26


 いくらジョナサンやツェペリが「波紋」を流した拳を振るったって、ニナやスピードワゴンが武器を振り回したって、数の暴力に対抗することは難しい。地面から這い出てきては次から次へと向かってくる屍生人たちに、4人は防戦を強いられていた。
 ディオは愉快そうに口元を歪めて、黙ってその様子を見ている。ディオは、元は騎士だった者の骨を、半分精気を吸い取って殺めたばかりのウィンドナイツ・ロットの住人の身体のなかに無理やり押し込んで、自分の意のままに操る屍生人を大量に作っていたのだった。
 ジョナサンは少年──ポコを背負いながら「波紋」を流した拳で、スピードワゴンは鉄槌で屍生人の頭を砕き、ニナは腰に差しておいたバックソードで頭部を切ったり、背負っていた斧を叩き込んだりしながら戦っている。ツェペリは襲いかかる屍生人の間を縫って、崖の頂上で乱闘を見物しているディオのほうまで登っていった。

「ディオ・ブランドー、…………とうとう会えたな!」

 ディオの放つ殺気は下で蠢く屍生人たちのそれに比類することのできないほど、並大抵のものではなかった。ツェペリは、ディオがすでに多くの人間の命を奪って怪我を治し、「怪物」としての力を蓄えてきたのだと悟った。

「貴様……いったい何人の命をその傷のために吸い取った?!」ツェペリは声を荒げた。
「ははは!」その問いを聞いてディオは、牙を覗かせて乾いた笑い声を出す。「おまえは今まで食ったパンの枚数を覚えているのか?」

 ディオの答えを聞くと、ツェペリは顔を歪ませた──この怪物はもはや、人の命を何とも思っていないのだ。人の命はパンと同じだと、数える価値もないと、思っているのだ──これ以上ないくらい血が上ったツェペリの頭には、一瞬だけ、あの海上の惨劇が蘇った──むせ返るくらいの血の匂い、足元は歩くたびに血がぴちゃぴちゃと音をたてて、人の悲痛な叫び声と、骨が砕け肉が裂かれる音が聞こえてくる──あんな惨たらしい行いを、この怪物は、数える価値もないと言った──。

「ツェペリさん!」

 ジョナサンの呼び声が、もう周りが見えないくらい怒りで満ちたツェペリの心を、すくい上げた。その声のしたほうに視線をやると、ジョナサンと、ニナと、スピードワゴンが、屍生人たちと戦いながらも、ツェペリを見ていた。ツェペリは我を忘れかかった頭を冷やした──大丈夫だ、今度は、私はひとりじゃあないんだ──そう思うだけで、ツェペリは何よりも速く、強く、腕と脚を動かせる気がした。

「音をあげさせてやるッ!」

 ツェペリは「波紋」の流れる拳を振り下ろした。しかし自分に向かってきたツェペリの拳を、ディオは易々と手のひらで受け止める。そしてそのまま、ツェペリの拳を握り込んだかと思うと、その右腕を冷凍によって破壊してしまった。

「愚か者がァ! 貴様の腕ごと! カメを砕くように頭蓋骨を陥没してくれるッ!」

 ディオは、痛みで呼吸が乱れたツェペリに止めを刺すつもりで殴りかかるが、それをさらに2人の間に割って入ったジョナサンが止めた。

「おのれジョジョ! このおれの拳の動きを止めるとはッ!」
「ディオッ! 君の野望、ぼくが打ち砕く!」

 力を競り合いながら一瞬動きを止めたジョナサンとツェペリ、そしてディオの三者を、月が照らしている。
 崖の下ではだんだん数は減ってきたものの、いまもなお、屍生人たちがニナとスピードワゴンに襲いかかってくる。ニナはジョナサンとツェペリに加勢に行きたかったが、ここでスピードワゴン一人で戦わせるべきではないことも明らかだった。ニナは激しい動きに合わせてはためく口布の下で、唇を噛んだ。

