25


 ウィンドナイツ・ロットへ続く唯一のトンネルの入り口が見えてくると、ジョナサンは震える右の拳を左手で包むようにして握りしめた。

 ピーク地方の宿泊先から馬車に乗りロンドンの郊外でスピードワゴンと合流したジョナサンとツェペリ、そしてニナは、パーリーにあるイングランド南部への分かれ道を左に進み、さらにイースト・グリンステッドからヘイル・シャムまでの一本道をひたすらに走り、ワノックの町中をしばらく走ったあと再び森に入って、フリストンの町に抜けた。そこからウィンドナイツ・ロットに行くには、500年以上前に掘られて、いまでも定期的に改修工事がなされているトンネルを抜ける必要がある。御者にはこのトンネルを抜けたところで降ろしてくれと言っておいて、一行はだんだん迫ってくる決戦の地の様子に想像を巡らしていた。

「ジョナサン様」
ニナは険しい表情をしたジョナサンの名を呼んで、その手に自分の手を重ねた。
「ニナ。…………ごめん、やっぱりどうしても、震えしまうみたいだ」
「そうなるのも無理はありません。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いてください」
「うん。…………」

 ジョナサンはニナの言う通り深い呼吸を繰り返した。その心には、エリナのことが引っかかっていた。
 ピーク地方で修行をすることになったとき、エリナには「父とディオが亡くなったことを親戚に知らせたりするために、ロンドンにしばらく滞在するんだ」と言って、本当のことを何も話さなかった。
 ツェペリがリバプールに姿を現したときエリナとジョナサンは一緒にいたので、ツェペリが「波紋」の力をジョナサンに教えようとしているというところまでは、エリナも知っている。けれど、どうして「波紋」が必要なのかということも、そもそもジョージが死にジョースターの屋敷が焼け落ちた本当の理由も、エリナは知らない。というよりも、ジョナサンは詳しいことを教えなかった。ジョナサンは、石仮面とそれが生み出す「怪物」のことも、「怪物」を倒すためには「波紋」が必要だということも、エリナに知られるわけにはいかないと思って、あえて何も教えなかった。そのことを知ったら、否が応でも戦いに巻き込まれることになると考えたからだった。
 しかし、彼女に何も言わずに、自分の命も危ういような場所に向かっていることが正しかったのかについて、ジョナサンはこのときになっても悩んでいた。彼女を巻き込まないようにすることは第一に優先する事項だけれど、同時に、彼女が何も知らないまま、結局自分が帰ってこられなかったとしたら──そうしたら、彼女をいったいどれだけ悲しませることになるだろう。そう考えるとジョナサンは恐ろしくて、震える手を止めることができなかった。
 ジョナサンの顔を曇らせているのは緊張ばかりでないということを、ニナは察した。

「……ジョナサン様。……きっと、きっと帰りましょう。大切な人たちが待っている、リバプールに、きっと帰るのです」
「ニナ……。…………うん。……必ず、帰ろう」

 ジョナサンはニナの手を握り返した。

***

 トンネルのなかに入ると、暗闇のなかには淀んだ空気が満ちていた。風がなくなったぶん暖かいように感じられるが、壁の隙間や割れ目に生している苔や、何年もそこにあるのだろう生乾きの土砂のにおいが不気味に漂って、嫌な気分にさせる。
 馬は蹄の音を立ててしばらく走っていたが、まだ出口の光が手のひらで覆えるくらいの大きさの時点で、急にぴたりと止まった。「……おい雨だぜ! …………トンネルのなかで?」どうしたんだと御者の様子を見ようと馬車から身を乗り出したスピードワゴンが言った。しかしそれは雨ではなかった。

