27


 新たに現れた屍生人がどのような攻撃をしてくるか様子見をするために、ニナは距離を詰められるたびに離れる。この部屋は広く、天井が高いので動き回るには良い条件ではある。しかし剣でこの大きな屍生人の急所に一撃を入れなければ、倒すことができない。ニナはしばし適当な距離を保って屍生人の俊敏さを予測したあと、壁を蹴って跳躍し、屍生人の右側の首元を狙って剣を斜めに振り下ろした。
 しかしその瞬間、ニナの左側の腕に鋭い痛みが走った。しかも剣は屍生人の太い右腕によって防がれてしまった。ニナは素早く屍生人から距離をとった。痛みのある場所には衣服を突き破って小さな裂傷や、針で刺したような傷があり、少量の血が流れていた。何かをされた、そう認識して屍生人のほうを見ると、その右腕からは数匹の蛇が顔を出し、舌をちろちろと覗かせていた。この傷は、蛇の牙が皮膚の上を滑り、穴を開け、裂いたあとだったのだ。あれらが毒蛇だったなら、という可能性を考えたと同時に、ニナは左腕が痛みとともに痺れてきたことを感じた。
 ニナは体勢を整えて、ひとつため息をついた。剣は片手でも握れるが、強い攻撃を与えたり、攻撃を受け流すことが困難になった。窮地という言葉が似合う状況だった。ニナの頭のなかには、できるだけ避けたかった──本音をいうなら、絶対にとりたくなかった選択肢が浮かんできた──もう、あの方法・・・・を、使うしかないのか──そう思ったとき、立ちはだかる屍生人の頭に何かが落ちてきた。それはぐしゃ、という音をたてて、屍生人の頭の半分を潰した。

 ニナが上を見ると、天井の窓枠にはジョナサンやスピードワゴン、それから初めて見る顔の男たちもいて、こちらを見下ろしていた。

***

 蛇を身体に棲まわせた屍生人をジョナサンが「波紋」の力で倒すと、やっとニナも上がっていた呼吸を整えることができた。痺れの増してきた左腕を隠して、ニナはジョナサンの名を呼んだ。

「ジョナサン様!」
「ニナ!」

 こうして無事に再び会えたことが、現実かどうかさえもままならないほどの緊張だった。それをどうにかしようと、ニナとジョナサンは、互いの名を呼び合って、存在を確かめ合うように、抱きしめ合った。そうしているとスピードワゴンや、ニナの知らない3人の男たち、それから崖下での戦いの前に出会った少年が、次々と部屋へと下りてきた。

「ジョナサン様、みなさん、この館にいる人たちは解放されるはずです。しかし、彼らを無事に帰すためには、…………」

 ニナはそこまで言ってから、ディオが出ていった扉のほうを向いた。ジョナサンはその仕草で察して、うん、と頷いた。

「ねぇお姉さん! おいら、ねえちゃんを探してるんだッ、見なかった?!」隣でポコはあたりをきょろきょろと見回す。
「ポコ。きっと君のお姉さんもこの館のどこかにいるはずだ。ダイアーさん、ストレイツォさん。この子を連れて行ってくれますか。必ず無事に帰すからそれまで隠れていてと、伝えてください」

 ジョナサンは外套をまとった男たちに目配せをした。ダイアー、ストレイツォと呼ばれた男たちは頷くと、ポコを連れて捕らわれている人々の所在を確かめに行った。その場に残ったのは、ニナとジョナサン、スピードワゴンともう1人の老いた男だけになった。ジョナサンはその老人のことを、トンペティさんだ、と紹介して何かを言いかけてから口をつぐんだ。ニナは、この町に到着したときよりも人数が増えたのに、肝心の人がいないということに先ほどから気がついていた。

「ジョナサン様、…………ツェペリさんは…………」
「……彼は…………」

 ジョナサンは涙が落ちそうな目を伏せて、その続きを言うのをためらった。スピードワゴンは嗚咽をもらして、目を腕で覆った。その様子から、ニナは何があったのかを悟った。「そんな、」ニナは胸に何かが詰まったみたいに、胸が握りつぶされるみたいに、苦しくなった。霞んで焦点の合わない瞳の奥に、最後のツェペリとの会話を思い出した。「また必ず、生きて会おう」。そう言ってツェペリは、ニナを一足先に送り出した。けれど、その約束は二度と果たされない。ニナは、固く拳を握って肩を震わせるジョナサンを抱きしめずにはいられなかった。それはジョナサンのためというよりも、自分自身のためだった。