「ジョジョ!」
「はい、ツェペリさん!」

 2人分の「波紋」の力をディオに流し込もうと、ジョナサンとツェペリは息を合わせた。大きくなった「波紋」の力はまるで太陽の光みたいに明るく2人の手元を照らす。しかしディオの硬い拳には届かなかった。ジョナサンの腕はツェペリと同じように凍ってしまった。
 皮膚の裂ける音とともにジョナサンの手の甲から血が噴き出す。ツェペリは咄嗟に蹴りを入れようとするが、ディオは鋭く尖った爪でその足を突いた。ツェペリの足は易々と砕かれる。

 崖の下ではやっとのことで最後の一体の屍生人を倒したニナが、いままさにジョナサンにさらなる攻撃を加えようとしているディオを見た。脚と腕を激しく損傷したツェペリにはもうジョナサンをかばう余裕はない。ジョナサンも脚を砕かれたツェペリに一瞬の気をとられている。このままでは2人とも──そんな恐ろしい結末の影が、ニナの背を駆けていった。同時に、いますぐ崖を駆け上がったとしても間に合わないだろうという予測さえも可能だった。

「だめッ、ディオ様ッ!」

 だからニナには、精一杯の大声でそう叫ぶしかなかった。少しでも注意を逸らせれば──そう思った。
 ディオの耳にその声が届いたのかそうでないのか、判別しかねるくらいの一瞬だけ、動きが止まったように見えたかと思うと、すぐにディオはジョナサンとツェペリの腕をひねって、2人を放り投げた。
 ジョナサンは辛うじて受け身をとり、スピードワゴンはツェペリの身を受け止めた。

「…………」

 ディオは聞こえてきた声の方向へ、ゆっくりと顔を向けた。先ほどは冷酷で残酷な笑みを浮かべていたディオの表情は、いまは信じられないという驚きと、疑いのような眼差しをもっていた。

「ッ、ディオ様!」
 ニナがもう一度呼んだ。
「…………その声、…………ニナ、…………ニナ・クラーク……?」

 そう名を呼ばれるとニナは、戦いのなかでも身につけたままだった口布と眼鏡をとった。ニナの顔が目に入ってくるとディオは、はっ、と小さく息をのんだ。

「……ニナ・クラーク…………、どうして、あなたが…………」
 ディオは呟くように言った。
「ディオ様! ……もう! もうッ……やめてッ!…………」

 たくさん言いたいことがあったはずなのに、いざディオと対面してみると、ニナの口からはそれしか出てこなかった。ディオが死んだと電報で知ったときの動揺も悲しさも、彼が「怪物」となったのを知ったときの衝撃と悔しさも。石仮面の秘密を知りながらそれを放っておいたせいでこんなことになってしまったのかという罪悪感も、しかしこうしてまた会えたことの場違いな嬉しさも。いままで溜まりに溜まった複雑な気持ちが整理のつかないままにあふれてきて、どうしようもなかった。ただ、やめてとしか言えなかった。
 ディオは、ニナが必死の形相で何度か自分の名前を呼ぶのを黙って見ていたが、やがて顔を険しくするとそっぽを向いた。

「…………貴様らの希望は崩れ去った。……タルカス! 黒騎士ブラフォード!」

 ディオがそう声を張ると、足元が地震が起きたときのようにぐらついて、轟音と共に地面が裂けた。その割れ目から出てきたのは、全身を鎧で身を固めた大男と、得体の知れぬ長い髪の男だった。

「世を恨み! 人を憎み! 呪いの言葉をはいて死んだどう猛な騎士の墓をあばいて蘇らせた亡者よ! この虫けらどもの駆除はおまえたちふたりにまかせるぞ!」

 ディオはそう言ったきり、もうニナのほうを見なかった。その態度は、ニナはダニーのことをディオに問うた日のことを思い起こさせた。抱きしめた腕を振り解いて、ニナの身体を突き放して、「もう、出て行ってくれ」と冷たい声でニナを拒絶したディオの姿──だめ、もう二度と、あの子の手を離すわけにはいかないのに──「ディオ様ッ!」ニナは叫んだ。ニナの足は、目覚めた2人の騎士に向かっていたが、顔はディオのほうを向いていた。しかしツェペリはもう戦えず、スピードワゴンはツェペリを庇っているから、襲いかかろうとしている2人の騎士に対処するのは、ジョナサンとニナだけだ。だからディオのことを考えるのは、この騎士たちを倒してからでなければならなかった。
 長い髪のブラフォードがジョナサンに襲いかかり、そのうしろには大男タルカスが迫っている。ニナは咄嗟にタルカスの前に飛び出した。タスカスが自身の身長の半分以上もある大剣を振り下ろしたのをかわすと、ニナは岩場を利用して跳躍し、斧を振ってタルカスの太い首を落とそうとした。しかし、がきん、という鈍い音がして、斧の衝撃は鎧に吸収された。