「気をつけろッ、スピードワゴン! ここは太陽が届いていない!」
「お……おい御者ァ! へッ返事をしろォ!」
「スピードワゴンさん! 外へ出てはいけない!」

 ニナやジョナサンが止める間もなく、スピードワゴンは扉を開けて出て行って御者台を確認したが、すぐに大きな悲鳴を上げて後ずさった。何か重いものがぐちゃりと形を崩して落ちる音と、液体が飛び散る音が連続で聞こえてくると、生臭い血のにおいが広がるのが、4人にはわかった。ニナとジョナサンは馬車から出て、スピードワゴンを壁側へ押しやって、彼を庇うようにして立った。
 ジョナサンは暗闇に慣れてきた目を凝らして見ると、長旅の足を担っていた2頭の馬の頭は不自然に切り取られ、御者はたくさんのナイフによって全身を貫かれていることに気がついた。ニナは咄嗟に倒れている御者へ駆け寄ると、彼の首元を触って脈を確かめた。しかし、全身から血を流した御者の息はもう絶えていた。なんてこと、とニナは呟いた。まだ太陽が空にある時間帯だから、油断していた。こんなにも早く襲撃に遭うとは、誰も予想していなかった。

 ばりばりという何かがちぎれる音がすると、馬の切断された首から顔を出したのは筋骨隆々とした大男だった。

「みんなさがっていなさい。私が闘う!」

 ワイングラスを片手にしたツェペリは、余裕の表情のなかに確かな殺気を含ませた。しかし人の掌ひとつ分もある刃の曲がったナイフを手にした男は、そんな殺気に怯むことなく、こちらを見て不気味な薄ら笑いを浮かべている。それどころか男は自らの指を切り落とし、さらには頬をナイフで貫いた。確実に気の狂っていると知れる笑い声をあげて、男は絶望に身をよじれと脅してくる。
 急な戦闘に引きずり込まれ、そしてその相手が自らの身体を傷つけるというあまりに理解不能な行動をしている。ジョナサンやスピードワゴンだけではなく、ニナの背にも冷や汗が伝った。

 対してツェペリは冷静だった。奇声を発しながらこちらへ近づいてくる男から視線は逸らさないまま、ツェペリはジョナサンに言った。

「ジョジョ……これは大事な物の考え方じゃぞ! 『もし自分が敵なら』と相手の立場に身をおく思考!」

 もし奴がわたしなら、まずトンネルの入り口をふさぐ、そうツェペリが言ったのとほぼ同時に、男は馬車の角を掴んで投げてきた。馬車はトンネルの天井や壁をがりがりと削りながら、投げられた際の勢いを失わずに落ちてくる。男は馬車で入り口をふさぐのではなく、馬車でトンネルを壊すことでふさごうとしたのだ。ジョナサンとツェペリは男の動向を伺いながら、ニナはスピードワゴンをかばいながら、落ちてくる壁の石を避けた。馬車と瓦礫は来た道をふさいで、光が差すのは男が背にしているトンネルの出口だけになった。
 男は腹に響くような低い声を上げると、身体をしならせた。そこから男の皮膚を貫くようにして、無数のナイフが飛び出してきた。ジョナサンとスピードワゴンは瓦礫を盾にしてその攻撃をしのぐ。ニナは手に持てる大きさの石を手に取るとナイフを弾き返したが、ナイフの鋭利さはすぐに石を傷つけた。
 ツェペリは「波紋」を口に含ませたワインに乗せて、男へ放った。ツェペリの「波紋カッター」が男のナイフとぶつかって落ちたのを見て、男は頬に刺していたナイフを抜き取り、ツェペリに襲いかかった。なおもツェペリは余裕を見せつけるように、ワイングラスを片手に持っている。

「ジョジョ! 『勇気』とはいったい何か?! 『勇気』とは『怖さ』を知ること! 『恐怖』を我が物とすることじゃ! 人間讃歌は勇気の讃歌ッ! 人間の素晴らしさは勇気の素晴らしさ!」

 ツェペリはナイフを振りかぶった男の攻撃をワインのボトルで受け止めると、そのまま男の顔面に強い蹴りの一撃を入れた。「波紋」の力がありったけ込められたそれは、男の顔の半分をどろりと溶かした。

「呼吸法による血液の流れが作り出す波紋エネルギーが、奴の組織をずたずたに破壊したのだ! ジョジョ! 奴の脳全体を再生不可能のうちに溶かすのだ! 吸血鬼を倒すにはそれしかないッ!」

