28


 ディオが崖下の暗闇に姿を消してから、ジョナサンは一筋涙を流して、そのまま倒れた。ニナは彼の身体を支えて、気を失った彼の瞳から流れた涙に唇を寄せた。ジョナサンの身体は大きくて、重くて、けれど温かかった。

 ストレイツォやトンペティは館に残った屍生人たちを、まだ動いているものもそうでないものも、1体を残したほかはもれなく気化し、残した1体に町をうろついていた数体の屍生人の居場所を聞き出すと、それらの討伐に向かった。ニナはスピードワゴンをジョナサンのそばに残して、ポコと館に捕らわれていた町の住民たちを連れて家に帰した。それから最初の戦闘があったトンネルに戻ってくると、御者の遺体と切り殺された馬の首を埋葬し、もうほとんど形のなくなった屍生人の骨も土に埋めた。館に戻ってくると、ちょうどジョナサンが意識を取り戻した頃だった。
 5人は崖下で回収してきたディオの衣服を燃やし、石仮面は粉々に砕いた。そうしていると、東側の空が明るみ始めた。

 そこからジョナサンは、どのようにしてリバプールに帰ってきたのかをよく覚えていない。ウィンドナイツ・ロットの町に来るときに通ってきたトンネルは最初の戦闘で入り口が塞がれて使えないので、町の南側の海岸を東か西か、どちらかに進んでいった。その先の町に到着すると、スピードワゴンが馬車を2台呼んで、片方にはニナとジョナサン、スピードワゴンが乗り、もう片方はトンペティとストレイツォが乗った。どちらの馬車も、ひとまずリバプールへ向かった。
 いつもの何倍もチップを握らせた馬車は、馬の交代以外はほとんど休まず真直ぐにリバプールへの道を走った。次の日にまた太陽が昇ってしばらくして、見慣れた景色が見えてきたころに目を覚ましたジョナサンは、エリナの家に到着した途端に膝の力が抜けたようになった。勢いよく扉を開けて出迎えたエリナに、ぼうっとする頭で何とかジョナサンが言えたのは「ただいま、エリナ」、それから「お腹が空いたよ」という言葉だけだった。

 エリナが驚いたのは、2週間ほど前に突然「ニナとツェペリさんと一緒に、ロンドンのほうに行ってくる」と言ったきりだったジョナサンが、あちこちに切り傷や打撲の痕を作って、やつれた顔のスピードワゴンと、農夫のような格好をした顔色の悪いニナを連れて帰ってきただけではなく、そのうしろには初めて見る顔の男2人もいたことだった。
 エリナは「いままでどこにいたの」とか「どうしていきなり帰ってきたの」とか、「その怪我はどうしたというの」とか、ジョナサンやニナやスピードワゴンにあれこれ聞きたい気持ちがあった。けれど「ごめんねエリナ、まだ1人1部屋使えるかな」と言ってジョナサンがばつの悪そうな顔をするものだから、エリナはそれを聞かずに、ちょうど使用人が昼食の準備をしていると伝えたのだった。

 大幅に人数が増えたけれど、なんとか使用人たちが食事の用意ができたと伝えると、皆が食堂に向かった。しかしニナは具合が悪いからと自分の部屋に運んできてもらうように頼んでいたらしく、食堂には現れなかった。
 それを聞いて心配になったジョナサンは、ニナの部屋を訪ねた。ノックをするが、返事はなかった。エリナを呼んで一緒に部屋に入ってもらうと、そこには手のつけられていない食器と、寝具もかけずにベッドに横たわるニナの姿があった。

「……ニナ?」

 ジョナサンがそっと呼びかけるが、ニナは起きない。2人はニナに近づいていく。ベッドの上には包帯が散らばり、鋏が半開きになったまま置かれていた。どこか怪我をしたのを自分で処置したようだった。それらをエリナが片付けて、ジョナサンはベッドの端に座ってニナの手をとった。