「ニナ嬢! 無理だ! 斧じゃあ騎士の鎧には敵わん! くッ、この腕に血液さえ通えばッ!」

 ツェペリはスピードワゴンにかばわれながら騎士たちの攻撃の射程外に避難し、まだ無事な左手の「波紋」で砕かれた右足の痛みを和らげた。しかし凍ったままの右腕には「波紋」を流すことができない。身軽なニナはタルカスの攻撃をかわせてはいるが、ここまでの大男、しかも鎧を相手にしては決定的な攻撃ができずにいる。

「……ツェペリのおっさんよぉ! 溶かせばいいんだな! その凍った腕をよぉ!」

 スピードワゴンは意を決したように勢いよく自分の衣服の前を開けて、そこにツェペリの右腕をあてがった。氷を炎で溶かすときのような軽い音をたてて、ツェペリのに腕はだんだんと熱が通ってくる。

「これでどうだ! おれはよ、あんたらの足手まといになるためについてきたんじゃあねーぜ!」
「スピードワゴン……君ってやつは……。わたしは君を軽んじて見ておった……いざというときに逃げ出すくらいだと……。すまなかった! …………ありがとう」
「礼は戦いが終わって生きのびてから言えってんだ……」

 ニナは、ジョナサンがブラフォードの長い髪に腕をとられているのに気がついた。ジョナサンに加勢に行くため、足止めだけでもしようとタルカスの背後に周り、斧を横に振ってその左足を切ろうとした。しかし斧は太い足に刺さったままニナの手から離れてしまった。代わりに腰にあるバックソードを引き抜こうとした瞬間、タルカスは隙を狙って左向きに回る流れのまま、大きな左手でニナを張り飛ばした。
 咄嗟にうしろに退きながら左腕でガードしたが、遅かった。ニナは自身の身長の何倍もの距離も向こうに飛ばされた。背中を岩に打ったニナの口からは、かは、という咳が出た。それでもすぐに起き上がった。

 この戦いを、文字通り高みの見物をしていたディオは、どうしてニナがここにいるのかわからないだけはなく、どうして彼女がこのように慣れた動作で戦うことができているのかも、わからなかった。ディオの知っているニナはこのような荒事とは無縁といっていいような世界に住んでいる、ただの頭が冴えている女だった──なぜあなたがここにいる? なぜあなたが戦っている? そうディオは何度も心のなかで問いかけた。騎士たちによってニナが早々に殺されていたなら、こんな疑問や過去の思い出なんか忘れて、ジョナサンが惨めに死んでいくのを楽しめただろうに。それなのにニナが俊敏な動きを見せて懸命に戦うものだから、ディオの頭にはますます疑問が募るばかりで、不愉快にさえなってきた。もう見物する気も失せた、と思ってディオは舌打ちをした。

「いよいよこのウィンドナイツ・ロットの町民全員を屍生人にする! あと一昼夜のうちに! そしてこの町から屍生人がイギリス中に広がるだろう!」

 そう宣言して、ディオは踵を返す。しかし立ち去る前に、ニナのほうをちらりと見て付け足した。

「この先の館に捕らえている人間たちを一人でも多く救いたいなら……追ってくるがいい! ミス・ニナ。あなたなら歓迎しよう。……あなたには、いくつか聞きたいことがある」

 そう言い残してディオは、崖を登った向こうの闇へと姿を消した。

***

 ニナは月が照らす道を走っていた。陽が沈んでからはたいぶ時間が経っていて、丘の向こうに点在する家屋からは灯りがもれているものと、そうでないものがある。灯りが点いていないのが、果たして寝ているからなのか、それとも家屋の主がすでに死んでいるからなのかわからない。もし後者だとすれば、と考えて、ニナの額には汗がにじむ。