 ツェペリが持ったワインは、一滴もこぼれることなくその手にあった。男は溶かされていないほうの目から涙を流して、てめぇらぶっ殺してやると捨て台詞を吐き、壁に空いた抜け道の奥へと消えて行った。しかし、男は逃げたのではなく、有利な状況へと誘っているのは明らかだった。ツェペリはワイングラスをジョナサンに持たせる。

「ジョジョ! そのワインをグラスから一滴もこぼさず奴を倒してこい!」
「なッ、ツェペリさん、何を考えているのです! 彼を倒すにはジョナサン様一人では足りません。わたしも行きます!」
「そうだぜ! あんた何言ってんだよォ?!」

 ニナとスピードワゴンは猛烈に反対するが、ツェペリはそれを無視して続けた。

「そのワインをほんの一滴たりともこぼしてみろ! そのときはたとえ奴を倒したとしても、私はもうおまえを見捨てる!」

 ツェペリの鋭い視線に、ジョナサンは彼の目的を悟った──これも修行の一環なのだ。あの男を余裕で倒せない程度では、ディオとの戦いに勝つことはできない。これはツェペリさんの優しさなんだ──だからジョナサンは、こくりと首を一度縦に振って、覚悟を示した。
 ツェペリの言葉を聞いたニナにも彼の目的がわかったけれど、それでもジョナサン一人だけで行かせることには、どうしても納得できない。だからニナは「わたしもついていきます」と言おうとした。けれど、すぐに向けられたツェペリの視線がそれを阻んだ。

「ニナ嬢。君はジョジョのことが自分の子どものように心配なんだろうけれど……でもね、少々過保護なのではないかね。彼はもう一人で、やるべきことをやることができる。彼の『強さ』は、君が一番よく知っているだろう、ニナ嬢」
「でも……もしジョナサン様が大怪我でもしたら、」
「ニナ! ぼくは大丈夫。大丈夫だよ。必ず、無事に戻ってくる。約束だよ、ニナ」

 ジョナサンまでもがそう言って真直ぐに強くニナを見たので、ニナはもう言い返せなかった。そうだ、この子の心の強さは、誰よりもわたしが知っている。そう思ってからニナは、彼の胸元に手を置いてしばし心臓が動いているのを確かめた。それから顔を上げて、「約束ですよ、ジョナサン様」と、か細い声で言った。

***

 ジョナサンが無事に帰ってくるのを待つばかりとなったニナは、ツェペリとスピードワゴンがそばで話しているのを聞きながら、馬車や落ちてきたトンネルの瓦礫に埋もれた御者の遺体を掘り起こした。至るところにナイフが刺さり、土埃にまみれたその遺体は、死の直前の驚愕の表情をいまもなお浮かべている。あちこちから大量の血を流しているから死ぬまでの時間は長くなかっただろうけれど、それでも、突然の恐怖と痛みはどれほどのものだっただろう。ニナはそれを想像して顔を歪めながら、御者の目に手をかざして、目蓋を閉じさせてやった。それから土埃を払い、遺体を水平に寝かせるために持ち上げようと屈んだ。するとツェペリとスピードワゴンがそばに来て、遺体の下半身と上半身をそれぞれ持った。

「戦いが終わったら、この人も、あの馬たちも、ちゃんと葬ってやろうぜ」

 スピードワゴンは御者の手を取って、胸の前で組ませた。ニナとツェペリは頷いた。

***

 恐怖や焦りや、いろいろな感情が混ざり合っていたからニナには正確な時間を数える余裕はなかったけれど、30分も経たないうちにジョナサンは先ほど入っていった抜け道を通って帰ってきた。ジョナサン様、と言ってニナは駆け寄り、彼の身体を触って大きな怪我がないことを確かめた。

「ジョナサン様、良かった……、良かった……」
「ニナ。約束通り、帰ってきたよ。……ツェペリさん、これを」

 ジョナサンがそう言ってツェペリに差し出したのは、先ほどと量の変わらないワインが入ったグラスだった。ジョナサンは見事にツェペリの出した課題をこなして、北風に打ち勝つ「バイキング」となったのだった。ツェペリは満足そうに笑った。