「ニナ嬢。彼は、君のことも手紙に書いて寄越したよ。……我々波紋使いの戦いに、君を巻き込んでしまったと書かれていた」
「……そんなことは……。わたしは、自分から望んでここにいるのです。わたしにも……果たさなければならない使命があります。…………ジョナサン様」

 ニナはジョナサンの肩に手を置くと、険しい顔のまま彼を真直ぐに見据えた。そしてぎゅう、と一度目を硬く瞑ってから意を決したように一息を吸って、口を開いた。

「ディオ様は…………彼の心のなかでは…………きっともう『悪いこと』も『善いこと』も、意味をなしていません」
「…………」ジョナサンもニナを見つめ返す。
「……ジョナサン様……あなたは、いま心のなかで、彼を……彼を殺してやりたいと、思っているでしょう。先ほどのかたたちも、トンペティさん、あなたも…………たくさんの人を殺し、傷つけ、もやは『悪』を『悪』と思わないディオ様に、唯一残された道は……死ぬということ以外に、ありはしないのだと」

 ジョナサンはニナの言葉を肯定しなければ、否定もしなかった。ただ黙って、ニナが続きを話すのを待っている。

「……わたしは、ディオ様を…………」

 ニナは一度深呼吸した。

「わたしは、どんな手を使ってでも、ディオ様を止めます。……たとえ彼を…………、彼を、……殺すことに、なったって」

 ニナはその言葉を口にすると、荒い息を抑えるようにして、胸のあたりを手で覆った。涙も嗚咽も出てこないのに、うまく呼吸ができずにいた。
 本当はこんな言葉、口にしたくなかった。失いたくないひとを自ら殺す道を選ぶことが「勇気」だなんて、本当は思いたくなかった。どれだけの時間をかけたとしても、どれだけ自分が傷ついたとしても、ディオの手を引いて彼を闇から連れ戻すという意志を、本当は捨ててしまいたくなんてなかった。けれど、その意志を貫こうとすればするほど、自分以外の、大切な人々の、罪のない人々の命が失われていく。そのことだって、痛いほどわかっていた。
 ニナには、もう何が正しいことで、何が望ましいことで、そして何が自分のやりたいことなのか、そのかたちも、区別も、つかめなくなっていた。天秤にかけたたくさんの正しさと信念と、取り返しのつかない犠牲が、もがけばもがくほど手のひらからこぼれていくようで、身動きが取れないなかで苦しさばかりが胸をえぐるようだった。

 ジョナサンは、胸に手をあてて顔を歪めるニナをしばらく見つめた。いままで決してディオへの復讐や殺意や攻撃の意図を口にしなかった彼女から聞こえた言葉は、ジョナサンの耳に重く響いた。
 ジョナサンだって、いまやその心を動かすいちばんの力は、「ディオへの復讐」だった。父を殺し、ツェペリを間接的に死なせ、誇りある騎士ブラフォードを操り、警察や町の住民を喰い物にしたディオに対して抱くのは、もう憐れみや同情の余地を超えた、どす黒い復讐心だった。それでも目の前で震えているニナは、やっとの思いで「ディオを殺す」という意志を示して、それが果たして正しいことなのか、望ましいことなのか、自分のやりたいことなのかもわからぬまま、それでもこれ以上犠牲となる命を増やさないために、戦おうとしている。

 ──あぁ、ニナはいつも優しかった。だからぼくは、ニナのことが大好きだったんだ──ジョナサンはニナの手を取った。

「ニナ。……手を貸して」

 ジョナサンは彼女の手のひらを自分の胸にあてた。ニナは、なんとなくそこが温かいと思った。

「ニナ、わかるかい。ぼくのなかには、……ツェペリさんが、いるんだ。彼は、最期に、ぼくに力を与えてくれた」
「…………ツェペリさんが」
「うん。だからね、彼に代わって、ぼくが言うよ。…………ニナ、君は、君の『優しい勇気』を貫くんだ」
「……!」