 ジョナサンがブラフォードと戦っている最中、まだ足を引きずっているツェペリをスピードワゴンがかばいながら、縦横無尽に暴れるタルカスの相手をしていたのはニナだった。ブラフォードがジョナサンの「波紋」によって気化されると、タルカスは気の緩んだジョナサンの隙を狙って攻撃対象を変えた。それを見逃さなかったツェペリはニナに、ディオが根城としている館へ先に行くように言った。

「そんな、でもッ……あの大男を相手にするには、疲弊したジョナサン様と、手負いのツェペリさんでは足りないでしょう!」
「……そうかもしれないが、…………この町の住民が、いまもディオの餌食となっているのだ…………一刻も早く、住民を逃さなければ。あのディオの口ぶりからして、ニナ嬢、君が行けば、時間稼ぎにはなるはずだ」
「そ、れはッ……」

 ニナには苦渋の選択だった。住民たちを一人でも多く救うために、ジョナサンやツェペリ、スピードワゴンが死ぬ可能性を大きくするのか。彼らが生き残る可能性を少しでも高くするために、何の罪もない住民たちが犠牲になるのを見過ごすのか──どっちにしたって急がなければならないのに、どっちを捨てることもできなくて、ニナは身体が動かなくなったみたいに重くなるのを感じた。

「大丈夫。私たちは、死なないよ。また必ず、生きて会おう」

 ツェペリは痛みの引いた腕でニナを引き寄せて、抱きしめる。
 ニナはタルカスの蹴りをかわしたジョナサンや、ツェペリの足に包帯を巻いたスピードワゴンを見た──もしも、これが最後だったら──そんな考えを、かぶりを振って追い払った。

「……わかりました。必ず、ですよ」

***

 その館の扉は重く、何年も使っていなかったような錆びた音を出しながら開いた。ニナは上がった呼吸を整えながら、エントランスホールに入って辺りを見回す。人の気配はしないが、ホールから続く階段を上がろうとすると、踊り場に奇妙な動物がいることに気がついた。頭は猫で、胴体は鳥のそれは、こちらをじっと見つめている。その不気味さにニナは顔をしかめて、息を呑んた。しかしその動物はこっちだ、とでも言うようにニナを見てから歩き出し、また立ち止まってはニナを見る。ニナは階段を上がって、それについていった。

 ところどころに蜘蛛の巣の張った天井、埃のかぶった手すり、変色した壁紙。埃っぽいにおいのなかに、だんだんと血のような生臭いにおいが混ざってきた。ここで何が行われているのかなんていまさら疑問に思うことはないけれど、それでもニナは、どうか自分の予想よりは被害が少なく、まだ怪我もなく生きている人がいますようにと思わずにはいられなかった。
 ニナを案内した鳥のような猫のような動物は、2階分の階段を上った先にある部屋のなかで一番大きな扉をもっている場所まで来ると、その扉の前に座って、追いついてきたニナを見た。ここにディオがいるのだと察して、ニナは扉を開けた。
 部屋の中に灯台などはなく、高い天井は大きな窓を備えて、館の正面にあたる格子窓から月の光が差しているだけの、広く暗い部屋だった。扉の開閉の音に混ざって、何かが千切れるような音が、連続で聞こえてきた──誰かが、何かを食べている? ニナは手に汗を握った。

「やぁ、ミス・ニナ。……思ったよりも早かったね」

 その声は、部屋の奥の闇から聞こえてきた。この町の、この館のおどろおどろしい雰囲気に不釣り合いな、耳に心地の良い、滑らかな、男の声だった。足元を歩いてニナを追い越していったあの奇妙な動物は、その声のしたほうへ向かった。そこに座っていたのはディオだった。

 ニナもディオのほうへ数歩前へ進むと、先ほどから聞こえている、誰かが何かを食べる音の正体がわかった──それは腕に抱いた赤子に、女の屍生人が喰らいついている音だった。「な、なんてこと……」ニナは口元を押さえた。冷や汗が滲み、動悸が早くなるのを感じた。
 ニナが後ずさると、くくく、という笑い声が天井から聞こえてきた。そこに、何体かの屍生人が蝙蝠のようにぶら下がっている。もうディオはニナの予想よりも多くの住民を殺し、あるいはこのような屍生人としているのだった。

