船のなかで目にした光景も、そこから自分とこの赤子だけが脱出したことも、──夫がもう、この世にいないのだという現実も。
 あのとき目にしたことすべて、何かの夢だったのではないか、いまも夢を見続けているのではないかとしか思えなかった。でもなぜだか、隣にいるはずの、自分と並んでいてくれるはずの夫が、どこにもいない。もしこれが夢なのだとすれば、彼はきっと笑って、自分の名を呼んでくれる。一緒に出かけたりして、一緒に楽しいことをたくさんやっているはずなのに、彼だけは、まるで穴が開いてしまったみたいに、どこを探したって見つからないのだ。

 どうしてだろう、どうして私の夫はここにいないのだろう? 誰かが泣いている。みんな黒い服を着ている。牧師様がお話ししている。──今日は、きっと誰かとのお別れの日だ。でも、誰との──?

 ──愛は、決して絶えることがない。

 牧師がそう言ったのを聞いて、エリナは腕のなかで眠っている赤子の顔を見た。こんなに雨の音がうるさくて、寒くて、不気味なくらい暗い空なのに、その子はすやすやと、ときどきむにゃむにゃと口を動かしたりして、眠っている。
 ──温かい。あの人が守ってと私に言った命は、こんなにも温かい。
 エリナはその子の額に冷えた唇をつけた。氷のように冷えきっていた心に、じんわりと熱が伝わってくる気がした。

***

 雨が降っている。

 スピードワゴンは傘をささずに、黒い人々の群れの一番後ろで立っていた。格子柄のハットを叩く雨粒は、つばの端で一定の間隔をおきながら大きな雫の形となっては落ちて、また雫となっては落ちていく。
 牧師の声はよく聞こえないが、愛がどうとか言っているのはわかった。でも誰がどんなことを言おうと、もう何も心に入ってこない。誰が何をしても、いまはもう心が死んでしまったみたいに、動かない。

 いまこうして何も入っていない棺桶を前にして黙って立っていると、この光景が現実ではないかのような気がしてきた。スピードワゴンは、自分の感じる世界の流れが、あのとき──あの船が悠々と港を出発して、水平線の彼方の点となるまで見ていたときから、自分の時間が進んでいないかのような心地がしていた。
 ──あのときだ。あのとき、おれはあの人を見送って、そのあと──そのあと、あの人は帰ってこなかった。帰ってきたのは、あの人の大切な人と、その腕に抱かれた小さな命だけだった。

 もともと湿って冷えていた頬に、さらに冷たい雫が伝った。涙だった。
 スピードワゴンはそれが涙だとわかると、自分がいま泣いている理由にやっと実感が伴った気がしてきた。
 ──光だった。ただ、あの人だけが、光だった。人を、この社会を、この世界を信じられずに生きてきた道の先で出会った、たったひとつの光だった。温かかった。冷たい心を温めてくれるような、光だった。勇気と、優しさと、それからたくさんの愛をいっぱいにたたえた、光だった。
 ただただ涙だけが、流れては落ちて、落ちてはまた流れて、足元にぬかるんだ土の上へと、沈んでいく。

 ──愛は、決して絶えることがない。

 雨音の合間に聞こえてきたその言葉は、スピードワゴンの胸にすとんと落ちてきた。スピードワゴンは、赤子を抱いてその額に口付けるエリナを見た。落ちてきた雫を、少し温かく感じた。

***

 雨が降っている。

 切れ間の見えない灰色の雲からは絶えず雫が落ちてきて、ニナの肩を、腕を、容赦なく濡らす。ニナは傘をさしていたけれど、あまりに雨がたくさん降るので、もう傘の意味がないくらい、濡れていた。

 雨が家屋を、地面を、傘を、目の前にある大きな、何も入っていない箱を叩く音。人がしゃっくりをあげては、息をひゅう、と吸う音。愛についての教えを淡々と語る、牧師の声。
 輝きのない、緑の地平。霧が立ちこめて、先が見えない森。太陽が沈んだかと見まごうくらい、明るさを失った空。
 雨のにおい。土ほこりの混ざった、動物の生乾きの毛皮のような、におい。