 「優しい勇気」。その言葉は、ディオを倒す旅が始まる前の夜に、ツェペリがニナに贈った言葉だった。自分にも勇気があればと願ったニナに、ツェペリが指し示した言葉だった──その言葉をくれたツェペリに抱きしめられたときに感じた、その胸の広さ、腕の力強さ、彼の頭上に煌めいていた星の、なんと眩しいことか。ジョナサンに触れた手のひらからは、あのとき感じたものと同じ温かさが伝わってきた。
 ジョナサンはニナを真直ぐに見つめた。

「ニナ、君の言う通りだよ。ぼくは、……ぼくはもう…………ディオを、生かしておくことができない。だから、ニナ…………これはお願いだよ。ぼくと、ツェペリさんからの、君へのお願いだ。……君は……たとえどんなに苦しくたって、その優しさを捨てないで。君は、君の大切なものを、諦めないで。諦めずに戦う勇気を、もっていて」
「……ジョナサン様ッ…………」
「……不思議だね。7年も前は、ぼくがお願いされるほうだったのに」

 そう言うとジョナサンは笑って、ニナの震えている手を包んだ。ニナはその手に頬を寄せて、何度も頷いて、泣きそうな顔に笑みを浮かべた。ジョナサンの温かい手を握っていると、どこまででも、自分が自分でいられる気がした。もう道を見失わずに、強くいられると思った。

「ジョナサン様。わたし……もう迷いません。わたしはディオ様を……ディオ様のことを、諦めない。彼がどんなに離れていこうとしたって、わたしは、どこまでも追いかけて……その手を取ります。わたしはもう……彼の手を、離さない」

 ──たとえ、わたし自身がどんなふうになったって・・・・・・・・・・・・・・・・・、きっと大丈夫。きっと、戻ってくる──ニナはその言葉を胸のなかにとどめておいて、ジョナサンに言った。

「わたしに、一回だけ、機会をください。その一回が、あなたの戦いに寄与するはずです」

***

 それからすぐに、ダイアーとストレイツォ、ポコが戻ってきた。ディオが捕らえていた住民たちは、館の地下に押し込められていたという。ポコはそのなかに自分の姉がいたと言って、ほっとした表情をした。

 ディオが出ていった扉は、この天井の高い部屋からひとつ奥へと進んだ先にある部屋とつながっている。ジョナサンは皆に視線で合図すると、その部屋へ続く階段を、一歩を踏みしめるように上っていった。
 扉はジョナサンの腕に押されて、重々しい音をたてて開けられた。その先にはひとつの影が立っていて、バルコニーのそばで崖下の闇を眺めていた。
 影──ディオは、ゆっくりと振り向いた。

「生きていたのか……ジョジョ」

 暗闇からは異形の頭と身体をした屍生人が、続々と姿を現した。天井に鋭い足の爪を食い込ませてぶら下がっていた者もいる。ある者はにたにたと笑みを浮かべ、ある者は蛇のような呼吸音を牙の間から漏らしながら迫ってくる。いまにも襲いかかろうとしている屍生人たちを、しかしディオは制した。

「ジョジョ……こいつだけは、このディオが殺る!」

 ディオはジョナサンにゆっくりと近づいていく。それに合わせてニナは、ディオを挟んでジョナサンと対角線上の位置へと移動した。ディオはそのことに気がついているが、大した警戒はしていないようだった。ディオにとって「波紋」だけが唯一の弱点であり、だからこそ、先ほどの戦闘で見せた人体の気化冷凍によって、それを防ぐことに集中する必要がある。一方でニナのことは、すばしっこいだけの格闘家という程度にしか考えていないからだった。
 ニナにも、そのことはわかっている。しかし手の内をすべて明かしていないのは、ニナとて同じだった。左腕から広がった痺れは強くなってきている──もう、ためらっている暇はない。ニナはまだ使える右腕で剣を抜いた。

 ジョナサンは、ニナと動きを合わせて身構える。トンペティはポコを守りながら鉄槌を構えるスピードワゴンのそばに、ストレイツォは何体かの屍生人を前にしている。一触即発、まさにそれぞれが戦いの火ぶたを切ろうとしていた──しかしその一瞬、ジョナサンの肩を押し退けて前に出たのはダイアーだった。

