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 リバプールを朝に出発した馬車が昼過ぎにやっと到着するほどの距離にあるピーク地方は、ペニン山脈の南に位置する高地だ。森を抜け、なだらかな丘を下っていった先には池があり、雲が流れる空を鏡のようにそっくり映している。そこから続いている川を辿っていくと、やがて岩肌がむき出しになった渓谷が姿を現す。
 ジョナサンが肩を揺らして息を吐けば、それは白いもやとなって冷たい空気のなかに消えていった。山の際が空の向こうにうっすらとかたちをつくり、その影に囲まれた川辺にはすっかり葉の落ちた木がまばらに立っている。さあさあと川の流れる音や、空を飛んでいく鳥の鳴き声のなかに、かたいものが砕けるような鈍い音、水が跳ねては飛び散る音が不釣り合いに聞こえてくる。

 疲れたかね、というツェペリの問いかけに、ジョナサンは首を横に振って答えて、顎へと流れてきた汗を手の甲で拭った。
 修行を始めてからは、1週間ほどが経過していた。ジョナサンはこれまでずっとクリケットやラグビーといったスポーツをやってきたから、同年代の男よりは体力に自信があった。体格も優れているし、身体を動かすことが苦しいと感じたことはなかった。
 しかし「波紋」というものは、ただ筋肉量が多かったり持久力があったりすれば簡単に扱うことができるような、そんな代物ではない。それは体力のみではなく、目には見えないエネルギーの流れを想像する力と、そのエネルギーを生み出すための精神的な安定性と強さにも依存するのだ。

 自分の心を信念や決意によって満たすことで、心に動態を生み出すこと。目に見えない太陽の波長を非言語的な感覚として捉え、心の動態によって一定の波が発生している体内の液体を、正しい呼吸法によって太陽と同じ波長に調整すること。「波紋」の影響を与えたい対象の構造をよく観察し、どのような波長ならばそれを直したり壊したり、変化させたりできるかという感覚を、試行錯誤のなかで掴むこと。体内の液体が「波紋」を表出させる部位へと流れていく様、そして皮膚という壁を超えて波が伝わっていく様を、よく想像すること。
 ツェペリはこのような「波紋」の極意を何度も表現を変えてジョナサンに伝えたけれど、ジョナサンは言葉で学ぶよりも実際にツェペリがやっているのを見て、さらに自分で実践してみないことには、理解が遠く及ばないということに早々に気がついた。そうはいっても、自分の目に見えるもの以外のものを感じ、考え、習得するということは、いくらツェペリがジョナサンの才能を見込んでいても、難しいに決まっている。ジョナサンの体力と気力は毎日のように底をつきながら、それでも彼のぶれない決意がそれを支えてこの1週間を過ごしていた。

 ジョナサンとツェペリ、そしてニナは、ピーク地方に点在する村に宿泊している。ジョナサンとツェペリは朝日が昇るのと同時に修行場へ出発し、夜まで鍛錬を行っている。ニナはディオの居場所を調べるためにロンドンへ向かったスピードワゴンと連絡を取り合いながら、ジョナサンらの食事や衣服の準備を担当した。夕方になり陽が沈むとニナも修行場へと向かい、もうへとへとなジョナサンを気遣いながら、対人を想定した戦法の手ほどきをする。

 ニナは自身が扱う武術に名前をつけておらず、どんな既存の武術に影響を受けたかもわからないと言った。アジアのどこかの国の武道のような動きを見せることもあったし、近年のボクシングのように拳を繰り出してくることもあった。身軽さを生かして相手の体力を消耗させる場面も、純粋な殴り合い、蹴り合いによる力比べをする場面も使い分けている。相手の急所を脚や腕で的確に狙ってくるかと思えば、そのへんの木の棒や石ころを剣や盾として用いる武器術をとっさにやってのけることもあった。ジョナサンは、先日ニナが「武術を身につけているのです」と言って微笑んだのを見たときは、その言葉は冗談まじりかと思っていたので、ニナが農夫が履いているようなパンツとシャツを身につけて現れたときにはたいそう驚いた。「村の男性にお借りしました」と言って腕まくりをしたニナは、さぁどうぞという目線をジョナサンに寄越して、腰を低く落として臨戦体勢になった。「本当にやるの?」と聞くと、「本当ですよ」と答える。困惑しながらも寸止めでいこうとこっそり考えたジョナサンが腕を振り下ろすと、ニナはそれを難なく受け止め、そのままジョナサンの腕をひねりながら彼の大きな身体を倒してしまった。
「痛ててッ!」と悲痛な声を上げたジョナサンの身体を解放したニナが「ジョナサン様、本気でやってください」と言ったので、ジョナサンはニナの言葉が冗談ではないのかもしれないと思いはじめた。次の日の夜には、自分よりも何もかもが小さいはずのニナに全然歯が立たないことを悔しく思いながら、ジョナサンは彼女の言葉が冗談ではなかったのだと悟った。