 感覚で感じられる世界は確かに動いているのに、ニナは、まるで自分だけはどうしても動けなくて、物凄い速さで進む世界に置いていかれてしまっているみたいな感覚がした。自分の感じている世界が全部嘘みたいで、夢みたいで、それなのに、いままで見てきた光景や、感じてきたものばかりが脳裏に次々と蘇ってきて、まるで自分だけが時間を逆行しているみたいだった。
 耳に入ってくる言葉や音には何にも心を動かされないのに、頭の中で繰り返し再生される光景と感覚だけが、ニナの思考を支配していた。

 その始まりは、あの春の日だった。

 ──「はじめまして、ミス・ニナ」
 そう言って、あの子は恥ずかしがりながらも挨拶してくれた。父親の影に半分身体を隠して、でもわたしの目を見て、そう挨拶してくれた。

 ──「ねぇ、ミス・ニナ。あなたの瞳、すごくきれいな色だね」
 わたしがありがとうと言うと、あの子は照れくさそうにはにかんだ。あなたの夜明けの空の色の瞳も、とても素敵ですよ、と言うと、あの子は恥ずかしさを隠すようにして、わたしの胸に飛び込んだ。わたしはその小さな背中を、抱きしめた。

 ──「……ミス・ニナ……手、ひんやりとしていて気持ちいいな。もう少し、そうしていて」
 あの子が体調を崩したとき、自分でもどうしようもないくらい動揺した。人の命の灯火は簡単に消えてしまうものだと知っていたから、まさかこの子も、なんて口にも出したくない想像をしては、何度も何度も小さな額ににじむ汗を拭いた。

 季節は何度も巡って、いつからか、わたしがあの子のそばにいることが、当たり前になっていた。

 ──「ぼくね、ニナが教えてくれる歴史が大好き! だって、とってもわくわくするんだもの。ねぇ、どうしてそんなにいろいろなことを知っているの? ぼくも、いつかニナみたいになれるかなぁ」
 あの子はそう言ってくれたけれど、いつもわくわくさせてもらっていたのは、このわたしのほう。小さな目を輝かせて、好奇心のままにわたしにたくさんのことを尋ねてくる少年に、たくさんのことを教えてもらったのは、わたしのほう。知らないことを知ることの喜びを思い出させてもらったのは、わたしのほう。

 ──「ニナ。君が、ぼくのお姉さんだったら良かったのに……。そしたら、誕生日だけではなくて、夏の休暇も、クリスマスも、ずっと一緒にいられるでしょう?」
 そう言われたとき、ちょっと驚いたけれど、でもとても嬉しかった。わたしも、彼が、彼らがわたしの家族だったら、どんなに楽しいだろうと思っていたから。みんなでたくさんの楽しいことをしたい。春も夏も、秋も冬も、山や海や森に出かけて行って、そこで本を読んだり、花や鳥の観察をしたりして過ごしてみたいと、思っていたから。

 ──「ニナ。ニナは、ここでの仕事が終わったら、次に行くところや、やることは決まっているのかい……」
 そう尋ねたあの子が本当は何を言いたかったのかなんて、わたしにはすぐにわかった。あの子は思慮深い子だから、わたしがずっとここにいられるわけではないということを、よくわかっていた。でも、わたしも、本当は言いたかった。ずっとここにいる、と。ずっとここにいて、あなたが大人になっても、あなたの子が生まれても、その子がまた子をもつころになってもずっと一緒にいると、言いたかった。

 ──「ニナ。どこに行っていたの。あのね、持ってきてくれた本を、一緒に読みたいと思っていたんだ……」
「親友」を亡くしたあの子の気持ちは、痛いほどにわかっていた。わたしが代わってあげられたら、どんなにいいかと思った。わたしがひどいお願いをしても、決して嫌だと言わなかった彼の勇気と優しさが、眩しかった。返事の代わりにわたしを強く抱きしめ返してくれた腕は、いつの間にこんなに大きくなっていたのだろうと、驚いた。

 ──「ニナ。ぼく、毎週手紙を書くからね。きっと返事を書いてね」
 あの子を見送ったあの日、もうきっと彼が生きているうちに会うことはないのだろうと覚悟した。学校へと旅立っていくあの子を、できることなら追いかけて、もっと一緒にいさせてほしいと言いたかった。もっとあなたのことを見守っていたい、遠くからではなくて、あなたの近くにいたいのだと、言いたかった。あの子は約束通り、手紙を欠かさず送ってくれた。なんでも書いて教えてくれた。あの子の成長を想像するだけで、わたしは嬉しかった。希望が満ちていくようだった。これからわたしが進む道がどんなに暗くても、あの子とあの子の家族が笑って生きていてくれると思うだけで、何もかも耐えられる気がした。