「ジョジョ! おまえは下がっていろ! ……ツェペリさんは、ともに修行を乗り越えた20年来の仲間だったのだッ!」

 ダイアーはためらうことなく前へ出る。ニナとジョナサンが止めるのも聞かずに、素早くかろやかな足運びでディオへと近づいていった。足元では埃が立ち、ダイアーの姿を幻惑させる。不意に、ダイアーは跳躍しディオに飛びかかった。しかしその脚をディオは捉える。

「そんなのろい動きでこのディオが倒せるかッ!」
「かかったなアホが!」

 ダイアーは両腕のふさがったディオの頭を狙って、ばちばちと音のするほど強い「波紋」を流した腕を振り下ろした。ダイアーの交差させた腕は、そのままディオの顔面に直撃するかと思われた──しかしその動きは止まった。

 ディオはダイアーの足先に触れている手のひらから、彼を凍らせたのだ。次に何が起こるかなんて、誰もがすぐに予想できた──ダイアーは、その凍った脚から、血も流さずに砕け散った。彼の首から上が、薔薇の花壇にどさりと音をたてて落ちた。ジョナサンはあまりにむごい死に様から目を背けた。ニナは、そして全員が、その衝撃の光景に息を飲んだ。格闘ではずば抜けた強さをもったダイアーでさえ、まったく歯が立たないのか──

「ジョジョ、いくぞ! 次に死の忘却を迎え入れるのはおまえよ!」

 ディオは、仲間が殺された衝撃から抜け出せない者たちを待ってはくれない。愉快極まるという表情をしてディオは再びジョナサンに近づく。しかし、ダイアーの最期の一撃が残っていた。ディオの油断した隙をついて、それはディオの右目に刺さった。

「ふふ……波紋入りの……薔薇の棘は……い、痛かろ、う…………」

 そう言い残して、ダイアーは砕けた。大きな氷を落としたときのような、重く響く音がした。その最期の薔薇の一撃は、ジョナサンに再び闘志を取り戻させた。ジョナサンはスピードワゴンから、ブラフォードの剣を受け取った。

 ディオの右目は「波紋」に潰されたせいで、修復に時間がかかっている。右目を押さえて痛みに唸るディオの声を合図とするように、屍生人たちがトンペティやスピードワゴン、ストレイツォに襲いかかる。ここで決着をつけなければならない、そう判断したジョナサンとニナは視線を交わした。距離を取ろうとするディオを囲むように、バルコニーまで追い込んだ。ディオは右目を押さえながら怒声を上げた。

「絞り取ってやる! きさまの生命を!」
「浄めてやるッ! その穢れたる野望!」

 ジョナサンは背に忍ばせた「波紋」の薔薇をディオに向けて放った。「波紋」によって強化された薔薇は、ディオを取り囲むようにして飛んでいく。ディオはそれらをかわし、あるいは凍らせた手で打ち払った。その隙に、ジョナサンはディオの右目の死角を狙って剣の一突きを入れる。ディオは右脇腹を切られながらも急所への攻撃を反らし、咄嗟にジョナサンの頭部を狙って反撃しようとした──そのとき、ディオの右腕の肘から先が、身体から離れて落ちた。それをやったのはニナだった──けれどニナは、剣を、持っていなかった。

***

 ──「わたしに、一回だけ、機会をください。その一回が、あなたの戦いに寄与するはずです」

 そう言ってニナが提案したのは、まずはディオの腕のどちらかでもいいから切り落とすという作戦だった。
 ディオは手に触れたものを気化冷凍する能力を使ってくる。腕を一度切り落としてしまえば、それを再生させるまでディオの攻撃範囲が半分に減ることになる。再生までの間にディオの急所への一撃を入れるのが「波紋」を使えるジョナサンの役割だとすれば、その一撃への活路を開くのが自分の役割だ、そうニナは提案していたのだ。

 だから、ダイアーの最期の攻撃がディオの右目を潰したのは願ってもない好機だった。
 ニナと視線だけの合図を交わしたジョナサンは、「波紋」によって強化した薔薇を投げてディオの気を逸らし、その隙をついて右側の死角を狙った。ディオが薔薇とジョナサンの攻撃への対処に気をとられている間に、予想通りニナがディオの右腕を落としたのだ。