「あなたがここに来られたということは、ジョジョのやつは、ブラフォードを倒したんだね。やっぱりあいつ、前よりも相当強くなっているようだ」

 ディオの声色はひどく愉快そうで、この状況を楽しんでいるようだった。ニナは口元を押さえる手を下げ、固く握った。そして腰に下げていた剣を抜くと、赤ん坊の骨まで喰らおうとしている女の屍生人に近づき、横に真直ぐに首をはねた。ごとん、と音をたてて、首は落ちた。ニナはわずかに血のついた剣を、空気を切るように一度振って、血を落としてから鞘にしまった。
 ディオは黙ってその様子を見ていたが、楽しいことが終わってしまったときみたいに、ちょっと残念そうな顔をして、ため息をもらした。

「ふむ。……いや、見苦しいものを見せてしまったかな。……勘違いしないでほしいんだが、これはその女性が望んだことの結果なんだよ。親子2人、一緒に屍生人になったほうがいいと忠告はしたんだが……赤ん坊だけは見逃してほしいと言うものだから、そうしてあげたんだけれど、結局こうなってしまったんだ、」

 ニナは、ぺらぺらと喋っているディオに大股で近づいていくと、彼が喋り終わる前に、その頬に思い切り平手打ちを入れた。ぱし、と乾いた音が部屋に響いて、すぐに消えた。ディオの口元からは血が一筋流れた。

「……痛いなぁ、ミス・ニナ」
 ディオは血の出た口の端を、ぺろりと舌で舐めた。
「…………ディオ様ッ、」
「うん?」
 ディオは、俯いているニナの顔を覗き込んだ。
「こんなこと、もうやめて。これ以上、人を、殺さないで」

 息の整わないまま喋るものだから、言葉が途切れる。言いたいことは山ほどあるはずなのに、ニナは頭のなかが沸騰したみたいに熱くて、何もかもを冷静に考えることができないような心地がした。

「んー……」

 ディオは間延びした声を出しながら、ニナの手をとって引き寄せた。そのままニナを膝の上で横抱きにすると、彼女の顎を掴んで、自分のほうへ向けさせた。もう片方の手は、ニナの両手を包むようにしてがっちりと掴んでいる。

「そうだね、あなたがせっかく来てくれたんだから、この館に捕らえていた人間たちは、解放しよう」
「…………」

 ニナは、何も答えずディオを睨みつけるようにして見た。ディオの腕のなかに留まっていたくはなかったけれど、町の住民の命が懸かっているのなら逆らえなかった。

「その代わり、あなたのことを聞かせてほしいな。最後に会ったのは、……ええと、7年前の夏か」
「…………ええ」
「あのあと一度も、会いにきてくれなかったね。ジョジョのやつなんか、休暇のたびにあなたが戻ってくるだろうかといつも気にしていたんだよ」
「……そう、ですね。それは、……いつも、申し訳ないと思っていました」
 ニナは視線だけ逸らして、そう答えた。
「それで……ただのガヴァネスだったあなたが、どうしてここにいるのかな。しかも、あんなに戦い慣れした動きをして。いやぁ、ぼくは全然知らなかったよ。あなたがあんな強さを秘めていたなんて」

 ディオは、ニナの顎を掴んでいた手を彼女の頬に添えて、もっと顔を近づけた。夜目の効くようになったディオは、まじまじとニナの顔を見つめる。土埃がついてくすんでいたニナの頬を、爪をたてない優しい手つきで何度か撫でると、埃が取れた。

「んー……、不思議だね。女性にこんなことを聞くのも不躾かとは思うんだが……ミス・ニナ、あなたは何歳になるんだい」
「……え……」
 その問いを受けたニナは目を見開いて、顔を逸らした。
「だって、あなたは7年前とちっとも変わらない。子どもの頃は気にしたことがなかったけれどね、あなたの肌は少女のように瑞々しい。こうして近くで――」