「ニナ。眠いだろうけど、食事を取らなければいけないよ……ニナ?」

 これじゃあどちらが年上かわかったものではないとジョナサンは笑みをこぼしたが、握った彼女の左手が熱いことに気がついて、すぐに驚いた顔になった。額に触ると、やはり感冒を患ったときのように熱い。もう一度確かめようとニナの手を握った。すると、ニナの着ていた服の袖がひらりと落ちて、彼女の包帯の巻かれた左腕が見えた。ジョナサンはその状態に目を見開いた。包帯の端から覗く左腕はひどく腫れて、青黒い痣ができていたのだった。

***

「毒蛇か何かに、噛まれたんでしょうな」

 ほら、ここに小さな噛み傷がある、そう言って医者は唸った。

「しかしここまでひどいものは初めて見ましたよ。噛まれたのは1箇所や2箇所じゃあないみたいだ。こんなに腫れるくらいたくさん噛まれたなら、……症状は発熱で済むわけないと思うんですがね」

 ジョナサンは噛み傷と聞いて、ディオとの戦いの前に襲ってきた屍生人に、全身に蛇を潜ませた者がいたことを思い出した。しかし、あのときニナは蛇に噛まれたような素振りを見せなかった。彼女は剣をずっと右手で持っていたけれど、結局あのあと剣を振るうこともなかったから、左腕をかばっていたのかもわからない。
 おそらくニナは蛇に噛まれたのを放っておいたんだ、それに嘔吐もしていた、とジョナサンは言いかけて、しかしこの医者に事情をどこまで説明すればいいのかも迷った。何より、ニナがこれからどうなるのかを聞くのが怖かった。スピードワゴンはそんなジョナサンの心情を察して、聞きにくいことを聞こうと意を決した顔になった。

「……そ、それで…………この人は、大丈夫なんですかい」
「ううむ……見たところ、命が脅かされているようには考えられんのですよ。熱は高いが、脈も呼吸も正常だ」

 医者は信じられないですがね、と言ってまた唸った。それを聞いて、ジョナサンとスピードワゴンは顔を明るくしたけれど、「しかし」と医者が続けたのを聞いて、すぐにまた緊張した面持ちになった。

「いつ目覚めるかは……正直わかりませんな。早ければ明日にでも。遅ければ……もう数日はかかるでしょう」

 医者はそう言って、持っていた診療録のページに何かを書き込み始めた。ジョナサンとスピードワゴンは、自分たちは何をすればいいかわからずに、おろおろとして立っている。

「看病の方法は、ドクター・ペンドルトンの娘御……エリナさんか。彼女に言っておきますんでね。あぁ、それとジョースター様。クラークさんの生年月日は?」
「えっと…………」
「彼女の診療録に書かねばならんのです。あと生まれと、家族構成もできたら教えてもらえますかな」
「あぁ、はい……うーんと……」

 ジョナサンは思い出そうとする素振りを見せたが、そもそもニナの生年月日も、その他の情報も、知らなかった。というのも、彼女は自分の誕生日も、年齢も、生まれた土地や家族のことも自分からは言わなかったし、ジョナサンが尋ねたとしても「寒い季節の生まれです」とか「家族はもういません」とか、そういうあいまいな返答しか出てこなかったからだ。ジョナサンは、ジョージの子ども時代を気にしたことがあまりなかったのと同じように、ニナの子ども時代や彼女のこれまでの人生のことも、あまり気にしたことがなかったなと思った。自分が生まれる前のことを聞いてみたいと思う年頃にやっとなったと思ったら、ジョージにはもう昔のことをあれこれと教えてもらうことはできない。そのことがジョナサンは悲しくて、目の奥がつんとしたけれど、でもその代わりニナにはこれからたくさんのことを聞こう、時間はいっぱいあるのだから、と前向きな気持ちにもなった。

 ジョナサンは、医者にしばらく待ってもらえるか聞いた。ジョージなら、ニナをガヴァネスとして雇う際に彼女の経歴を紹介した斡旋所からの手紙を保管しているかもしれなかった。ジョナサンはジョースターの屋敷に向かった。