 ただし、それは剣によってではなかった。
 ジョナサンは、ディオの右側のうしろからニナが飛び出してきたのはしっかり見ていた。しかしそのどちらの手にも剣は持っておらず、ニナはただ、自分の左手でディオの右腕の肘の付け根の部分を一瞬掴んだだけだった。それなのに、「どうして」とジョナサンが考える間もなく次の瞬間には、ニナが掴んだ部分がディオの腕から消えて、その先が落ちていたのだ。

 ジョナサンは一瞬だけその光景に気をとられたけれど、右腕を落とされたディオに対するこれ以上の有利な場面を逃しはしなかった。ありったけの力で、ディオの頭から一直線に剣を振り下ろした。耳障りな音をたてて、剣はそのままディオの腹まで引き裂いた。

「やッ……やった! ついにディオをッ……!」

 スピードワゴンが勝利の歓声をあげようとしたの束の間、ディオの左目はジョナサンをにらみつけた。身体を真二つに切り裂かれてもなお、ディオの動きは止まらなかった。むしろ、剣を伝わってディオの気化冷凍がジョナサンの両腕を拘束していた。
 ディオの左手の鋭い爪がジョナサンの首元に食い込む。ジョナサンは首元の血管を触られているという奇妙な感覚と痛みに顔を歪ませた。しかし、ディオが右手を失い、左手もジョナサンのために使っているいまこそが、二度目の好機だった。

「ニナ! いまだッ!」

 ジョナサンは苦しい喉から声を絞り出したが、ニナはその声に応えなかった──というよりも、応えられなかった。

「うッ……う、あ………ッ……」
「ニナッ……?!」

 ニナはディオとジョナサンの足元にうずくまって、うめき声を上げていた。中身のない胃液まで吐いて、ぜえぜえと荒い息を治められずにいる。ニナに何が起こったのか、ジョナサンは見当がつかない──ディオの右腕を何らかの方法で落とした、その直後に何があったのか?──ジョナサンは一瞬気をとられた──けれど彼女が動けなくても、まだ勝機はある──ジョナサンは窮地に立たされてなお、剣先を火にくべて、伝わる熱で凍った腕を溶かしていた。

 ジョナサンの意図に気がついたディオは剣を折る。しかしジョナサンの腕が動くようになるほうが、一歩早かった。ジョナサンはディオの頬に「波紋」の拳を入れると、彼との距離を取って体勢を立て直した。しかしそれでもディオは倒れない。それどころか、ジョナサンの拳はまた凍らされていた。

「詰めが甘かったなァ……ジョジョォ!」

 真二つに切り裂かれたはずの身体を、ディオは難なく元通りにする。ニナに落とされた右腕は、彼女が触った部分がなくなっているから不釣り合いになったが、肘自体は残っているので動かせないわけではなかった。何度か右の手のひらを握っては開くという動作を繰り返すと、やや短くなっただけの元通りの腕になった。ディオはほくそ笑んだ。ジョナサンを瞬時に凍らせ、身動きのできないまま彼を屍生人にするまでの勝ち筋が、目に浮かぶようだった。

「あがいてもあがいても人間の努力には限界があるのさ! 波紋の修行など! 無駄 無駄ァーッ!」
「違う……信念さえあれば! 人間に不可能はない! 人間は成長するのだ! してみせるッ!」

 ジョナサンとディオ、両者は真正面からぶつかっていく。ジョナサンは「波紋」の拳をディオの急所に叩き込むために。ディオはジョナサンの拳を避け、彼の身体に一瞬でも触れるために。2人の戦いは、まるで7年前の夏の大喧嘩のときのように、素手での殴り合いとなった。

「最後の最後に敗北するのはどちらかッ! いまわかるぞディオ!」

 ジョナサンの両手の拳は、炎をまとってディオの胸の正面にきた。ディオは両手でジョナサンの拳を挟み、気化冷凍をしようとした──しかし、長さが不釣り合いになったディオの両腕は、ジョナサンの力を抑え込むことができなかった──ジョナサンの拳はディオの防御を突き抜け、彼の胸を貫いた。

***

 ──「いや、いやよ。そんなことやらない! いやったらいやッ!」

 わたしは首をぶるぶると何度も振っては足で地団駄を踏んで、腕は抗議の意を示すようにぽかぽかと彼の胸のあたりを叩いた。先ほどから何度も同じやり取りを繰り返しているわたしたちのそばには、生まれたときからわたしが育てたうさぎが、ちょこんと座っている。わたしが怒って大声を出すものだから、何事かと鼻をひくひくさせて、耳をこちらに向けて、様子を伺っている。