「ジョナサン様、あの男は……」
 ニナが尋ねた。
「ぼくの波紋が全身を伝わったからほとんどが気化しているけど……奥にしばらく入ったところにあるよ」

 それを聞いたニナは先が暗くて見えない通路を見やると、入っていこうとした。「どうする気なんだい」とジョナサンが尋ねる。

「……あの男の体も……戦いが終わったら、埋めてやろうと思うのです」
「……ニナ……」

 ジョナサンは少し驚いてから沈痛な顔をした。それから、そうだね、と言ってニナの肩を抱いた。一方でそれを見ていたスピードワゴンは、厳しい顔つきになった。

「……ニナさん、あんた、……とんでもねぇ甘ちゃんだな」
「…………」
 ニナはスピードワゴンを見た。
「おれたちは殺されそうになったんだぞ。実際、あんたがさっき掘り起こした御者は殺された! それだけじゃあねぇ、怪物になる前だって相当に悪いことをやっていたに違いねぇんだ! そんな奴を埋葬するだなんて、あんた……お人好しもいいところだぜ!」
「……『悪人』は……埋葬されることも、叶わないのですか」
「当たり前だ! 悪い奴に情けなんてかけるかよ!」
「…………」

 そう吐き捨てるように言ったスピードワゴンに、ニナは返す言葉が見つからなかった。スピードワゴンはなお続ける。

「あのディオだってそうだ! おれは、あいつがたとえ泣いて乞うたって、あいつの墓を作る気なんてさらさらないねッ! あの根っからの、生まれついての悪には、1インチだって同情するもんじゃあねぇ!」
「……生まれついての、悪……」

 ニナはその言葉を噛みしめるようにして呟くと、眉間のしわを深くして、胸のあたりの服を強く握った。

「……ディオ様は、確かにたくさんの悪いことをしました。たくさんの人を傷つけ、殺してしまった……。けれど、彼は…………彼は…………」

 ニナはその続きを言わなかった。というよりも、言えなかった。ニナにはわからなかった。ディオは本当に「生まれついての悪」なのかどうか──いやそもそも、「悪に生まれついた人間」というものが本当に存在するのかどうかということからして、ニナにはわからなかった。

 スピードワゴンの気持ちは、ニナにも察することができた。ディオが「怪物」となった夜、どんなに恐ろしく、むごいことが彼によって為されたかを、ニナは知っている。あの光景を目の当たりにして恐怖に晒された者が、ディオに対して同情や思慮を向けられるはずなんてないということも、わかっている。
 それでも、ディオのことを「生まれついての悪」だと断罪することが、ニナにはどうしてもできなかった──ディオが、綺麗な笑みの裏に巧みに隠した本当の心が、どれだけ悲しく、どれだけ寂しいものなのかを知っているから。
 ディオの本当の心は、たとえ彼自身が見ないようにしているとしても、「悪」を「悪」だと認識しているのではないか、きっと本当の「悪」とは、「悪」を「悪」だと思わない者のことだ──そのように考えるとニナは、そしてジョナサンもまた、ディオを「生まれついての悪」だと思うことが、どうしてもできなかった。

 ディオのやったことは確かに「人間としてやってはいけないこと」で、その罪をつぐなうことは決して容易にできるようなものでもない。けれど、ディオが「悪」から抜け出し罪をつぐなう意志をもつかもしれないという可能性までは、否定したくない。その可能性をすくいとるために、彼と闘うのだ。このことについてはニナもジョナサンも、ツェペリも同じ考えをもっていた。

 けれど、スピードワゴンの言いたいことだって、ニナにはよくわかる。
 スピードワゴンのこれまでの人生だって、決して平坦なものではなかった。スピードワゴンは追い剥ぎをしたり盗みや騙しをしたりして生きていくような、ことイギリスという確立された法社会にとっては、紛うことなき「悪」の道を歩んできた。しかしその道においてでさえスピードワゴンは、人を殺すという行為にだけは決して手を染めなかったし、ジョナサンと出会ってからは「正しいこと」を為そうと、命を賭して、ここにいる。「悪」から抜け出す決意を──それまでの自分を真っ向から否定する勇気をもったスピードワゴンの言葉は、決して軽くはなかった。