「ジョナサン様。相手は、身体が多少損傷しても立ち上がってくるでしょう。彼らが痛みを感じるものなのかはわかりませんが……できるだけ一撃で、頭を破壊する必要があります」

「ジョナサン様! 相手はもっと素早い動きをしてくるはずです。武器を使うなら機動力を損なわない重さのものでなくてはなりません」

「ジョナサン様ッ! だから、そこで躊躇してはならないのです! これは本当の戦いだと思ってください!」

 ニナは、石仮面を被って「怪物」となったディオに対して、そしてディオの「吸血」により動く屍となった人間に対してどのような攻撃が有効なのかを教えた。ジョナサンは、ニナがこんなに厳しく容赦なく指導できる人だとは思わなかったけれど、修行が終わればいつものように「穏やかで優しいニナ」に戻るので、その変貌ぶりに驚いて目をぱちくりとさせるしかなかった。
 ジョナサンもツェペリも、ニナがこのような高度な武の技を誰に習い、どのようにして身につけたのかが、まったく見当がつかなかった。特にジョナサンは、文化や宗教や歴史について教えるニナの知識の深さと広さを知っているから、武も知も極めるニナのこれまでの人生がどのようなものだったのかが、想像もできないほど過酷だったのではないかと思った。でもそのことを追求しようとすると、ニナは「育ててくれたひとが熱心だったのです」と答えるだけだった。彼女はこのように答えたあと、それ以上のことを述べる気はないという意志を暗に示すように、「さぁ、ジョナサン様。もう少し休んだら次は組み手ですよ」と言って、自身の腕や脚を伸ばして準備運動をする。そうするとジョナサンは、またニナにこてんぱんにされるのだと思って、顔を青くするのだった。

 明らかになったニナの強さを目の当たりにしたジョナサンはもちろん、2人の武の訓練を見ていたツェペリも、ニナも「波紋」を練習したほうが戦力が増すと考えた。しかしニナにそれを提案してみると、彼女は視線を逸らして「それは……できません」と答えた。試しに手を握って「波紋」を流してみようかとツェペリが言うと、ニナには珍しく慌てて、やめてください、と言って後ずさる。その理由を聞くと、自分は強い太陽の光を浴びると皮膚が赤くなり腫れて、目はくらんで見えなくなるのだから、きっと太陽の波長と体質が合わないのだと答えた。皮膚でさえひどく損傷するのだから、身体の内部に太陽の波長と同じ「波紋」の影響を与えればどうなるかわかったものではない。そうニナは言って、そのまま恐怖の表情を浮かべて目を逸らしたので、ジョナサンとツェペリはそれ以上何も言わなかった。

***

 それからさらに1週間の修行のなかで、ジョナサンは驚くような早さで「波紋」を応用した戦いかたを習得していった。同時に、人と戦うときの身体や武器の使いかた、身のこなし、動きの予測といったものも、腕や膝に切り傷や青痣を作りながら覚えていった。
 ニナとの格闘でも、ジョナサンは彼女に「参った」を言わせることはできないまでも、彼女の重い蹴りや拳による強打を受け流し反撃することができるようになってきていた。でも、訓練を経るなかでジョナサンが自身の成長を実感して紅潮させた頬に笑みを作っても、ニナは「よくできました」と表情を変えずに言うだけだった。ジョナサンは自分が努力してできるようになったことを喜んでくれないのかと一瞬頬を膨らませそうになったが、ニナがこのような態度である理由はすぐにわかった──こうやって強くなろうとしているのは他でもない、ディオを倒すためなのだから、ニナが本当は武を教えたくないのは当然なのだ。ジョナサン自身だって、修行の最中はいろんなことを覚えたり身体に教え込んだりするのに必死で他のことは何も考えられないけれど、修行が終わって宿に戻り寝る前などはいつも、これから直面することになるであろう現実がいつも怖くなる。
 「怪物」となってしまったディオとの戦いで死ぬかもしれないという可能性はもちろん、恐ろしい。けれどジョナサンがもっと恐怖しているのは、あの残酷で、それでいて悲しみを覚える笑みに、再び対面しなければならないことだった。ジョナサンは、そしてニナも、ディオが「怪物」となってもなお、いやディオが「怪物」となったからこそ、彼が「悪」の道から抜け出せるようにしたいと考えているのだ。それが、単に彼を倒す──ジョナサンもニナも、「倒す」ということが「殺す」ということであるとは決して言わなかった──という目的よりもずっと難しくて、望みのほとんどないようなことだというのは、わかっている。けれど、ジョナサンもニナも、ディオという青年の心の底に巣食う「悪」の悲しさに気がついてしまった以上、これからやろうとしていることが、彼の命を終わらせればいいという単純な任務であると諦めてしまう気はなかった──それがどんなに困難な、いばらの道だったとしても。