「そう言ったって、しょうがねぇだろう。それ食わねぇとおまえ、次起きられねぇぞ」
「そうだそうだー」
「うるさい! それとか言わないで! 食うとか言わないでッ!」

 少し離れたところでわたしたちのやり取りを見ていた彼らからは、そんな言葉が聞こえてきた。その言い草に精一杯の大声で抗議の意を述べると、涙も一緒に出てきてしまった。可愛がってきた大切な友達を「それ」だとか「食う」だとか言われて、頭に血が上って、もう悲しみと怒りの言葉が涙になって出てくるしかなかった。
 いつまでも駄々をこねるわたしに対して、彼は冷静だった。

「いいか、よく聞きなさい。生き物を摂り込むということは、その魂までもを一緒に食らうということだ。これは、我々にとって、どうしても必要なことなのだよ。おまえが生き物を摂り込まなければ、おまえは次に寝たとき、もう二度と起きられなくなる」
「……そんなのやだ……」
「そうだろう。だからおまえは、食べなければならない。しかし、それは悲しいことばかりではないのだよ」
「……どうして?」
「生き物の魂を食らうということは、その魂とずっと一緒にいられるということだからだ。お前が食らった魂は、ずっとおまえのなかで生き続けるのだよ」
「…………」
「いずれにせよ生き物を摂り込まなければならないのなら、おまえは、どちらがいい。自分が育てたものの魂か、そうでないものの魂か」

 そう言って彼は、わたしの目からあふれて止まらない涙を、指ですくった。

***

 ──「苦しいだろう。それが生き物を摂り込んだときの感覚だ」

 彼の大きな手に、背中をさすられる。お腹のなかには何も入っていなかったから、透明でいやな味のする液体だけがどこかからかせり上がってきて、わたしの喉を焼いた。

 頭も痛い。誰かの、何かの記憶みたいなものが、言葉にならないままにわたしの思考にぐちゃぐちゃと割って入ってきて、見たことのないはずの景色がまぶたの裏で勝手に映し出されては消えていく。でもそのなかに、見覚えのあるものもあった──女の子がこちらを見ている。その子に寄って行くと手のひらが近づいてきて、こちらを撫でた──そんな景色が、何度も何度も現れては消えていく。

 気がつくとわたしは泣いていた。あの女の子は、わたしだった。あれは、わたしがたったいま摂り込んだ、あのふわふわの、可愛いわたしの友達の記憶だった。
 わたしは声を上げて泣いた。涙も鼻水もみっともなく流れていく。でもそんなこと気にしていられずに、彼の胸に顔を押し付けて泣いた。彼は黙って受け止めてくれた。

 あの子は言葉をもたないから、どんな気持ちでわたしと一緒にいたのか、わたしになでられていたのか、正確なことはわからない。けれど、わたしと一緒にいて良かったと、幸せだったと感じてくれていたことだけは、確かだった。

***

 ──霞んだ視界をぼうっとする思考で捉える。いま辛うじて見えているものから情報を拾い集めようとするけれど、ここはどこで、いま何をしていたのか、あやふやだった。それなのに心臓の音が頭で鳴っているのかと勘違いするくらい、頭には鈍い痛みが広がっている。口の中はいやな味がして気持ちが悪いし、喉は焼けるようにひりひりしている。わたし……わたしは、何をしていたのだろう? 目の前の光景に焦点を合わせようとするけれど、まぶたが重くて開かない──あぁ、このまま、眠ってしまいたい。頭は痛いし、気分も悪いから、休みたい。もう何も見たくないし、感じたくない──

「そ……そんなバカな! おれのからだがッ!」

 ──遠くで誰かの声が聞こえる。誰かが叫んでいる。ばちばち、ぐちゃぐちゃという、何かが壊れたり弾けたりする音が聞こえてくる。その耳障りな音が、底の見えない谷に落ちていくような感覚を邪魔して、わたしの眠りを阻んでくる──「うるさい、うるさいな。せっかく、眠ろうとしていたのに」──

「おれのからだがッ……溶けていくッ……!」

 ──でもその悲痛な声には、聞き覚えがあった。何度も聞いたことがある……それだけではない、わたしはその声の主を知っている……そんな気がする。でも……でも誰の声だったのかが、思い出せない──「どうでもいいじゃない。そんなこと」──わたしが、わたしの耳元に、そう囁く。

