29


 ──窓を開けると、朝の陽射しに温められた匂いのする風が入ってきた。春の盛りになった頃の陽は頬に気持ちがいい。眼下の草原は太陽に照らされて、輝くくらいの緑の葉が揺れている。木立からは姿の見えない鳥たちがおしゃべりする声が聞こえてくる。
 そんな気持ちのいい始まりがあったから、もういてもたってもいられなくて、窓を閉めることもせずにスカートの裾を掴んで走り出した。これまでずっと、朝の陽射しの下で歩いてみたかったのだ。昼になるまで散歩して、湖のほとりでサンドウィッチを食べて、ボートの上で本を読んで、午後を過ごしてみたかったのだ。あぁ早く、早く行きたい。そう思って、1段分が低い階段を2段ずつ飛ばしながら下りて、大きな玄関の扉の前まで来ると、扉を身体全体で押して開けた。

 けれど、その扉を開けるとそこに朝の草原は広がっていなかった。わたしの目の前にあるのは、狭く、天井の低い、一つの窓からしか陽の入ってこない部屋だった。しかも、その窓から見える外は暗かった。
 見覚えのない場所だった。がっくりと肩を落としてため息をついた。わたしはいつだって、太陽の光を浴びることが叶わないのだ。歩を進めると、床がぎしぎしと耳障りな音を立てた。
 辺りを見回すと、てんで殺風景な部屋だとわかった。日焼けして剥げた柵のベッドには薄汚れたシーツが乱雑に広げられていて、その近くには肘掛けのぼろぼろになった一人掛けの椅子がある。サイドテーブルには根本のどろどろした蝋燭に頼りなげな炎が灯されて、キャビネットの引き出しからは衣服の裾がはみ出ている。

 ここはどこだろうと思った。こんな場所に来たことはなかった。もしわたしがこの部屋に住んでいたとしても、こんな秩序のないまま、家具や物を放っておくことはしないだろう。息を吸うとかび臭かったので、わたしは顔をしかめた。
 でもそんな無秩序な部屋のなかふと目に入ったのは、キャビネットの上に揃えられて並んでいる本たちだった。キャビネットに近づいてみると、本の背表紙は角がへこんでいたり装丁が剥がれていたりするけれど、タイトルと著者の順番が左から始まるように整頓されている。
 背後で揺らめいている蝋燭の炎を頼りに、背表紙に指を滑らせながら、タイトルを見ていった。そのうちのほとんどが、わたしも読んだことがある本だった。適当な一冊を取り出すと、これまた適当なページを開いた。

「読んだら元の場所に戻してくれよ」

 後ろから声が聞こえた。そのほうへ振り向くと、椅子に沈んで本を読んでいる少年の姿があった。

「ディオ様」

 わたしはその少年の名前を知っていた。

***

 ディオ様は椅子にもたれかかって、ときおり足を組んだり解いたり、組み替えたりしながら本を読んでいる。わたしはそのそばのベッドの端に座っている。

「ディオ様はここで育ったのですね」

 わたしは蝋燭の炎を光源にして、ところどころに染みのある壁に自分の手の影を映した。手のひらを閉じては開いたり、両手を重ねて狼の横顔のかたちを作ったりする。ディオ様に話しかけると、数秒の間があいて、それからそうだよ、と一言が返ってきた。

「あ、ディオ様見て。これ、蟹に見えませんか」

 親指を立てた手のひらを重ねてその他の指を動かすと、それは8本足の蟹がうごめいているように見えた。面白かったので見てもらおうとディオ様に話しかけると、返事がない。後ろを振り向くと、ディオ様はもういなかった。

「ディオ様?」

 彼の名を呼ぶと返事がなかった代わりに、わたしが腰掛けていたベッドの上には知らない男が横たわっていて、ぜえぜえと荒い呼吸をしているのが聞こえた。その男の頭は禿げていて、額に汗が浮かんでいる。もじゃもじゃと髭をたくわえた口からは、乾いた咳が出ている。