***

 「風の騎士たちの町──ウィンドナイツ・ロット」と呼ばれる町は、ロンドンから60マイルほど南下した先にある小さな町である。北と東西は岩山に囲まれ、南側に広がる大草原の下には白亜の断崖がそびえ立っている。

 ロンドンに滞在していたスピードワゴンが入手したのは、ロンドンで東洋の薬を売っていた男が急に店に現れなくなったと思ったら突然帰ってきて、しかもひどい火傷をしたという顔を隠し、足が動かないからと車椅子に乗った男を連れていたという話だった。その東洋人は帰ってくるなり店をたたむと言って早々に品物や備品を売り払い、その車椅子の男とともにどこかに去っていたという。
 スピードワゴンとニナはこの話をもとに、ディオは人間の精気を吸い取ることで身体の回復を目論みているはずだから、彼が回復できるだけの人数が住んでいる地域で、かつ警察が簡単には向かうことができないような、閉鎖的な地理をもつ場所を選ぶだろうと考えた。身体をぼろぼろに損傷しているディオが一度に長い距離を移動する可能性は低いことから、ロンドンから近い小規模な町のなかで、閉鎖的な地理をもっている場所をいくつかあたったところ、ウィンドナイツ・ロットという町の名前が浮かび上がってきた。そしてこの町において、珍しくも東洋人が歩いているのが目撃されて住民の噂になっているという情報を得たのである。詳しく調べてみると、この町にはここ数日の間に、空きになっていた館に引っ越してきた者がいるということも明らかになった。これを知ったスピードワゴンは、当たりを引いた、と思った。
 ディオがその町の住人を「食糧」にするということはわかりきっているので、ある昼にスピードワゴンの連絡を受け取ったニナは、すぐにジョナサンとツェペリに、旅と戦いの準備をするようにと伝えた。その日の修行は早めに終わらせて夜明け前に出発し、ロンドンの郊外でスピードワゴンと落ち合うことになった。

 疲れた身体を引きずるような心地で宿への帰路を歩くジョナサンの後ろでは、ニナとツェペリが並んで歩いている。

「……それで、何日もの漂流のあとに……。そう、ですか…………」
「運が……良かったのだよ。たくさんの不幸のあとに、わたしは、……運に恵まれた、というわけだね」

 ツェペリは、ジョナサンにはすでに話していた自身の過去を、修行の合間に何回かに分けてニナにも話していた。ニナは、隣で同じ歩幅で歩くツェペリの顔を見ることなく、「ツェペリさんが無事で、本当に良かったです」と言った。

 ツェペリは、ニナがこれまで石仮面を破壊するために一人で旅をしてきたのだということを、ジョナサンから聞いて知っていた。ツェペリは、石仮面が引き起こした事故によって父を亡くし、妻や子どもと別れてまで「波紋」の修行に耐えてきた自分が、ここに来て天性の才能をもつジョナサンと、同じく石仮面を破壊するために旅をしてきたニナと出会ったことに、運命というものを感じずにはいられなかった。

「こうして、君たちと出会えたこともまた、なんという幸運かと思うよ」

 ツェペリは、ニナを見て、それから前を歩くジョナサンの背中を見てそう言った。「だからきっと、わたしたちはできる。成し遂げられる」。そう続けようとしたら、どうして、と言うニナの声が聞こえてきた。

「どうして…………」ニナが、自分自身に対して呟くような小さな声で、そう言った。
「ん?」

 ツェペリはニナを見た。ニナは立ち止まっていた。俯いて、自分の身体を抱きしめるようにして腕を回していた。その手は、わずかに震えていた。

「どうして、…………戦い続けられるのですか……」
「……ニナ嬢」ツェペリも数歩先で立ち止まった。
「ツェペリさん、あなたは、……そんなに怖い思いを、なさったのに…………。ツェペリさん、あなたは……死ぬかも、しれないのですよ。わたしたちが明日向かうところは、とても、危なくて………それなのに、どうして、そんな平気なふうで、いられるのですか……」
「…………」

