23


 「ディオ様は、どのようにして亡くなったのですか」

 次の日、一夜明けて落ち着いたジョナサンに、ニナはそう聞いた。
 ジョナサンは困った顔をして、何回か口を開いては閉じて、息を吸っては吐いて、を繰り返すと、意を決した顔になって「ぼくの友人を呼んでもいいかい」と聞いた。
 その日の午後にペンドルトン家に現れた男はスピードワゴンと名乗ると、傷跡のある顔を興味津々といった表情にして、「ジョースターさん、こちらのお嬢さんは?」と尋ねた。ジョナサンが、ニナはぼくのガヴァネスだったんだと答えると、スピードワゴンはへぇそうかい、こんなに若いのに、と言って、「やっぱり良い男のところには素敵なお嬢さんが集まってくるんだなぁ」と、一人で納得したようにうんうんと何度か首を縦に振った。

***

 ペンドルトン家の一室で、ニナとジョナサン、スピードワゴンはそれぞれ椅子に座って向かい合っていた。
「信じられないと思うけど、本当のことなんだ」と言ってジョナサンが話したのは、ディオが人間の精気を吸い取る「怪物」になり、屋敷で激しい戦闘があったということだった。ジョナサンは、ディオを「怪物」にしたのはジョージの血を浴びた石仮面であること、彼はどんな怪我でも瞬時に回復し、壁や鉄をも砕く怪力をもっていたことも含めて、言葉をつっかえさせながら、ディオの逮捕のために警察を呼んでからのことを説明した。
 スピードワゴンは所々で「本当だぜ」と言いながら、ニナがジョナサンの話を黙って聞いているのを見ている。ニナは相槌もほとんど打たずに、時折口元を手で覆ったり目を閉じたりして、ジョナサンが話し終わるのを聞いていた。

 ジョナサンは本当のことをニナに話すべきかどうかを迷いながらも、ニナなら、この突拍子もない話を信じてくれるのではないか、そして、今後この世に残る石仮面を破壊するための調査と、その実行を、手伝ってくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。言語学や考古学、人類の文化や宗教に関する幅広い見識を持っているニナなら、自分の知らない知識や人脈をもっているのではないかと思ったのだ。それに、いくつあるのかもわからない石仮面を、3日前に突然現れた男──ツェペリと2人で、あるいはスピードワゴンと3人で相手にするのは、どう考えたって無理がある。
 けれどもジョナサンは、石仮面と、それが生み出す「怪物」との戦いにニナを巻き込むということが正しいことなのかどうかはまったく自信がなかったし、できるなら彼女を、というか誰も巻き込みたくないとも思っていた。だからジョナサンは、ディオが「怪物」となって父を殺し、自分はそれを倒そうとするなかで屋敷が燃えたのだということまでしか話さなかった。これから石仮面を破壊していかなければならないことは言わないつもりだし、ましてツェペリがディオはまだ生きていると言ったことも、ディオを「波紋」の力で倒すために修行を開始する予定だということも、言えるはずがなかった。

 だから、この話はここでおしまいだ。「ディオは、きっと瓦礫と炎に飲み込まれて、死んだんだ」。そうジョナサンが言おうとした瞬間、ニナが口を開いた。

「……ディオ様は、まだ死んでいないのではないですか」

 ジョナサンとスピードワゴンは、そのあまりの苦しそうな声を聞いて、驚いてニナを見た。ニナは、鋭く、冷たい目をしていた。それは、ジョナサンが初めて見る表情だった。

***

 ニナ自身が歴史や考古学が好きだし、メキシコやローマで遺跡の発掘事業に関わっていたこともあったかだろうか、石仮面についてわかっていることをジョナサンが説明すると、彼が予想していたのよりもはるかに早く深く、ニナはこれからやらなければならないことを理解したようだった。ジョナサンが、ディオがまだ生きてるということ、石仮面も彼の手元にあるのだということを明かし、ディオには「波紋」の力で立ち向かわなければならないこと、ツェペリという男を師としてこれから波紋の修行に入るのだということを告げると、ニナは眉間のしわを深くして、目つきをますます鋭くした。

「ジョナサン様、……本気ですか。死線を越えたあなたは、ディオ様の力はじゅうぶんわかっているはずです。短期間の修行などで、彼を上回る力が身につくとは到底思えません。……」

 ニナはジョナサンから視線を逸らして、一瞬言い淀んだ。

「わたくしにも、武力を必要としたときのあては……あります。あなたはまだ身体も全快していない。ディオ様のことは任せて、あなたは、休んでください」
「ニナ、『武力のあて』って……警察や、軍だってきっとディオには敵わないんだよ! 人ならざる力には、同じく人の限界を越えた波紋の力でしか、対抗できないんだ!」
「そうだぜ、ニナさん! あんたは直接見ていないからわからないだろうが、」
「わかっています! でも、ジョナサン様は……あなたがたはもう、このことに関わってはいけません!」