 知らない男の側に腰掛けていたのだとわかるとちょっとびっくりしたので立ち上がった。でもまじまじとその男の顔を観察してみると、どこかで見たことのあるような面影を感じた。部屋の奥から扉が開いて閉まる音がした。

「父さん、薬の時間だよ」

 ディオ様が小さな紙の包みと、縁の欠けたカップを手に部屋に入ってきた。そうか、この人はディオ様のお父様……ブランドーさんだ、とわたしは納得した。ディオ様はサイドテーブルに包みとカップを置いて、ベッドの端のわたしがいた場所に腰掛ける。ブランドーさんを起こそうと、彼の肩に手をかけた。すると、さっきまで顔色を悪くして咳をしていた彼はいきなり起き上がって、ディオ様を拳で殴り飛ばしてしまった。

「馬鹿野郎ディオッ! てめぇ薬を買う金なんてどーやって作ったァ!」

 鈍い音とともにディオ様が床に転がった。その口端が切れて、血が出ている。

「チェスをして勝ったんだよ、とうさん……」
「だったらその金で酒を買ってこいってんだよォマヌケがァ!」

 その怒声を聞いて、わたしは心臓が握りつぶされるみたいに苦しくなったのを感じた。ひとが怒る声はどうしてこんなに怖いのだろう。「ディオ様、大丈夫ですか?」そう言ったはずなのに、その音はディオ様に届いていないようだった。
 ブランドーさんは、血の出ている口を痛そうに押さえるディオ様に、空になった瓶を投げつけた。ディオ様の頭のそばにぶつかったそれは、派手な音をたてて割れた。ディオ様をブランドーさんからかばいたかったけれど、わたしは身動きができなかった。わたしはいつの間にか、身体が透明になっていて、この光景をただ見ていることしかできなくなっていた。
 わたしはやっと、そうかこれはディオ様の記憶なんだ、と理解した。

「酒こそ薬だ! こいつを叩き売って酒買ってこいッ!」

 ブランドーさんがディオ様に投げてよこしたのは、女性用のドレスだった。「これは母さんのドレスだッ!」ディオ様はいやいやと首を横に振る。けれどブランドーさんは唾を飛ばしながら下品な笑い声を上げた。

「死んじまった女のものなんか用はねぇぜ!」

 なんてひどい、という言葉がわたしの口から出てきたけれど、それもディオ様には聞こえていないようだった。ドレスを抱きしめて顔をそこに沈めたまま、ディオ様は肩を震わせている。ブランドーさんはディオ様の持ってきた包みを乱暴に開いてなかの粉を一気に口に放り込むと、さらに酒をどっぷり流し込んで、喉を鳴らした。

 これがいま現実として起こっていることではないのはわかっていたのに、わたしはあまりに無情なその光景を見ていられなくて、でも透明になって自由の利かない身体ではそれを見ないようにすることもできなくて、早く夢から醒めたいと思いながら、ぎゅうっと目を瞑った。するとブランドーさんの荒い息と笑い声は途端に消えて、ディオ様が本を読んでいる側にいたときのような静寂が戻ってきた。

「醜いだろう。おれの父親は」

 その声はまた背後から聞こえてきた。振り向くと、さっきと同じようにディオ様が椅子に深く身体を沈めて本を読んでいる。でも今度は、その声の主は青年の姿をしていた。
 わたしは何と答えればいいかわからなかったから、黙ったままでいたけれど、動くようになった足を進めた。ディオ様が座っている椅子の隣まで来るとそこに膝立ちになって、さっき血が出ていたディオ様の口元に触った。もう血は出ていなかった。
 ディオ様は本を閉じて、わたしが顔に触れるままにしている。それから、わたしたちはしばらく見つめ合った。揺らめく蝋燭の炎が彼のアンバーの瞳を浮かび上がらせる。その瞳を見ていると、わたしは彼に伝えなければいけない、とても大事なことがあるのを思い出した。

「ディオ様わたし、あのときの質問に答えなきゃ」

 わたしはディオ様の頬を両の手で包んだ。

「ディオ様は『大切なものをすべて捨てられるか』とわたしに訊いたけれど…………わたしには『大切なもの』がそもそもあるのかすらわからなくて、あのときはすぐには答えられなかったの」