***

 使用人たちや町の住民たちが懸命に片付けてくれていたおかげで、半焼した屋敷の瓦礫や燃えかすは、ほとんどがなくなっていた。炎を生き延びたジョナサンやジョージの自室はいつ崩れるかもわからなかったが、いまは木や煉瓦で壁や柱を補強してあるので、少し立ち入ることくらいならできるようになっていた。

 屋敷を建て直すために作業に来ている大工たちに会釈すると、ジョナサンはジョージの自室に入った。部屋の壁や家具は灰にまみれて薄汚れているが、棚のなかに収められている書類や本は無事だった。しかしジョナサンは、父にこの屋敷の管理についてきちんと教えられることもないままだったから、どこに何のためのものが収納されているかということは全然見当がつかなかった。ジョナサンはとりあえず、書類が保管されている棚の一番端から探してみることにした。

 棚から綴りや封筒を取り出しては内容を確認して戻すのを繰り返していると、やっと使用人の人事に関係する書類の束にあたった。途中で何度も、父が母と交わした手紙だとか、父が母に贈った宝石のリストだとか、旅行先で買った絵葉書だとか、ジョナサンがじっくり眺めたいものがたくさん出てたけれど、我慢した。とはいっても、その人事の書類も、ジョナサンにとっては面白かった。そこには、ジョナサンが生まれるずっと前に家政婦をやっていた女性や、執事をやっていた男性の日誌もあったし、誰がいつ屋敷に雇われて、どんな理由で退職したのかも書かれていた。ジョナサンは一瞬じっくりと読み込みそうになったが、いけない、ドクターを待たせているんだったとかぶりを振って、それらを仕分けていった。
 幸いなことに、だいたいの書類が年代別にきれいに整理されていたので、1873年ごろのものへとすぐにたどり着くことができた。

「1873年かぁ……もう15年前にもなるんだな」

 ジョナサンの口からは、もの懐かしさのような、しみじみとした思いが言葉になって出た。いくつかの紙をめくると、「ガヴァネスに係る事」と表に書かれた封筒を見つけた。これだ、とジョナサンは思った。
 そのなかにはさらにいくつかの封筒が入っていて、それぞれにモリス、ライト、ジェイムズなどの斡旋所のスタンプが押されている。それらを一つ一つ開けてはその手紙に書かれている内容を確かめていった。すすとすぐに、「ニナ・クラーク」という文字の並びを発見した。
 おお、あった、とジョナサンは呟いて、その中身をよく読んでいった。

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親愛なるジョージ・ジョースター卿、

 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
 ご依頼いただきました件でございますが、ご要望に適した女性をご紹介させていただきます:ミス・ニナ・クラーク。彼女の人柄、長所等はクレア卿の紹介状にてご確認されるのがよろしいかと存じます。

 今回ミス・クラークをご紹介するのは、彼女の熱心な要望を受けてのことでございます。ミス・クラークはイングランド北部の地方都市の中産階級の生まれながら、高い教養を身につけており、それを最大限生かした職業を望んでいます。以下の経歴をお読みになればおわかりになられますでしょうが、彼女の志半ばで病に倒れた父親が、教師を務めていたということも影響しているでしょう。

 ただ、ミス・クラークの経歴は少々特殊と言わざるを得ません。しかしながら、それは彼女の有能さを表していることでもありましょう。以下に彼女の経歴を記します。

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 ジョナサンは初めてニナの背景を知るのだと思うと、心做しか探検家や冒険家が旅の前に抱くような高揚感を感じた。

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ニナ・キャロライン・クラーク
1844年5月24日生まれ、アッシントン出身、教会学校の教師の家系、父親はミドル・スクールの教員で、祖先はドイツ系移民。母親はロシア帝国出身。家族構成:父、母、本人。
ブロンド、グリーン/ブルーの瞳、長身、標準的な体型。未婚、子ども:無し。
担当可能科目:英語、ラテン語、ギリシャ語、フランス語(いずれも読み書きおよび会話のレッスンが可能)、哲学、文学、歴史学、算術。