 ニナの顔は青ざめて、ディオから逃れようと、ばたばたと足を動かして暴れようとした。しかしニナよりも大きいディオの身体と太い腕の力が、それを許さなかった。ディオはニナの動きを止めるようにして抱え込むと、もう一度、じっくりと彼女の顔を眺めた。

「――見てみると、あなたはまるで歳をとっていないみたいに、綺麗なままだ」
「……そんなことはッ、」ニナの心臓の鼓動が早くなる。
「どれ、ひとつ味見をさせてもらえないかな。大丈夫、殺しはしないから」

「いや、やめて」とニナは唸り声を出して暴れ、身体を反らして逃げようとしたけれど、ディオの力にはわずかに敵わなかった。ディオはニナを押さえつけるのにふさがっている両腕の代わりに、彼女の首元で合わさっている襟を器用に歯に挟んで開けると、あらわになった首筋に、柔く噛みついた。
 首の根元、鎖骨のそばにぴりっとした痛みがしたあとに、ディオの唇がそこに触れるのを感じた。嫌だ、嫌だと言ってニナはなおも身体を動かして、目下にあるディオの頭をどかそうとした。しかし屈強な力がそれを許さない。ディオの舌が、痛みを感じた場所に這うのがわかった。

「……ん?」

 少量の血を吸って口に含ませたディオは、唇をニナの首筋から離すと怪訝な顔をした。ニナの血をワインの一口目みたいな要領で味わってみると、いままで飲んだ女の血や若い生娘の血、もっといえばいままで口にした人間の血とは違った味がした。不味いわけではないが、これまで人間の血に感じたような「できたての食べ物を食べている感じ」とは全然異なる風味がした。何が違うのだろうと、ディオは考えた──人種? 普段食べている食べ物? 栄養状態? 血を吸われるときの心理状態? ──ディオはいくつかの可能性を考えたが、どれも正解だとは思えなかった。
 ディオの注意が逸れたので、ニナはいまだ、と言わんばかりに思い切り身体をひねって、ディオの腕から逃れた。すぐに体勢を立て直して首元を押さえると、血はほとんど止まっていた。息を深く吸って吐くとやっと、だんだんと頭が冷えてくるのがわかった。

「あぁ、もう少し味わいたかったのに」ディオは残念そうに肩をすくめた。
「ディオ様ッ……。もう、……もう、やめましょう」

 ニナはやっと、自分の言いたいことが言える気がした。

「これ以上……人を、殺さないで。人を、傷つけないで。……ディオ様、これは悪いことです。人を傷つけたり、殺したりしては、いけないのです」
「……ぼくは別に、人間を皆殺そうなんて考えていないよ。ぼくはね、ミス・ニナ。ぼくはただ、ぼくの仲間になれば永遠を生きられると誘っているだけなんだ。彼らはそれを受け入れた。そこの女性は違ったけれど」

 ディオは天井にぶら下がる屍生人たちを一瞥し、それからニナによって頭の落とされた女の屍生人を見た。

「ミス・ニナ。あなただって、永遠の人生がほしいと思わないかな。だって、せっかくあなたは美しいんだ、その美しさをずっと保っていたくはならないか? もし思うなら、ぼくがあなたを吸血鬼にしてやってもいい。そのへんの屍生人ではなく、ね。……ねぇミス・ニナ。これはぼくなりの恩返しだ。いろいろなことを教えてもらった、あなたへの」
「……ディオ様」
「だって、人間の一生は、やりたいことをぜんぶやるにはあまりに短すぎる。そうは思わないかい?」
「……たしかに、人生というものは、いつ終わるかわからない。それなのに、まだ知りたいことも、見てみたいものも、たくさんあるでしょう」
「うん、そうだよね。だからぼくなら、」
「でもッ!」

 ニナはディオの言葉を遮った。

「でも、だからこそひとは、いまを懸命に生きるのではないですか。いつ終わるとも知れぬ生だからこそ、知らないことも、見たことのないものも、他者とともに分かち合うのです。わたしたちは、いつか死ぬと知っているからこそ……他者とともに、限りある時間を……いまを、生きるのです。終わりのない生を手に入れたって…………それは本当に、『生きている』と言えるのですか」
「…………」
「だからわたしは、……『永遠』なんて、要らない」