 あの春の日に始まったわたしたちは、気がつけばこんな遠くにまで来ていた。

 ──「父さんは、もう、いないけれど……君が変わらずいてくれて、良かった。良かったよ、ニナ」
 大切な人を失ってなお、あなたの瞳は輝いていた。その瞳が、もう一度わたしを映していることが、正しいことだったのかわからない。でも、嬉しかった。あなたの思い描く未来で、あなたのすぐ隣にいるのはわたしではないのだとわかると、少し寂しいような気もしたけれど……でも、とても嬉しかった。あなたと、あなたの大切な人との未来を、守りたいと思った。

 ──「……だから、ニナ。どうか、ひとりで戦おうとしないで」
 それなのに、どうして。あなたは、あなたの大切な人との未来を、いちばんに考えなければならないのに。

 ──「ニナ、君はもうひとりじゃあないんだ」
 どうして…………どうして、わたしは嬉しいと思ってしまったのだろう。あなたが、君はひとりじゃないと、一緒に戦うと言ってくれたことを、嬉しいと思ってはいけないはずなのに。それなのに、いつの間にかわたしを包んでしまうくらい大きくなったあなたの腕を、振り解くことができなかった。

 ──「だからね、ニナ。いつになったっていい。いつか君のことを、聞かせてほしいんだ」
 わたしの秘密を知ったとき、あなたがどんな顔をするだろうかと想像すると、とても怖かった。怖くて怖くてたまらなくて、秘密を言えばきっとまた大変なことに巻き込んでしまう、だから言うべきではないのだと、自分を納得させてきた。でも、あなたがそう言ってくれたときの瞳が、真直ぐにわたしを射抜いてきたから、夢を見た。もしかしたら、こんなわたしを受け入れてくれるかもしれないと、こんなわたしでも人と一緒に暮らせるかもしれないと、夢を見た。

 ──そう、わたしは、夢を見ていた。
 その夢では、父親になったあなたがあたふたと慌てながら、新しい命をどうやって腕に抱けばいいかを聞いている。その隣であなたの大切な人が笑いながら、こうするのよ、と教えている。あなたの友人たちは、その様子を見てまた笑っている。
 わたしは、みんながそうやって笑っている光景を見て……、わたしも、笑う。どれだけ時間が経ってもずっと、大切な人たちのそばで、わたしも笑う。
 なんて素敵な夢。なんて明るくて、柔らかくて、温かくて、涙が出そうなくらい、優しい夢。

 けれど──あなたは帰ってこなかった。帰ってきたのは、あなたの大切な人と、彼女が抱いた小さな命だけだった。わたしの夢は、本当に夢になってしまった。あの明るさも、柔らかさも、温かさも、優しさも、もう戻らない。もう叶わない。

 「愛は、決して絶えることがない」──牧師のその言葉が、ニナの耳にはいやなくらいに空虚に聞こえた。

 ──いったい、何がいけなかったのだろう。どこで、間違えてしまったのだろう。
 あなたのそばで、あなたたちのそばで生きる未来なんて諦めて、戦うあなたの背を押しのけて、わたしひとりで決着をつけていれば良かったの?
 ともに戦うと言ったあなたの腕を、力ずくでも、たとえあなたを傷つけたとしても振り解いて、わたし一人で戦いに向かっていれば良かったの?
 あなたたちのことなんてどうでもいいのだと自分に言い聞かせて、さっさとあの仮面を破壊して、そしてもう二度と会わなければ良かったの?

 いままで辿ってきた道の、そのいくつもの分かれ目が、脳裏に浮かんでは消えていく。
 はぁ、はぁ、と荒くなる呼吸をどうにかしようと、ニナは、自分の胸あたりの服を鷲掴みにして、荒く息を吸っては吐いた。もう黒い服の人影の群れはばらばらになって、そこにいるのはニナと、エリナと、エリナの両親と、スピードワゴンだけになっていた。

 ──どうすれば良かったの? どうすれば、あなたが笑っている未来を守れたの?

 雨はまだ降っているけれど、空のずうっと彼方の雲は、明るくなっている。ニナはその空の向こうを見て、ひどく顔を歪ませた。不規則な息の音が自分の耳に入ってきて、うまく呼吸できていないことがわかった。

 ──わたしはあなたに──あなたに出会わなければ良かったの──?