1857年:両親を流行り病で亡くしたとのこと。家財一切は親戚に分散。身一つでヨーク、リーズ、シェフィールドなどの地方都市で家事使用人として働く。内容はスカラリーからオールワークへ。
1860年頃:ロンドンに上京。ウェスト氏(クリスピン・ストリート187番地):オールワーク。
1861年3月〜1863年6月:スコット氏(オールドキャッスル・ストリート16−9):パーラーメイド。
1863年9月〜1865年12月:ワトソン氏(スローン・ストリート109番地):レディースメイド。
1866年1月〜1868年3月:クレア卿(ウェリントン・ロード23番地):コンパニオン。

 なお、1868年5月〜1872年10月の間、ミス・クラークはヨーロッパやアメリカに住む遠い親戚を訪ね歩いていたとのこと。詳しいことは本人からお聞きになるのがよろしいでしょう。

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 ジョナサンは、ニナの経歴が書かれた部分の上から下までを流し読みするように目を通した。生年月日、生まれた地域や家族構成まで書いてある。よかった、これをドクターに見せればいい、そうジョナサンは思って手紙をたたみかけた。しかし、一度手紙の半分を封筒にしまいかけてから、「んッ?」と小さな声を出して、再び手紙を取り出した。
 ジョナサンは、ニナの生年月日をもう一度確認した。今度は流し読みではなく、じっくりと──そこには、ニナが1844年生まれだと確かに書かれていた。

 ジョナサンは視線を右斜上にやって一瞬気を落ち着けてから、再び手紙に書かれている文字を見た。でも何度見ても、そこには1844年という文字が並んでいるのだった。ジョナサンは頭の中で、現在の西暦である1888年から、ニナの誕生年である1844年を引いてみた。すると、最初に感じた違和感の正しさを裏付けるように、その結果は「44」だった。
 ジョナサンの眉間にはしわが寄って、口は開いたままになった──ニナが、44歳? いや、あり得ない、だって彼女はどう大きく見積もっても20代の後半じゃあないか……ぼくよりも20歳以上も年上だなんて、そんなことはあり得ない──ジョナサンは頭の中で、だいたいの年齢を知っている女性たちの姿を、年齢順に思い浮かべてみた。はじめにエリナ、続いてパブリックスクールや大学の事務員たち、それに夜会や茶会で出会った婦人や令嬢たち。そのいずれと照合したって、ニナが40代というのはやはりおかしいと思った──いや、正確に言うなら、ニナの落ち着いた物腰は、40代と言われても不思議ではない。彼女の教養だって、何十年も真剣に取り組まなければ得られないような、広さと深さをもっている。彼女の俊敏で巧みな武術を見ても、相当な時間をかけて訓練を重ねてきたのだとわかる。しかし、ニナの見た目は、どう考えたって「妙齢の女性」のそれだった──もし彼女が、流行の服で着飾ったり、厚い化粧を施したりすれば、なおさら。

 ジョナサンはぽりぽりと頬を掻いた。どうしていままで気がつかなかったのだろう──ニナの姿が、ずっと昔から変わっていないということに? 子ども時代ならまだわかる。子どもというのは、「大人」を皆同じものだと思いがちだからだ。それにニナとは自分が5歳の頃からずっと一緒にいたから、見た目の変化に気がつかないのも無理はない、そうジョナサンは思った。けれど同時に、いや、ちょっとした違和感はあったのだ、とジョナサンは思い出した。7年ぶりにニナと再会した日のことだ。あの日久しぶりに見た彼女の姿が、7年前から更新されていなかった自分の想像と一致していることに、少し驚きはしていたのだ。しかしあのときはいろいろなことが重なって、ひどく動揺していたから、その違和感をいつまでも気にしてはいられなかった。
 ジョナサンは小さく唸った。しかしだからといって、この違和感を改めて深追いしようという気にもなれずにいた。石仮面、屍生人、吸血鬼、それに、「波紋」。いままで当たり前だと思っていた「自然」というものの摂理から外れた現象を多く目撃してきたいま、この違和感を深追いした先に待ち受けている何かが、正直なところジョナサンには怖かった。