 ニナは、まるで自分自身に言い聞かせるみたいに話した。ディオは何も答えない代わりに微笑を浮かべて、ニナが続きを話すのを待っている。

「ディオ様、これは、悪いことなのです。人を傷つけ、殺し、恐怖で支配して『生きること』を奪うのは……悪いことなのです。……わたしだって、悪いことをしました。……あの石仮面が、……人を『怪物』に変えてしまうと知っていながら、何もしなかったのです」

 それを聞いたディオの表情から、笑みが失せた。

「ある人が言いました。ディオ様、……あなたは、『生まれついての悪』なのだと……。……でもわたしは、たくさんの人を傷つけ、殺したディオ様のことを……それでも、『生まれついての悪』だなんて、思えなかった。あなたがどんなに悪いことをしたって、それが生まれたときから決まっている運命だなんて、思えなかった……。だってディオ様、少年だったあなたの心は……恐れていたから。この世界の暴力や、不条理を。無情な世界や、心ない大人たちへの恐れ、怒り……そんなたくさんのものを、あの小さな身体で何もかも受け止めて、心に厚い氷を張って、自分自身を守っていたから……」

 ディオは少し目を伏せて、ニナから視線を外した。

「あなたのなかに、いつから、人を傷つけることを厭わない気持ちが生まれたのかは、わからないけれど……それでも、わたしにときどき見せてくれた本当の気持ちは、決して悪いものなどではなかったのです」

 ニナの心には、スピードワゴンの言った「生まれついての悪」に対する自分なりの答えが、はっきりと浮かんでいた。

「だから、気がついたのです。事実として『悪に生まれつく人間』がいるかどうか、あなたが本当に『生まれついての悪』なのかどうかはわからない。でも重要なのは、事実がどうなっているかではなくて、わたし自身が、何を信じたいかだったのです。…………わたしは、ディオ様のことを、救いようのない悪だとは思わない。ひとは悪いことをしたって、それを過ちだと認める勇気を持つのなら、生きている限りそれをつぐなうことができると、信じている」

 ニナはディオに一歩、一歩と近づいていった。

「だから、もう、やめましょう。たとえ、どれだけ長い時間がかかったって…………わたしも、一緒に罪をつぐないますから。ずっとあなたのそばにいて、一緒に、つぐないますから」

 そう言ってニナは、黙ったままのディオを抱きしめた。7年も昔、ニナよりも小さかったディオにそうしたように、優しく、穏やかな声を聞かせながら、抱きしめた。ディオは座っていたから、ニナの胸のあたりがディオの頭になっていて、まるで本当に7年前に戻ったみたいな感覚がした──あぁ、もっと、もっと早くにこうしてあげられたら良かった。そうニナは思った。
 ディオはニナを抱きしめ返さないけれど、彼女の腕のなかで大人しくしている。ニナはディオの肩に回していた腕を解いて、伏せたままの彼の瞳を、覗き込もうとした。すると、ディオは口を開いた。

「……あなたは……」
 ディオは、なおもニナと目を合わせようとしない。
「はい、ディオ様」
 ニナはディオの頬を両の手で包んだ。
「……あなたは、…………こちら側に来られるのか」
「……え……」
「あなたの大切なものをすべて捨てて、おれだけを選べるのか」

 そう言ったディオの紅い視線が、真直ぐにニナを貫いた。それまでの、余裕を見せつけるような鷹揚な態度とは違って、暗いけれど、それでも澄んだ瞳をしていた。そうしてディオは、ともに戦った仲間や、ジョナサンや、これまでの暮らしを全部捨ててまで自分のそばにいられるかを問うてきた。それはつまり、ディオと同じ「怪物」になる気があるのかということだった。その覚悟があって、ずっとそばにいると、一緒に罪をつぐなうと言っているのかと、ディオは訊いているのだった。
 ニナにとって少々予想外だったディオの問いかけは、ニナの頭のなかで、壊れた蓄音器みたいに何度も繰り返された──「大切なものを、すべて捨てる」?──わたしの、「大切なもの」は──そもそも、守るべき「大切なもの」なんて、わたしには、もう──だって、いちばんの「大切なもの」を裏切って、わたしはここにいるのだから──そんな思考が、ニナの頭のなかをぐるぐるとめぐっていた。