 スピードワゴンが話すのを遮るようにしてニナが声を荒げたので、ジョナサンはびっくりしてニナの目を見た。自分が無謀なことを言い出すものだから怒っているのかと思ったけれど、そうではなくて、ニナは泣きそうな顔をしていた。ニナは、自分が大きな声を出してしまったことにさらに傷ついているような表情をして、すみません、と謝った。

「いけません、ジョナサン様……。あなたにはまだ、あなたを大切に思っている人たちがいる。スピードワゴンさんも、エリナ様も、あなたが傷ついてしまったら……悲しみます」
「うん……わかっているよ。……でもねニナ、それでもぼくは、戦わなければならないんだ」
「ッ、どうして」
「だって、ディオがああなることを止められなかったのは、ぼくのせいだから。ぼくは、ディオの心に巣食う『悪』に気がつきながら、何もしなかったんだ。ディオがダニーの死に関わっていたことも、ぼく自身が殴られたりしてきたことも見ないふりをして、彼と本気でぶつかり合うことを避けてきたんだ」

 ジョナサンは椅子から立ち上がると、ニナには陽の光が当たらないように少しだけカーテンをめくって、窓の外を見た。こんなに不安と恐怖にまみれた暗い話をしているというのに、外は秋から冬へと移り変わる季節の、良い天気だった。

「ディオは、自分の本当の気持ちを話すようなやつじゃあなかったけど……それでも、ぼくが何度でも諦めずに、彼と本気で関わろうとしていたなら、何かが違ったと思うんだ。……ディオと親友になれたなんて思わないけど……少なくとも彼が、父さんを殺そうとしたり、ああやって人間を捨ててしまうようなことには、ならなかったんじゃあないかって、思うんだッ……」

 ジョナサンは行き場のない後悔や怒りをぶつけるように、窓枠に拳を振り下ろした。どん、と鈍い音がした。
「違います……」ニナが後ろで呟いた。「違います、ジョナサン様のせいではありません!」ニナはそう叫んで立ち上がった。がたり、と音を立てて、椅子は倒れた。

「……ディオ様が、……彼が、人ではなくなってしまったのは、……わたくしの、…………わたくしが、……」

 ニナは喉まで出かかっている言葉をこのまま出してしまうことに、大きな迷いを抱えているようだった。ジョナサンもスピードワゴンも、何も言わず次の言葉を待った。

「…………わたくしは、石仮面の秘密を、……ずっと前から、知っていました」

 ニナがやっと絞り出した言葉に、ジョナサンは「え……」という半分吐息のような音を漏らした。スピードワゴンは呆気にとられた顔をしたけれどすぐに立ち上がって、ニナに近づいていった。

「……どういうことだよ……あんた、石仮面が人を怪物にするって、知ってたのか?! ……それなら、どうしてッ! どうしていままで放っておいたんだ!」

 スピードワゴンはニナに掴みかかって、彼女の襟元を乱暴に引っ張った。

「あんたが! あんたが石仮面を放っておかなければッ……! 石仮面の真実なんて言ったところでみんな信じねぇだろうがよ! それでもあんたが壊していればッ! 壊しさえしていればッ……あんなッ……あんなむごいことにはッ……!」

 スピードワゴンの脳裏には、ナイフで刺されたジョージが倒れその血をべっとりとつけた石仮面から眩しい光が発せられて、「怪物」へと変貌したディオが次々に警官たちを襲い、皆からからに乾いて悲鳴を上げる間もなく死んでいったときの光景が、絶望が、蘇っていた。あんなことになると知っていたなら何故それを放っておいたのか。スピードワゴンは怒りと悔しさとで、どうにかなりそうだった。

「…………言い訳のしようもありません。ディオ様がああなったのは、多くの人が死んだのは、わたくしの責任です」

 ニナはただ俯いて、そう言った。スピードワゴンはニナの襟元を掴んだまま、あぁ、あぁと悲痛な声を上げて涙を流した。ジョナサンはしばらくニナを見つめてから、ニナに縋り付くようにしているスピードワゴンの手をとって外してやった。スピードワゴンは力なく椅子に落ちるようにして座った。