 ふと浮かんだその思いを否定するように、首を横に何度も振りながら、ニナは立ち上がった。ニナさん、とエリナが呼んだ声も聞かずに、おぼつかない足取りで、走り出した。ちゃんと息も吸えないのに、ぬかるんだ道を慣れない靴で走るものだから、すぐに足を取られて転んでしまった。それでもニナはすぐに起き上がって、また走り出した。「ニナさん!」後ろでスピードワゴンも叫んだ。でも、ニナの耳には入ってこなかった。

 ニナは走りながら、彼の名を呼んだ。

「ジョナサン様…………」

 ──苦しい。あなたにもう会えないのだということが、とても苦しい。あなたがこの世界にもういないのだということが、とても苦しい。胸がえぐられるように痛くて、息もできないくらい、苦しい。

「ジョナサン様ッ…………」

 ──「ニナ」。わたしを呼ぶ、可愛らしい少年の声はいつの間にか声変わりをして、澄んだテノールの、耳によく馴染む声になった。

「ジョナサン、さまッ…………」

 ──あなたの声が聞きたい。どうか、わたしの声に答えてほしい。「どうしたの、ニナ」。そう言って、笑いかけてほしい。

 ニナは胸元を押さえながら、そう彼の名を叫びながら、ふらつく足でどこまでも走った。どこに行こうということもなく、ただ、あの明るい雲のほうへ。この冷たい雨が、止んでいるほうへ。

「ジョナサン様ッ……ねぇ、ジョナサン様ッ……! どうかッ……どうか答えて、ジョナサン様…………わたし、もう一度、あなたに会いたい…………置いていかないで、まだ、わたし、あなたに話したいことがたくさんあるのッ………」

 彼と過ごした日々が、どんどんあの明るい雲のほうへ行ってしまう気がした。追いかければ追いかけるほどに、その優しい夢は、その優しい人は、遥か遠くへ行ってしまう気がした。「いや、いやよ、置いていかないで」。そう叫びながら、ニナは走った。そしたらまた転んで、服が泥にまみれた。でも、そんなことはかまわず、また走った。ただ会いたくて、呼びかけに答えてほしくて、遠くへ行こうとしている彼の影を追いかけるように、ひたすらに走った。

「ジョナサン様……ねぇ、ジョナサン様…………わたしね、あなたに、会えて良かったッ……。あなたに出会わなければ良かったなんて、そんなのッ…………そんなのは、嘘よ……嘘なの…………わたし、あなたと一緒にいられて良かったッ…………あなたと家族になれて、良かっ、た…………」

 ニナはもうそれ以上の言葉を出せなかった。胸を苦しめる思いを全部言おうとしたら、目から大きな雫が出てきて止まらなくなって、息も苦しくて、もう声が思い通りに出せなくて。
 雨のなかを走ったから、髪も顔も胸も、背中も足も全部、濡れていた。震える身体の、苦しい胸元だけを力いっぱい握りしめて、何度も、何度も、「ジョナサン様」と、かすれた声で彼の名を呼んだ。涙ばかりが、止まることなく流れていった。

「ニナさんッ…………」

 スピードワゴンが追いついて、嗚咽を上げて、声にならない声で彼の名を呼ぶニナを、後ろから抱きしめた。

「ニナさんッ…………!」

 もう一度そう呼んで、スピードワゴンは腕をさらに強くして、遠くへ走って行こうとするニナを抱き止めた。スピードワゴンも、泣いていた。

「あの人は……ジョースターさんは、きっと、わかってるよ。あんたがあの人のことを大好きだったってことも、あんたがあの人のことを家族だと思っていることも、わかってるよ。あの人だって、あんたと会えて良かったって思ってるよ。なぁ、ニナさんッ……………」

 スピードワゴンの言葉を聞いて、ニナの目からはますます涙があふれてきた。ニナは、肩にまわったスピードワゴンの腕にしがみつくようにして、抱きしめ返した。あぁ、あぁと、言葉にならない叫びだけが、たくさんの雫と一緒にこぼれ出ては、向こうの空に消えていった。

 2人はずっと、子どものように声を上げて、泣いていた。遠いところへ行ってしまった人の名を呼んで、会えて良かった、ありがとう、と何度も繰り返して。


 雨は止んでいた。あんなに厚かった雲は切れ切れになって、そこからは暖かな色の光が差していた。
 明るい空の向こうからは鳥たちがやってきて、霧の晴れた森の奥へと飛んで行った。


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