 でもね、と続けて、彼をやんわりと抱きしめた。彼の身体は、もうわたしの腕では包めないくらいに大きくなっていた。

「わたし、あなたのことが大切よ。あの春から夏に変わっていく季節しか一緒にいられなかったけれど、わたし、あなたのことが大好きになったの。一緒にお話したり、本を読んだり、ゲームをやったりして、とても楽しかった」

 ディオ様は何も答えないけれど、わたしは構わず彼の髪を指に通しながら頭を撫でた。

「あなたのひねくれた性格だって、気がつけば可愛らしいと思っていたの。あぁなんて、この子は器用で不器用で、綺麗で歪んでいるんだろうって思うと、あなたのことがもっと知りたくなった」

 彼のうなじに顔を寄せると、何かの香りが鼻に入ってきた。いつの間にか、あの春の日に出会った少年は、わたしの背を軽く越えていく、香りを纏った大人の男になっていたのだ。

「けれどね、ディオ様。わたし、あなたのことが大切だと思うのと同じくらい、他の人たちのことだって大切なの。『大切なもの』なんてわたしにはもうないと思っていたのに……知らないうちに、また大切な誰かも、大切な場所も、大切な思い出も、たくさんできていたの」

 もう一度、ディオ様の頬に手を添えた。額を合わせて、彼の瞳を覗き込んだ。彼も、わたしを真直ぐに見ている。

「だから、ごめんなさい。わたし、あなただけを選ぶことはできないわ」

 ごめんなさい、ともう一度言った。目の奥がつんとして痛かったから、ほんのちょっと目を閉じた。ディオ様の手が、わたしの手に重ねられた。

「あなたが謝ることなんてない。あなたはそういうひとだ。そんなあなただから、おれは……おれは、あなたを…………」

 ディオ様の言葉はそこで途切れた。次に目を開けると、わたしの身体は欄干に炎が揺らめくバルコニーに立っていた。雲のほとんどない空にはまんまるの月が昇っていて、冷えた空気が頬を撫でるのを感じた。目の前には、大きな影が立っていた。ディオ様だった。背中をこちらに向けて、崖下の向こうの暗闇を眺めているようだった。
 ディオ様、とその背中に声をかける。彼の頭はちょっとだけ上に動いた。月を見上げたみたいだった。

「ディオ様……わたし、結局、あなたの手に届かなかったの。あなたの手をもう二度と離さないと決めたのに、あのとき……届かなかったの」

 目蓋の裏に彼の最期が浮かんできた。あのとき、彼は最期にわたしの名を呼んだ。かすれた声で、でもすがるような声だった気がした。それを思い出すと悲しくて、悲しくて、手で顔を覆った。

「いいんだ。どうにもできなかったんだ。仕方が、なかったんだよ」

 そこまで言ってから、彼は振り向いて、わたしを見据えた。

「……ひとつだけ…………ひとつだけ、お願いしたいんだ。聞いてくれるかい」

 その問いかけに小さく頷いたわたしに、ディオ様はちょいちょいと手招きをする。わたしは一歩をゆっくりと踏みしめながら、彼に近づいた。彼の大きな身体の前に立つと、首を曲げて見上げなければならなかった。わたしを見下ろす彼の顔は暗くてよく見えなかったけれど、彼が微かに笑った気がした。

「ニナ、目を閉じて」

 そう言ったディオ様の大きな手が、わたしの頬を包む。いつもわたしが彼にしていたことを、今度は彼がわたしにしていた。
 わたしはゆっくりと目蓋を下ろした。そうして目を閉じてみると、風の冷たさや、夜の香りや、炎の音が、いつもよりずっと繊細に感じられた。だから、わたしの唇にそっと触れたものが何なのかということが、すぐにわかった。そこからじんわりとした温かさが伝わってきたのがよくわかったし、彼の吐息や鼻先が、少しかさかさした指とともに頬を撫でるたびにまた、温かいと思った。