「ニナ、君には、何か理由があるんだろう。石仮面のことを知っていて、壊さなかった理由が……。聞かせてくれないか」

 ジョナサンは静かにそう言った。ニナが黙っているので、ジョナサンは再び「話してほしい」と言った。ニナは、俯いたま口を開いた。

***

 1873年の春になるころ、ニナがジョースター家のガヴァネスの職に応募したのは、その数年前にジョージが石仮面を購入したということを知ったからだった。

 メソポタミア、エジプト、インダス、黄河、アステカ、マヤ。世界各地で発展した文明の遺跡からは、石仮面に関係する遺物が見つかることがある。石仮面の描かれた壁画、たくさんの石仮面の模倣品、石仮面とともに発掘された儀礼品。それらはその土地の統治者の墓から見つかったり、滅んだ文明の遺跡下の地中深くに埋められた状態で発見されたりすることもあった。
 石仮面は何世紀もの時間のなかで、あるものは粉々に砕け、砕かれ、あるものは状態の良いままで残っていた。そうして歴史の荒波にも耐えて生き残った石仮面は、近年の遺跡発掘のムーブメントのなかで、探検家に拾われたり、墓荒らしに奪われたりしたことで、再び世界各地をめぐるようになった。

 ニナは、この世に残る石仮面すべてを破壊するべく、ずっと旅をしてきた。
 生きていくだけの食料があればいい。雨風をしのげるだけの住居があればいい。石仮面が眠っているかもしれない未開拓の地も、これから石仮面が発掘されようとしている遺跡も、富める者が石仮面を保管している邸宅も、ニナは長い時間をかけてそれらを調べては現地に向かい、当たりならば石仮面を破壊し、はずれならば次の標的を調べてはまた移動するという生活を続けてきた。人と会うのも、会話するのも、最低限、必要なだけ。ニナはできるだけ人と関わらないように生きてきた。

 1873年の春にジョースターの屋敷を初めて訪れたニナは、事前に調べていた通り、その壁に石仮面が飾ってあるのを確認した。
 それまでの旅中で最低限の衣食住のための資金を使い果たしていたニナは、ジョースター家でガヴァネスとして一定期間働き資金を貯める予定だった。そのあと機を見計って石仮面を破壊し、適当な理由をつけてジョースター家から立ち去るつもりだった。幸いにしてジョージからはじゅうぶんな給金をもらえることになったし、気の良い、人望のあるジョージのもとでガヴァネスを経験したことで、次の求職にも困らなさそうだった。

 ただひとつ、このようなニナの「予定」が狂わされたのは、ジョースター家が思ったよりも居心地が良くて、ジョージやジョナサンのことを、人間として好きになってしまったからだった。

 何度も何度も、エントランスホールに飾ってある石仮面を睨みつけては、早く、早くこの仮面を壊して、早くここから去らなければと思った。けれど、初めてジョージに石仮面のことを尋ねたとき、彼は亡き妻がこれを選んだのだと言ったから、この仮面を壊すのはもう少し先でもいいかもしれないと思った。しかし、それがいけなかった。そのあとも何度も石仮面を壊そうと思い立っては、ジョージの顔や、いずれこの仮面が母の形見だと知るジョナサンの顔を想像しては、いまはまだいい、まだ時間はあると、言い訳を重ねてきた。
 その代わり、ガヴァネスの仕事が休みの日は石仮面が眠っている可能性のある遺跡や、すでに発掘された石仮面の所在の下調べに時間を費やした。まとまった休みがとれるときは旅に出かけると言って、ヨーロッパの博物館に忍び込んでは所蔵されている石仮面を壊し、収集家や骨董商から買い取ってはまた壊してきた。いったいいくつこの石仮面が作られたのか、その正確な数はわからないけれど、ニナはこれまで多くを、容赦なく壊してきた。そうだというのに、ジョースター家に長居すればするほど、ジョージにとっての妻、ジョナサンにとっての母の形見であるあの石仮面だけは、どうしても壊すことができなかった。
 まだ大丈夫、まだ時間はある。そう思いながら何年間も、気がつけばいつも、ニナはジョージやジョナサンのいるあの場所に帰っていた。ガヴァネスとしての仕事を終えてリバプールを去る時期になってでさえ、石仮面が書庫に保管されることになったと聞いて、安心している自分がいた。

 どうしても、壊せなかった。石仮面が破壊されたと知ったときのジョージやジョナサンの悲しむ顔を、どうしても見たくなかった。それくらい、気がつけばジョージとジョナサンを、好きになってしまっていた──。

「……いえ、これも、ただのわたくしのわがままなのです。ジョージ様とジョナサン様が大切で、一緒にいたかったから……石仮面を壊してしまえば、そこにいる意味がなくなるから、壊せなかった……。悲しんでいるジョージ様やジョナサン様のそばに、破壊した張本人であるわたくしが平気な顔をしていられるはずもないから、壊せなかった……。すべて、…………すべて、わたくしの、わがままなのです。わたくしのわがままが、こんな結果を招いたのです」