 ニナの気持ちが揺れているのをスピードワゴンは察したけれど、それでも自分の考えを曲げる気なんてないと示すように、声高に言った。

「おれだって1ヶ月も前は、さんざん人をコケにして、人を食い物にして生きてきた。……そのなかでジョースターさんに出会ったから、正しいことをしようと思えたんだ。だからいまここにいる。……でもな、正しいことをすると決めたのはほかでもない、おれ自身なんだぜ。だから言わしてもらうがよ! あいつは……あのディオは、自首する機会を自ら捨てた。最後まで小賢しく自分の身ばかり守ろうとしていたんだ。正しいことをする最後のチャンスでさえ、あいつは自ら捨てたんだ! そんな奴に同情の余地なんてあるかッ! あいつがマトモになるなんて期待、さっさと捨てちまえよ!」
「…………」

 ニナはどう返せばいいか迷っている。ジョナサンも、何も言えなかった。スピードワゴンはハットのつばに目を隠して、ぶっきらぼうに言った。

「そうでなければ…………傷つくのは、あんたなんだぜ」

 苦しげなスピードワゴンの声を聞いて、ニナは理解した。スピードワゴンは、決してディオへの憎しみだけでこのようなことを言っているのではないと──これは、彼の、彼なりの優しさなのだ。ニナは自分の胸元を握っていた手を離した。血の通わなかった手が少し冷たくなっていたけれど、そのままスピードワゴンの手を取った。

「……ありがとう、スピードワゴンさん、……ありがとう。…………でも、わたしは………」

 ニナはその続きを言い淀んだ。ディオを、闇からこちら側へと連れ戻したいという気持ちは確かにあるけれど、実際にディオに相対したとき、もしディオが、それこそ死んでも戻らないと言ったなら、そのときは自分はどんな選択をするのだろう。ニナは自分でもわからなかった。スピードワゴンはニナの揺れている瞳を見て、苦しそうな顔をして一息もらした。それから口を開いた。

「……いまはいいさ。でも、必ず決断しなきゃいけないときがくる。それも、近いうちにな。…………あのナイフ男の残骸も、あんたが運び出したいって言うんなら、そうすればいい。おれは手伝わねぇがな」

 スピードワゴンはまたハットのつばに顔を隠すようにして顔を逸らしたけれど、その手は、ニナの手を握り返していた。

「まぁ、……ここで瓦礫が落ちてこないかどうかくらいなら、見ておいてやるよ」

 その言葉を聞いて、ニナはまたありがとうと言った。繋がれた手は、温かった。

***

 トンネルを抜けると、太陽は西側の山の際に沈み始めた頃だった。それでも雲のない空はまだ明るく、建物や林の影以外には西日が差しているので、ニナは黒い帽子と手袋に口布、それから黒いレンズの眼鏡をかけている。服装はいつも着ているものと同じく暗い色であるということだけは違わないが、男性の着るような襟の高い長袖のシャツにくたくたのジャケットを羽織り、農夫が着るようなくったりとしたズボンを身につけて、踵の低い靴を履いている。

 ウィンドナイツ・ロットの小さな町には、岩山となっている北側から海の見える南側にかけてがなだらかな丘が続いていて、レンガ造りの赤茶色の家や、農業用の木造の小屋がまばらに建っている。時折人々が農作業をしたり、子どもたちが遊んでいるのを見かけるので、この小さな町に恐ろしい「怪物」が潜んでいるなどとはにわかには信じがたいくらい、長閑な時間が流れているようだった。