 わたしはその瞬間が永遠に続いていくものみたいに思ったし、永遠に続いてほしいと思っていたのかもしれない。でも永遠に続くことなんてないのだともわかっていたから、目尻からは堪えきれなくなった雫がいくつか流れて、彼の手を伝っていった。

「ニナ、どうか──どうかおれを────」

 わたしの唇から温かいものが離れていったと思うと、目蓋の向こうに、光を感じた。彼の声が、まるで空に響いて聞こえてきたかのように感じたから、そろそろ目が覚める頃なのだと直感的に理解した。

 彼の声は霞んで消えていった。

 目蓋が、開いた。

***

 12月の中旬、4日間ほど眠ったきりだったニナが目を覚ますと、左にはジョナサン、右には目を赤くしたスピードワゴンがいて、彼らがそれぞれ自分の手を握っていたことに驚いて、でもなんだか安心して笑みがこぼれた。そのあと、しばらく何も入っていなかった腹を驚かせないようにと少しずつの食事を部屋に持ってきたエリナに無理を言って、ニナはたくさんの食べ物を次から次へと口に運んだ。夜には湯を溜めてじっくり浸かって身体を温めると、ニナは少し硬くなった手足や関節をほぐすことに時間を費やした。左腕にあった傷跡や痣は、もう綺麗になくなっていた。
 次の日の朝、朝食の席に何ということもない顔をしてニナが現れたから、ジョナサンもスピードワゴンもエリナもたいそう驚いたけれど、ニナが元気になったことが何よりも嬉しくて、どんどん食べ物を平らげていく姿に顔を見合わせて笑った。

 それから数日経つと、もう昏睡していたとは思えないくらい元気になったニナは、ジョナサンとスピードワゴンと今後のことを少しずつ相談し始めた。これまで調べ上げてきた石仮面の所在や、未確認だが石仮面が眠ってるかもしれない遺跡の場所を、ニナは特に何かに記すこともなく、記憶していた。チベットに戻ったトンペティとストレイツォにはニナが目覚めたことを知らせたが、遠い国の、しかも山奥の寺宛に手紙を出したので、返事はまだ先になりそうだった。
 それ以外の時間には、ニナはスピードワゴンに文学や音楽、絵画の話をしたり、スピードワゴンは旅先での出来事をニナに面白おかしく語り聞かせたりした。ニナはジョナサンとなら、彼がジョースター邸から持ってきた昔の手紙などを一緒に見返して思い出を語ったり、エリナとなら、午後の茶の時間を二人で編み物や刺繍の本を読んで過ごした。
 そうしている日々には、まるで苦しみ傷ついたあの戦いがなかったかのように、穏やかで「普通」の時間が流れていた。けれどニナもジョナサンもスピードワゴンも、時折ふとあの戦いのなかで目撃したたくさんの恐ろしい光景が脳裏に蘇っては、救えなかったたくさんの人々の顔を思い出す。それでも彼らは、自分には一緒に戦う仲間がいるのだと思えていたから、もう恐怖に震えることはなかった。

 その年の12月の末には、ペンドルトンの家で慎ましい休暇を過ごすことになった。
 大変なことがあった年だったし、ジョージがいない初めての冬となったけれど、ジョナサンはクリスマスを皆で過ごすことを楽しみにしていた。ここはジョースターの屋敷ほどは広くないし使用人も多くないので、あまり凝ったことはできない。でもそのぶん、24日の夜更けまでジョナサンはニナとの思い出やスピードワゴンとの出会いのことをエリナにたくさん話したし、ニナとスピードワゴンには、幼い日のエリナとの出会いや、たくさん遊んだ思い出のことを話した。
 25日の夜、小さなパーティーの席にはいつもよりちょっとだけ豪華な食事とワインが並んでいた。メインディッシュを食べ終わり、ニナがデザートは何だろうかと厨房から漂ってくる香りについてこっそり考えていたとき、ジョナサンが一つ咳払いをして、「ちょっといいかな」と改まった口調で話し始めた。