 ツェペリは、声を絞り出そうとするニナを見つめている。前を歩いていたジョナサンも、こちらを振り向いた。

「あなたには、石仮面を破壊する責任なんて、ないはずです。あなたはただ……アステカの遺跡に、たまたまあれを発掘してしまっただけで………」
「……ニナ嬢」
「あなたには、もう石仮面のことなんて忘れて……普通の人として生きる道もあったはずです。あなたを待っている人だっている。それなのに……」
「ニナ嬢。……顔を上げて」

 ツェペリは、声の震えているニナに近づくと、彼女の肩に手を置いた。

「ニナ嬢、ありがとう。わたしをそんなふうに気遣ってくれて」
「…………」

 俯いたままのニナは、目をぎゅうと閉じていた。ツェペリは、涙を浮かべた瞳で、少し屈んで彼女の顔を覗き込んだ。

「確かに、……わたしの父が、わたしの目の前で、朝日のなかで気化していったときの、あの光景は…………いまでも悪夢に見るくらい、恐ろしいものだった。……でもね、どんなに怖くても……わたしはやらねばならない。進まねばならないんだ。あの石仮面と、あれによって生まれる『怪物』を、放っておくことは、できないんだ」
「そッ、そんな、ことは……。だって、あなたのせいじゃあない! あれによって人でなくなってしまったひとたちのせいでもない! ……あれを…………あれを、作った者がすべて悪いのではないですか! あなたがッ……、こんな危険なことをする必要なんて……」
「ニナ嬢」

 ツェペリはもう一度ニナの名を呼ぶと、彼女の頬を両の手で包んだ。幼子に言い聞かせるときみたいに静かな、それでいて、優しい声だった。

「……わたしが……父を失ったわたしだからこそ、やらねばならないんだよ。……人類のためだとか、そんな大それた理由じゃあないんだ。……わたしはね、ニナ嬢。尊敬し、愛していた父が、……あんな姿になったときに、それが自分の父だと気がつかなかったのだよ。自分を殺そうとしているのが自分の父だと知らず海に逃げ、あの恐怖のなかで願ったのは、……『あぁ神よ、どうかこの"怪物”を、早く殺してください』ということだった。そうしたら、……そうしたら、朝日が、昇ったんだ」
「ツェペリさん……」
 ニナは顔を上げた。
「だからこれは……ある意味、償いなのかもしれないね。父は確かに、たくさんの人を殺した。けれど、その父を殺したのは、このわたしなんだ」
「そんな、そんなことはッ……」ニナは首を横にふるけれど、ツェペリは、そんなニナを見て微かに笑って、彼女の頬を撫でた。

「そうなんだよ、ニナ嬢。あの『怪物』が自分の父親だと知っていれば……たくさんの人を殺した罪を、一緒に償うからと……だから、どうか父さん、どうか目を覚ましてと、何度だって呼びかけたのに…………。そうでなくても、せめて一緒に……一緒に死ぬくらいのことは、やってあげられたはずなんだ」

 ツェペリは、目から落ちてくる雫をはらうこともなく、ニナを抱き寄せた。それから数歩先で苦しみの表情をして立ち尽くしていたジョナサンを手招くと、その大きな身体も一緒に包むように、抱きしめた。

「だからこれ以上、こんな悲しいことが起こるのを放っておくことはできないんだ。……わたしたちは、『怪物』を殺すために進むんじゃあない。……わたしたちは、これ以上、石仮面によって『怪物』となるひとたちが生まれないようにするために、……そして、『怪物』となってしまったひとが、もう人を殺さないようにするために、戦うんだよ」

 そう言ってツェペリは、ニナとジョナサンに回した腕の力を強めた。
 ニナとジョナサンは、震える声で、はい、はい、と何度も返事をして、頷いた──同じだったのだ。ディオを殺すために戦うのではなく、ディオが「悪」から抜け出させるために戦うニナとジョナサンと、ツェペリは、同じだったのだ。そこには、人ならざるものへと変わり果ててしまった者を繋ぎ止めようとする、無謀だけれど、優しい思いの強さがあった。

 ──あぁ、人のもつ勇気は、こんなにもきれいで、優しくて──「わたしにも……こんな勇気が、あれば…………」ニナは目から涙が出そうなのを堪えたけれど、唇からは不意にその言葉がこぼれた。そしてツェペリの耳に届いた。

「いいやニナ嬢、君にももう、あるんだよ。その胸のなかには確かに、優しい勇気が」

 ニナがツェペリの顔を見上げると、ツェペリは笑った。その頭上には、冬空の凍えた空気のなかで、様々な明るさで煌めく星たちがあった。


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