 民家が集まる地区までの最短の道を、ニナとジョナサンは並んで先頭を歩いている。「静かですね」「そうだね」と一言二言を交わしながら、ひとまず陽が昇っているうちに人通りの多い場所に到着するために、足を早めた。
 ふと、うしろを歩いているスピードワゴンの呻き声が聞こえた。ニナとジョナサンは振り返る。どうしたのかとジョナサンが聞くと、ツェペリは、スピードワゴンの腹に「波紋」を流した拳を試しに入れてみたら、思ったよりも深く入ってしまったという。「大丈夫ですか」とニナが屈んでスピードワゴンを立たせようとした。
 そうしていると、勢いよく風を切る音と、すばしっこい小動物のような速さで近づいてくる影があった。

「はッ!」
 ジョナサンはその影を目で追う。
「気をつけろ! 何者かが襲ってくるぞ!」
 ツェペリも気がついて警告した。
「いっただきだぜーッ! ウスノロどもォ!」
 影は悪態をつきながら、空を飛ぶように離れていく。

 4人が注意を逸らした一瞬の隙に、スピードワゴンが大事に持ってきた旅の資金入りの鞄が影の主の手に取られて、空中を舞うように飛んでいってしまった。影は溜池の中に落ちると、こちらの様子を窺いながら水中の足を動かして離れていく。影が止まってやっとわかったのは、それは少年だということだった。

「あの鞄にゃあ全財産が入ってんだぜッー!」

 スピードワゴンが悲痛な声を上げている横で、ジョナサンとツェペリは顔を見合わせて小声で少し何か言い合った。そしてツェペリは池の水面に「波紋」を流し、水面を歩いて渡って行った。
「波紋」にはこんな使い方もあるのかとニナとスピードワゴンが驚いていると、ジョナサンも膝くらいまで足を沈ませながらも、池の向こう側へ渡った。少年はもう崖を半分以上登ってしまっている。ジョナサンは拳を崖の岩肌に打ち込んだ。やや時間差があってから、崖を「波紋」が伝わって少年の手は岩から離れ、そのままジョナサンの腕のなかに落ちていった。
 スピードワゴンは池を横切って、ニナは池の外周を走って行って4人は再び崖下で集合する。「良かった、みんな無事ですね」とニナが言いかけたが、ジョナサンの腕のなかにいる少年の様子がおかしいことに気がついた。その顔は青ざめて、やや白目をむきながら震えている。ジョナサンやツェペリは大丈夫かと声をかけるが、少年からは呻き声が聞こえるだけだった。  山の際にあった太陽はもう姿を消し、あたりは薄暗くなってきている。もう、夜を待ちわびた「怪物」がいつ出てきてもおかしくない。

「ひとまず、民家のあるところまで急ぎましょう」ニナがそう言うと、ツェペリも頷いた。
「ちょっと待って。この少年、様子がおかしいよ」
「はッ…………あんたたち…………だ、誰?」

 少年の意識が正常に戻ったようだった。しかし先ほどまでのことを覚えていないかのように、あたりをくるくると見回す。その様子を見てニナやツェペリは、暗くなり冷えてきた空気が、溜池と土埃のにおいに混ざって、いやに淀んでいるのを感じた。また何かいやな気配が──先の闘いで見えたあのナイフの男のようにおぞましい気配が──そこらじゅうで蠢いているような感覚がする──しかしそう思ったときにはもう遅かった。

「いや……おかしいのは少年だけじゃないぞ! 周りを見ろ!」

 ツェペリの警告とほぼ同時に、ジョナサンは地面から伸びてきた手に自分の足首が掴まれたのを目にした。ツェペリも同じように足首を掴まれた。それを見ていたニナは素早くその場から飛び退いて、池の近くにいるスピードワゴンのほうに駆けて行った。
 鏡のように静かに凪いでいる池の水面には、東の空から昇った月がゆらゆらと映っていた──そしてニナは、その月を背にして岩山に立ち、こちらを見下ろすひとつの影を認めた。それが誰かなんて、思い出そうとしなくたってわかる。ニナは振り向いた。ついにこのときが来てしまったと、そう心のどこかで思いながら、詰まるような心地のする息を何とか大きく吸って、振り向いた。

「ディオ様…………」

 綺麗な笑みの下に冷たい心を隠した少年は──あの星の夜ニナの手を握り返した少年は──「人ではないもの」となって、そこに立っていた。


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