「えーと……まずは、こうしてみんなで過ごせる幸せに」

 ジョナサンはワインの入ったグラスを手に持って傾けた。ニナとスピードワゴン、それにエリナの両親はワインを、エリナは酒を飲まないので水の入ったグラスを、それぞれ軽い音を立てて乾杯をする。

「今年はいろんなことがあって、辛いこともたくさんあったけど……それでも、ぼくはいま幸せだと思うよ。これからだって、きっとそうだ」

 そう言ってジョナサンはまずエリナの両親に視線を送った。それからエリナと顔を見合わせて、頷きあった。一つ深呼吸をすると、ニナとスピードワゴンのほうを見て口を開いた。

「ぼくたち、結婚するよ」

 ジョナサンはエリナの手に自分のものを重ねる。二人は赤くなった顔を見合わせて、照れくさそうにはにかんだ。「何だって?!」スピードワゴンは驚愕の声を出して椅子から半分立ち上がった。「そんなッ聞いてねぇよ!」そんな抗議じみた言葉とは裏腹に、スピードワゴンの顔はこれまでにないくらい明るくて、目は潤んでいた。なぁニナさん、と隣のニナに話しかけると、彼女も手で口を押さえて目尻を下げながら、何度も頷いた。

「ごめん、急なことで、驚かせてしまって。結婚すると決めたのも、本当につい最近なんだ」

 ジョナサンは、少しだけ眉を下げた。

「……今年はいろいろなことがあったからこそ、ぼくは……ぼくたちは思ったんだ。……生きてる限り、何が起こるかはわからない。でもだからこそ、本当に良いことだって思えるなら、できるだけ早くやったほうがいいって」

 だから、結婚式の日ももう決めたんだ、そうジョナサンが言ったものだから、ますますスピードワゴンは驚いたし、ニナは思わず拍手した。

***

 年は明けてクリスマスやニューイヤーの高揚感が鳴りをひそめた頃、まだまだ寒い日が続いていた。
 そんな季節だけれど、ジョナサンとエリナはリバプールの小さな教会で、親しい人だけを集めて結婚式を挙げる。本来ならジョースター家の後継者としての発表も兼ねて大々的に式を開くのだが、ジョージが急逝したばかりなのと、屋敷も建て直し中なので、ひとまず小さな式だけを執り行うことになった。

 ニナは初めてイギリス風の結婚式というものに参加するから、その2月2日が近づくにつれて式の様子と綺麗に装ったジョナサンとエリナの姿を想像しては、楽しみ楽しみで気の休まらない思いがした。
 けれど同時に、ニナの心にはひとつだけひっかかることがあった。それは、12月に目を覚ましたときに側にいたジョナサンとスピードワゴンが、自分の左腕にあった傷について、それに──ディオとの戦いで剣を使わずに彼の腕を落としたことについて、何も尋ねてこないことだった。それにニナは、医者が診察に来たとき自分の情報が記された診療録をちらっと見たけれど、そこには生年が「1858」と書かれていた。ジョナサンに自分の生年を話したことはないはずだから、彼は適当な年を医者に伝えたか──あるいはジョージの部屋に保管されている何らかの書類を確認したのに、でたらめな数字を教えたかだ。もし後者なら、スピードワゴンはともかくジョナサンは確実に、何かに気がついている。そうニナは考えていた。

 ニナは、これまで自分が多くのことを秘密にしたままジョナサンやスピードワゴンと関わってきたということを自覚していたし、その秘密はいずれ明かさなければならないときが来るかもしれないということも、わかっていた。自分は一人ではない、一緒に戦ってくれる人がいる、そう思えることにニナはこれ以上ないくらい安心を覚えているけれど、同時にこれ以上彼らと関わるこということが、すなわち自分の抱えているものを彼らに共有しなければならないということでもあるのだと思うと怖かったし、そしてこれから進もうとする道が正しく、適切であるのかがわからなくなる。
 そして、ジョナサンやスピードワゴンが何も聞こうとしないということが、かえってニナを迷わせていた。だからニナは、この穏やかで「普通」な、猶予の期間にいつまでもとどまっていたいと心のどこかで思いながら、いずれ必ず来る決断の日までの勘定をしては、胸がふさぐ思いがした。