 ニナにはまだ抱え込んでいる秘密があると、ジョナサンはなんとなしに見抜いていた。彼女が、なぜ石仮面の秘密を知ることになったのか。なぜ石仮面を破壊する旅をたった一人で続けてきたのか。ジョナサンは、ニナと石仮面の間に、ともすれば自分の想像を越えた因縁が横たわっているのではないかと、そしてその因縁が彼女を苦しめているのではないかと考えて、ため息をついた。
 それに、ディオとの最後の戦いで、ニナが彼の腕を剣を使わずに落としたというあの瞬間のことを、ジョナサンは鮮明に覚えている。彼女がどうやってディオの腕を落とすことができたのかジョナサンには想像がつかないけれど、それは彼女が語っていない何らかの能力を示していることは明らかだった。

 ジョナサンは手紙を手に持ったまま、焦点の合わない目で虚空を見つめた。それから手紙を封筒にしまって、屋敷をあとにした。

***

 ペンドルトン邸に戻ってきたジョナサンは、医者に小さな紙切れのメモを渡した。

「えー、……ニナ・キャロライン・クラーク、……アッシントン出身、……1858年生まれ、……」

 医者はジョナサンから受け取ったメモを見ながら、ニナについての情報を診療録に書き写していった。彼女の生年だけは嘘のものだったけれど、医者はでたらめの生年をそのまま書き写してくれたので、ジョナサンはこっそり胸をなでおろした。

 医者が帰った次の日も、その次の日も、ニナはずっと眠ったきりだった。けれどだんだん熱は下がり顔色も良くなってきているので、回復が順調であることに皆胸を撫で下ろした。エリナはニナの身体を拭いたりなんとか水を飲ませたりして、ジョナサンやスピードワゴンはその合間に様子を見に来ては、彼女の手を握って名前を呼んだりしてみていた。トンペティとストレイツォは、ニナに「波紋」を流して治療してみるのはどうかとジョナサンに提案したが、彼女の肌が日光に弱いことを伝えるとその案は没になった。
 ウィンドナイツ・ロットでの戦いの疲労からは、「波紋」が使える者たちはかなり回復していた。一方スピードワゴンはまだ筋肉痛やら打撲の痕やらが残っていて、懲りずに「波紋」を使えるようにならないものかとトンペティに打診しては、「波紋」の拳を打ち込まれて咳き込んだ。ジョナサンは、これからこの世に残る石仮面を破壊する算段をつけようとトンペティと少し相談したが、ニナもその相談に加わったほうが遥かに効率的だということが早々にわかったので、本格的に動き出すのは彼女が目覚めてからになった。しかしいつ目覚めるのかもわからないので、トンペティとストレイツォはひとまずチベットの山寺に帰還することになった。

 トンペティとストレイツォがリバプールを出発するのを見送ったあともニナはまだ目覚めずに、ウィンドナイツ・ロットの戦いから5日が過ぎようとしていた。
 ニナの寝ている部屋にはジョナサンとスピードワゴンが様子を見に来ていた。仰向けになっているニナの組んだ手の乗った胸が、規則正しく動いている。2人がしばらくその様子を見ていると、ニナの手がぴくりと動いた。ベッドのそばに座っていたジョナサンがそれに気がついて、ニナ、と声をかけたが、ニナは目を開けず、ただその口からは微かに乱れた吐息がもれた。ジョナサンはスピードワゴンのほうを振り返ると「夢でも見ているのかな」と笑った。けれどその内心では、早く目を覚ましてほしい、早く彼女の声が聞きたい、早くこれまでの、これからのたくさんのことを話したいという思いばかりが募っていた。