「わたし……わたしには、…………」

 ニナはもう、どこから、何から話せばいいのか、わからなかった。ディオの問いかけに答えるためには、たくさんのことを話さなければならなかった。すでにジョナサンには明かしたことも、あえて明かさなかったことも──どうして、石仮面を破壊する旅をしてきたのか。どうして、この7年間一度も会いに来なかったのか──。

 これまで誰にも言わなかったたくさんのことを、ディオに明かしたい。ディオに言えるのなら、言ってしまいたい。彼がどんなことでも受け入れてくれるのなら、言ってしまって、楽になりたい。
 けれど──言ってしまったら、ディオをもっと大変な状況に追い込むことになるのではないか? これから自分ひとりでやらなければならなかったはずの、どんな傷を負うかもわからない過酷な試練に、彼を巻き込むことになるのではないか? まして、こうして吸血鬼となったこのひとを、「彼ら」に立ち向かわせるなんて──そんなことを考えて、ニナは、やっと何もかもを包み隠さず明かすことのできる相手に出会った、などと、手放しで喜ぶことなんてできないと思った。ディオとともに在りたいという本音と、それを伝えたいという気持ち、しかしディオにこれ以上のことを話すことが、恐ろしい未来に結実するのではないかという危惧が、心のなかでぶつかり合って、もう身動きが取れないような息苦しさを覚えた。

「わたしは…………」

 口を開いては閉じて、何か言いたいことを言えないような様子のニナを、ディオは見つめて、次の言葉を待っていた。けれど、何かを話そうとしても話すことのできないニナに、ディオは自嘲的な、かすかな笑みをひとつこぼしたあと、頬に添えられていたニナの手のひらに自分のものを重ねて、そっと取り外した。その優しい手つきに、ニナは心が潰されてしまうくらい、苦しくなったのを感じた。

「…………ミス・ニナ。あなたは、勘違いをしているよ」

 しかしそう言ったディオの顔に浮かぶものは、いつもの人好きのする綺麗な笑みに戻っていた。

「たしかにぼくは……少年の頃は恵まれなかったと、自分でも思う。その環境のなかで、自分の性格の一部が、作られていったとも」

 ディオは立ち上がって数歩進み、ニナを背にして離れた。その猫撫で声のような、綺麗すぎるほどの心地よさに反して、寒気が背にまとわりつくような感覚がした。

「……でもね、ミス・ニナ。ぼくは、自分のやっていることを、『悪』だとか『善』だとか……もうそんな物差しでは測っていないんだ。……罪をつぐなうことができるのは……それを『悪』だと思っている者のみだ。そうでしょう?」

 ニナは、うしろでくすくすと笑い声をもらすディオのほうを向けなかった。彼が、いままで自分に見せたことのないくらい楽しげで残酷な表情をしているだろうということは、顔を見なくてもわかった。だからこそ、その現実は受け入れがたくて、時が止まってしまえと思うくらい、怖かった。

「さっきあなたに尋ねたのはね……あなたが、自分のすべてを捨てても構わないと思うくらい、ぼくに『悪いこと』をしてほしくないと思っているなら……少しくらいだったら、あなたの言うことを聞いても良い……そう思っただけなんだ」

 ディオは部屋の扉の前まで歩いていって、最後にニナのほうを一瞥した。

「さぁ、もうお話は終わりだ。約束通り、この館に捕らえていた人間たちは解放しよう。まぁ、家までの道が安全であるかどうかはわからないけれど」
「ディオ様」
 ニナはやっと振り向いて、ディオのほうを見た。
「でも……あなたは自分の意志でここに来た。だから、丁重におもてなししてあげなければね」

 ディオはそう言ってちらりと天井を見た。それを合図とするように姿を現したのは、頭部を布で隠した大男だった。ニナは剣を構えるが、すぐには突破できそうにない。ディオ様、と名を呼ぶが、もうディオは振り返らなかった。

「さようなら、ニナ・クラーク。あなたに会えて良かったよ」

 そう言ってディオは、部屋から出ていった。


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