 結婚式の段取りが決まってきたある日の午後、ジョナサンは部屋で本を読んでいるニナを訪ねた。
 ニナ、いまちょっといいかいと言って入ってきたジョナサンに、もちろんですと返事をする。ニナは内心、エリナと結婚することが決まっても、ジョナサンがこうして変わらず接してくれることが嬉しかった。上流階級の人間というものはしきたりや規範が大好きな者ばかりだと思っていたから、なおさらだ。

 ジョナサンはニナが座っている向かいの椅子に腰掛けると、エリナとちょっと話していたんだけど、と前置きした。その口元は喜びや期待が隠しきれずに、へんに力が入って、まるで酸っぱいものを食べたときみたいになっている。

「式のことをいろいろ考えていたんだけどね……当日は、父さんと母さんの写真を一番前に置こうと思っているんだ」
「まぁ。それはとても良い考えですね。ジョージ様もメアリ様も、ジョナサン様の立派な姿を一番前で見たいでしょうから」
「うん。それで……君がもし、良かったらなんだけど……」
「はい、ジョナサン様」
「母のドレスがたくさん遺っているから、それを着て……ニナ、君が両親の写真の隣に座っていてくれたら、嬉しいなと、思うんだけど……」

 ジョナサンはぽりぽりと頬を掻いて、どうかな、と上目でニナを見た。ニナはちょっと驚いた目をしたけれど、ジョナサンの「酸っぱいものを食べた口元」が自分の口元にも現れたのがわかったから、ちゃんと手で覆って隠した。でも次第に、顔全体が笑っているのか泣いているのかわからないみたいにくしゃくしゃになってしまったので、あまり手で隠した意味がなかった。
 ニナの返答を待っているジョナサンには小刻みに何度も頷いて返事の代わりにして、胸元に手をあてながら深呼吸をすると、少し落ち着いた。「あの……」まずはジョナサンにどの気持ちから伝えればいいか、考えながら喋り始める。

「そう言っていただけて、……本当に、本当に嬉しいです。本当に、光栄なことで……わたしなどが、良いのだろうかとも思いますけれど……」

 ニナにしては珍しく、整理されていないままに思いをどんどん述べていく。ジョナサンはその様子が期待した通りの、いやそれ以上の喜びようだったので、内心踊りだしてもいいくらい嬉しかった。

「あたりまえだよ、だってニナは……ニナは、ぼくらの家族だから」

 その言葉には、言葉以上の気持ちが込められていた。幼い頃からずっと自分を見守ってくれていたニナへの、離れていても欠かさず手紙を送ってくれたニナへの、一緒に過酷な戦いを乗り越えたニナへの。
 ジョナサンはニナの手を握った。家族だから、と言われたニナの瞳が揺らめいて、縁に雫が溜まったのがわかった。

「だからね、ニナ。いつになったっていい。いつか君のことを、聞かせてほしいんだ」

 その言葉の裏にどんな意味が込められているかなんて、ニナには考えなくてもわかった──あぁ、またこの瞳。真直ぐにわたしを貫く、誠実で、優しい瞳。ニナは重い唇を開いた。

「……わたしはあなたが大好きなのに、……自分のすべてを話そうとすることが、どうしても怖い。……わたしがどのように育ったのか、これまで何をしてきたのかを聞いたとき……あなたがどんな顔をするだろうと、考えただけでも恐ろしいのです」

 ニナは目をぎゅうっと閉じた。これまでの後悔も反省も、救えなかったたくさんの人たちも、裏切った「大切なもの」も、その目蓋の裏に浮かんでは消えていった。ジョナサンはしばし、目も口も、手のひらも固く結んだニナを見つめる。それからジョナサンは、固くなったニナの手を、ゆっくりと解いていく。ニナ、と彼女の名を呼んだ。

「……君がどんな人生を送ってきたのか、そんなことはどうだっていいんだ。重要なのは、いまニナがここにいて、ぼくたちを大切に思っていて、ぼくたちも君を大切に思っていることだよ」