 そこまで語り終えたニナは、顔を上げた。

「だから、……ディオ様のことは、わたくしに責任があります。ジョナサン様、スピードワゴンさんも、もうこれ以上、このことに関わってはいけません。もう、あなたがたが傷ついてはいけないのです。先ほども言った通り、わたくしは、……わたくしには、あてがあります。だから、」
「ニナ」
「……だから、……どうか、石仮面の秘密のことは忘れてください。わたくしが、あとはすべて、かたをつけますから、」
「ニナ!」

 ジョナサンは、ニナの言葉を遮って、彼女の名を呼んだ。震えている彼女の身体を抱きしめた。ニナははっ、と息を呑んで「ジョナサン様」と、か細い声で言った。ジョナサンは、こんなにも彼女は小さかっただろうかと、そのとき初めて思った。昨日だって久しぶりの再会で、何度も抱きしめあったはずだったのに。

「ニナ」ジョナサンは、語りかけるようにそう呼んだ。「ニナ。ぼくと、父さんのことを、好きでいてくれてありがとう。君が、優しさや笑顔の裏で、そんなふうに悩んでいたこと、知らなかった。ごめんね」
「……あ……」

 何と答えればいいのかわからなくて、ニナの口からは意味のない音だけが、ぽつりと出た。

「君が石仮面を壊さなかったことに責任を感じるというのなら、ぼくだって、同じだ。だって、石仮面の研究を進めておいて、それが危険なものだと考えなかったのは、このぼくだ。ディオと最後にした大喧嘩のとき、あれが血に反応するのを見ておきながら、ぼくはいままで、研究だと言い張って、好奇心のままにあれを調べたんだ。ディオが父さんを殺そうとしていることを知ってから研究ノートがなくなっているのに気づいてなお、石仮面が悪用されることなんて、考えもしなかったんだ」
「ジョナサン様、そんな……そんなことは、」
「ううん、ニナ。君が自分に責任があると言うのなら、ぼくにだって責任がある。……だから、ニナ。どうか、ひとりで戦おうとしないで。君が、いつから、どうして、石仮面を壊すことだけを目的に生きてきたのかはわからないけれど……ニナ、君はもうひとりじゃあないんだ」
「……ジョナサン様、いけません……あなたは、死ぬかも、しれないのですよ……」
「ぼくはもう、子どもじゃあないんだよ、ニナ。自分の責任は自分で果たすし、ぼくが悩んでやっと決めたことは、誰にだって変えられないんだ。……ニナ、君が石仮面を壊し続けるのなら、ぼくは、ツェペリさんと一緒に、ディオと戦うよ。警察の人たちを……父さんを殺したディオは、ぼくが止める。ぼくが、やらなきゃいけないんだ」

 ニナは、いけない、あなたはそんなことをしてはいけないと言おうとしたのに、ジョナサンがもっと強い力で抱きしめてくるものだから息がうまく吸えなくて、言えなかった──いや、本当は、言いたくなかった。嬉しかった。ずっと探していた。ひとりではないのだと言ってくれる人を、求めていた。一緒に戦うと言ってくれる人を、望んでいた。

 ニナは迷いながらも、ジョナサンの大きな背中に腕を回した。それを見ていたスピードワゴンは目をこすりながら、「ジョースターさん、……ニナさんもッ、おれはもちろんついていくからなッ」と言って、垂れてきた鼻水を乱暴に拭った。

「…………ジョナサン様、いつの間にか、こんなに大きくなって……。……いいえ、あなたは、昔からそうでした。一度決めたことはなかなか変えない、頑固な子でした。わたくしは……わたしは、そんなあなたが、大好きだった……」

 そう言ってニナは、しばらくジョナサンを抱きしめたあと、その頬に手を添えて、額と額を合わせて、瞳を覗き込んだ。それは、思いを通じ合わせるときの、2人の合図のようなものだった。

「ディオ様を止められなかったのは、わたしも同じです。彼の危うさを知っていながら、これまであなた一人に彼のことを任せてしまった。……わたしも、ディオ様を止めたい。彼が悪の道から抜け出せるように、手助けしたい。だから、ともに戦います、ジョナサン様」

 ニナが真直ぐな、強い瞳をしてそう言ったから、ジョナサンは驚いた。

「えっ、……そう言ってくれるのは嬉しいけど、戦うって、ニナ、どうやって……」
「言っていませんでしたか。わたし、武術を身につけているのですよ」

 ジョナサンが困惑しているのを見て、ニナはやっと笑った。いつものように、穏やかな、優しい瞳で。


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