「ん…………、う…………」

 ニナの口からは意味のない音がもれて聞こえてきた。ジョナサンはニナが夢のなかで苦しんでいるのかと心配になって、彼女の手を握りニナ、ともう一度名を呼んだ。すると彼女の目の端にどんどん雫が溜まっていって、すうっと頬を伝っていった。

「ニナさん…………」

 スピードワゴンもニナの近くに来て、彼女が眠りながら泣いているのを悲痛な顔をして見つめた。それからひとつ小さく息を吸って整えると、スピードワゴンはジョナサンの背中に言った。

「ジョースターさん。…………ニナさんはあの戦いのなかで、ディオの奴の腕を、……剣を使わずに、落としたな」
「…………」
 ジョナサンはゆっくりと振り返って、スピードワゴンを見た。
「トンペティさんたちは屍生人と睨み合っていたから見ていなかったが……おれは、…………」
「…………」
 ジョナサンはまたニナのほうを向くと、黙ったまま彼女の手を握りなおした。
「それに、医者も言ってたよな、ニナさんは毒蛇に噛まれたんだろうって。……その毒蛇って……ジョースターさん、あんたが戦ったあの屍生人が、体内に飼っていやがったやつだよな」

 スピードワゴンはジョナサンの隣に座った。落ち着きなく手を組んでは解いて、ジョナサンに話しかけているのに彼のほうは見ないで、話し続けた。

「……こんなこと、本当は言いたかねぁんだが……ニナさんは…………、ニナさんには……まだ何か隠してることがあるんじゃあねぇかって、思っちまうんだ……」

 そこまで言うと、スピードワゴンは両手で顔を覆った。絶対に言いたくなかったことを言ってしまったみたいに心苦しそうな顔をして、ため息をついた。ジョナサンは、スピードワゴンの言ったことに対して、すぐには答えなかった。2人の間には、重たい沈黙の時間が流れた。
 しばらく2人とも何も言わずにニナが眠っているのを見つめていたが、やがてジョナサンはニナの左手を取ると、服の袖をまくって、腕に巻かれていた包帯を解いた。そこには、ニナが高熱を出した最初の日には酷いくらいに広がっていた噛み跡と青黒い痣が、もうほとんどなくなっていた。スピードワゴンは息をのんだ。「どういうことだ」と独り言のように呟いて、ジョナサンの横顔を見た。ジョナサンは綺麗になったニナの左腕をさらさらと撫でながら、口を開いた。

「…………ぼくも、ニナにはまだ、抱え込んでいる何かがあると、思う。……それに、きっとその秘密が、ニナというひとを形作ってきた決定的な何かだということも……」

 ジョナサンは包帯を解いたニナの左腕の袖を、元に戻した。

「でも、ぼくはニナを信じているんだ。ニナにどんな秘密があったって、ぼくは彼女の味方だし、彼女がまだ話そうとしないのなら、それでいいと思うんだ」
「……ジョースターさん」
「それにね、スピードワゴン。ニナだって、どんなことがあってもずっとぼくたちの味方だよ。それだけは、確かなことなんだ」

 だから君も信じていてほしい、そう言ってジョナサンはスピードワゴンを真直ぐに見た。ジョナサンの深い青の瞳が自分を映すと、スピードワゴンは、ちくしょう、この人のこの瞳におれは弱いんだ、と思った。スピードワゴンはニナに視線を戻して頭をぽりぽりと掻いた。それからにいっと笑って鼻をこすると、ジョナサンとは反対側のベッドの側に行って、そこに座った。そしてジョナサンと同じようにニナの手を握った。

「わかったよ、ジョースターさん。おれはあんたを信じてる。だから、あんたが信じるニナさんのことも、おれは信じるよ」

 それを聞いたジョナサンは泣きそうな顔で笑って、ありがとう、と言った。


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