 そうでしょう、ニナ、そう呼びかけると、ニナは涙の零れそうな目を開けた。

「それに、生きてる限り人はいつだって変われるし、いつだってやり直せるんだ。……君には、その勇気があるはずだよ。だから大丈夫だよ、ニナ。きっと、大丈夫だよ」

 ジョナサンは、指でニナの睫毛から落ちそうになっている雫をすくった。ニナはその手に自分の手を重ねた。

 ──あぁ、なんてこと。わたしは、この子のことが大好きで、この子のことなら何でも知っていると思っていたのに。それなのに、やっと気がつくなんて──そう、この子はこんなにもわたしを好きでいてくれる。こんなわたしを、家族だと言ってくれる。この子は、わたしが思っていたよりずっとずっと──優しくて、強かったのだ。

 ニナは落ちてきた涙をすくいとってもらうようにして、ジョナサンの手に頬を寄せた。

「……いつか……聞いてくれますか。わたしの、これまでのことを」

 ジョナサンはもちろんだよ、ニナ、と言って頷いた。その手は陽の光みたいに温かいと、ニナは思った。

***

 結婚式の次の日には、これまたジョナサンは「善は急げ」と言わんばかりに新婚旅行の旅程を組んでいた。彼らが向かうのはアメリカ大陸だ。ジョースター家の親戚が何人か北アメリカで貿易や工業の事業を成功させているのでそれを訪ねるのと、メキシコやペルーの遺跡を巡ったりもするという。
 ジョナサンとエリナは2月3日の朝早くにロンドンへと出発し、その日は一泊してロンドン港から大西洋を渡る旅客船に乗る。スピードワゴンはジョナサンとエリナを見送りがてら、昔馴染みの仲間に会いにロンドンへと一緒に行くことになった。 ニナも一緒に行かないかとジョナサンに誘われたけれど、チベットに送った手紙の返事が来るかもしれないし、屋敷の改修もそろそろ終わるので忙しくなるからと、ニナは断った。

 出発の日は、雲が厚い天気の悪い日だった。ジョナサンとエリナは明日の港の天気を心配して、スピードワゴンは「幸先が良くねぇなぁ」と空を睨みつけた。でもニナにとってそれが幸いだったのは、外に出てジョナサンとエリナを見送ることができたからだ。時間きっかりに到着した馬車にたくさんの荷物を詰め込むと、ニナはエリナとハグをして、それからジョナサンに言った。

「遺跡を巡るのはよろしいですけれど、どうか怪我だけはなさいませんように。あと、道端で売っている怪しい食べ物には手を出してはいけませんよ。ジョナサン様が大丈夫でも、エリナ様はどうなるかわからないのですから。スリやぼったくりにも気をつけてくださいね。それから、……」

 ニナは自分がアメリカ大陸に住んでいたことがあったから、いつもより早口に、たくさんの旅の心得をジョナサンに伝えた。ジョナサンはちょっと驚いた顔をしてから、「ニナ、昨日もそれは聞いたよ」と言って笑った。だって心配なのですもの、とニナは言い返したかったが、エリナもスピードワゴンも笑い出すし、ジョナサンが「ニナは父さんに似てきたかもしれないな」と神妙な面持ちをして言うものだから、ニナもつられて笑ってしまった。

 そうして皆で笑っていると、ニナは、いまこのときがとても幸せだと感じた。この道の先に待っているたくさんの辛いことも、苦しいことも、この人たちと一緒ならきっと大丈夫だと思えた。

「ジョナサン様、エリナ様。いってらっしゃいませ」

 希望はきっとあるのだ。どんなに辛くても、苦しくても、勇気を失わない限り、きっといつか光が差すのだと、ニナは心の底から思えた。

 3人は馬車に乗り込み、ジョナサンは小窓から顔を出してしばらく手を振っていた。ニナは、心に灯った温かなものを抱きしめるように、ジョナサンに振り返した手を胸にあてた。ニナは、馬車の姿が地平線の点となって見えなくなるまで、しばらくそこに佇んでいた。


prev back to list next
- ナノ -