「あぁあッ……! 痛いッ……! 熱いッ……!」

 ──どうでもよくなんか、ない! わたしはもう一人のわたしにそう言った。そう、どうでもよくなんかないのだ。いま苦しそうに叫んでいる声は、わたしの、わたしの……大切な、ひとだから──あのひとが、苦しんでいる。そばにいってあげなきゃ。わたしは、きっと戻ると、自分自身に約束したのだから──だから、起きなければ。起きて、あの苦しんでいるひとを、助けなきゃ──けれど、そのひとの名前が、思い出せない──あなたは、誰? どうして、苦しんでいるの? どうして、わたしをこんな気持ちにさせるの?──

「散滅すべし……ディオ!」

 「ディオ」──その名前を聞いた瞬間、ニナは目を覚ました。深く潜っていた海から顔を出すときみたいに息を大きく吸って、起き上がった。頭はがんがんと重く痛みを主張して、焼けた喉からは痰の絡んだ咳が出た。けれど、ニナはすぐに立ち上がった。目の前の光景にしっかりとした焦点を合わせて、いま起こっていることを把握した──ディオの身体は燃えていた。彼の身体のあちこちを焼き尽くそうという勢いで、燃えていた。ディオは苦しんで、うめき声を上げている。

「永遠に……生きるはずのッ、このディオがッ!」

 ディオの断末魔の叫びとともに最後の悪あがきとして発せられた一筋の光は、ジョナサンにまで真直ぐに向かってきた。「ジョナサン様ッ!」ニナは手のひらをかざして防御するジョナサンの身体を引張り、間一髪のところでディオの攻撃の軌道から外した。ディオの目から発せられた光線は易々とジョナサンの両手を貫通し彼の頬の横を通り、背後の柱まで切り裂いた。「ニナ!」ジョナサンは意識を取り戻したニナを見た。顔色は悪いが、うずくまって動けずにいた状態からは脱したのだとわかった。

 ディオはふらふらとよろめきながら、バルコニーの欄干に寄りかかった。燃える身体はあちこちから血とも体液ともつかぬ液体が吹きこぼれるように飛び出して、脚はその身体を支える役割を果たしておらず、腕でいたるところの傷口を押さえても無駄だった。ディオはそのままうしろへ倒れていく。

「ディオ様ッ……」

 ニナは覚束ない足をなんとか動かして、倒れていくディオに手を伸ばした。ぼろぼろのディオの身体は、欄干を越えて、崖下へと落ちようとしている。

「ディオ様ッ!」

 その光景は、まるですべてのものの動きがゆっくりになったみたいに、ニナには感じられた──血がにじむ両手をかばうジョナサン。暗闇の底へと落ちていこうとするディオ。欄干で燃える炎は微風にゆらめいている。
 ニナはありったけの力を込めて、地を蹴った。かつて心を閉ざしてしまったひとの名を呼び、もう二度とその手を離すまいと、駆けていった──いかないで。いってはだめ。あなたは、生きて。生きて、罪をつぐなうの。わたしが、わたしがそばにいるから──ディオに言いたかったたくさんのことを言う暇なんてなかったけれど、その代わりニナは、精一杯手を伸ばした。

「……ニナ、…………」

 ディオはニナを見た。崖の下へ落ちようとする自分を、必死に追いかけて手を伸ばしてくるニナの姿を見た。ディオはかすれた声でニナの名を呼んだけれど、それが彼女に聞こえていたかどうかはわからない。
 ディオの身体は欄干を越える。そこからは重力にしたがって落ちていくだけだった。ニナの手が、ディオの手の先に触れて、一瞬だけそれを掴んだ。けれど、暗闇へと落ちていくディオの身体はただ重く、ニナの手をすり抜けていった。

 ニナとジョナサンは崖下の暗闇を覗き込んだ。ディオの衣服は気化した身体を離れて、宙を舞うように落ちていった。バルコニーに残っていた彼の血や体液は蒸発し、もう彼の痕跡を物語るのは壁や床の傷だけとなった。

「ディオ様…………」

 ニナはそうぽつりと呟いた。その瞳から落ちた小さな雫は、微かな呼びかけとともに闇の底へと消えていった。


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