22


 ローマの冬はそこまで寒くはならないものの、夜は薪を絶やさず燃やさなければ冷えてしまう。ニナはもうここに住んで2年ほどにはなっているけれど、以前暮らしていたメキシコシティよりも1年の四季は大きく変化するので、移り変わる景色を見たり、風や海を感じたりするのは楽しいけれど、まだ季節ごとの備えをどうすればいいかの感覚が掴めないでいた。
ニナはジョースター家に勤める数年前から、春夏秋冬襟の高いこの暗い色の服をずっと着ているから、イギリス人女性というものが着る服がだいぶ身体に馴染んでいる。だから昔なら耐えられた寒さも、いまでは薪を燃やさなければちょっと冷えるかしらと思うようになっていた。
 その11月のある日の夜も、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の音を聞きながら、ブランケットを羽織って本を読んだり絵を描いたり、ときどき散歩に出かけたりして過ごすいつもの夜と変わらなかった──だた、夜更けにいきなり電報が来たと、大家に言われるまでは。

 ニナは誰かとの連絡手段に電報を使うことはあまりなかったし、ましてこんな夜に連絡が来るなんて、と驚いた。大家に呼ばれて階段を下りていくと、大家は血相を変えて、慌てた様子でニナに電報のメッセージを渡した。そこには「ジョージ ト ディオ シス ジョナサン オオケガ ヤシキ ハンショウ」と書かれていた。それを一度読んでニナは、はっ、と息を呑み口を手で覆った──「ジョージとディオが死に、ジョナサンが大怪我をして、屋敷の半分が焼けた」? あまりに急で、衝撃的で、何故そうなったのかもわからず、ただジョースター家の2人が死んで、1人が重体だという情報だけが、ニナの頭を駆け巡って心臓の鼓動を早めた──そんな、……ジョージ様が、ディオ様が、死んだ? どうして? ジョナサン様は、無事なの? 治る怪我なの? 意識はあるの? 屋敷が燃えたなら、あの石仮面は?──そんな疑問と恐れだけが頭を支配して、いてもたってもいられなくなった。ニナはすぐにイギリスへ向かうことを大家に伝えると馬車を用意するように頼み、最低限の持ち物だけを用意して、アパートを出た。

***

 ジョナサンは焼野原となってしまったジョースターの屋敷の跡を見回すと、動く方の足で残った瓦礫をどかしては、そこに石仮面がないことを確認してため息をついた。
 ジョナサンは意識を取り戻すとすぐに、避難させていた使用人と、ロンドンにいる親戚たちと、そしてローマにいるニナに電報を打った。ジョージが亡くなったこと、屋敷が半焼したこと、自分は大怪我をしたこと。ディオについてはひとまず死んだと伝えておいて、後日手紙に詳しいことを書いて送ろうと思っているところだ。もちろん、ディオが人の精気を吸い取る「怪物」になってしまったことなど言えるはずはないので、彼がジョージを殺そうという企てに失敗し、逮捕時に事故を起こしたのだとしか説明できない。警察にも、そのように納得させた。

 昨日ジョージの葬儀が終わってから、ジョナサンはすぐに駆けつけてくれた使用人や近隣住民たちと一緒に、そこらじゅうに無残に広がっていた焼け跡を少しずつ片付けている。不幸中の幸いというべきか、焼けたのはエントランスホールとそこから近い画廊、応接間、食堂までで、書庫やジョージやジョナサンの自室はほとんど無事だった。ただし崩壊の危険性があるので、しばらくは屋敷で寝泊りすることはできない。
 ジョナサンが懸念しているのは、いくつかの骨だけになって残った遺体のなかにディオのものがあるかどうかということ、そして石仮面がどうなったのかということだった。焼け跡に残っていた骨はすべて警察に渡したけれど、その特徴から身長くらいなら判明しても、どの骨が誰なのかということまでは、おそらくわからないままだ。ディオの最期はこの目で見たし、彼の驚異的な回復力をもってしても、女神像に刺さった状態で炎から逃れることはできなかっただろうとは思う。しかし、ジョナサンの胸中からは嫌な予感が消えなかった。
 石仮面がディオをあんなふうに変えたなら、あれは絶対にこの世に残してはならない。ジョナサンは、これまでどれだけ研究してもわからなかった仮面の謎が、こんなにも多くの犠牲を払ってやっと判明したということに、こんな最悪の皮肉はないだろうと思った。身体が回復し次第、他にもいくつか存在するはずの石仮面を破壊するために、動かねばならないとも考えた。

 意識が回復して歩けるようになり、燃えかすとなって崩れ落ちた屋敷を見ていると、だんだんと父がもうこの世にはいないのだということが、現実のものという気がしてきた。炎のなかの戦いではもう無我夢中で、とにかく生き残らなければならない、スピードワゴンを守らねばならないという一心で身体を動かしたけれど、こうやって少し落ち着いてみると、20年もそばにいた父ともう会うことはできないのだという現実が苦しくて、苦しすぎて、涙さえも出てこない。
 それに──ディオ。「人間をやめるぞ」と言ったディオの空虚な笑み。人を傷つけ、殺すことを躊躇しない、残酷な笑み。あんなに恐ろしく、禍々しい存在と変わり果ててしまったはずのディオなのに、ジョナサンは、彼を恨んだり罵ったりする言葉がすぐには見つからなかった。彼が為したことは確かに罰せられるべき「悪」だけれど、彼はスピードワゴンの言う通り、本当に「生まれついての悪」だったのだろうか? ジョナサンは、ディオが自分の父親を語るときに見せた心の底──そこに巣食う憎しみ、怒りを思い出しては、やるせなさを感じずにはいられなかった。ディオと過ごした日々は、あの青春の日々は、彼が「怪物」となってしまってもなお、苦々しさと、寂しさと、切なさを、ジョナサンの胸に残していった。

 ジョナサンが遠くを見つめていると、エリナがやって来た。まだ足を引きずって歩くジョナサンの杖をもって、穏やかな微笑みを向けて。ジョナサンはありがとうと言って、杖を受け取った。
 ジョナサンが意識を回復した夜一番最初に目にしたのは、少女時代の面影を残して、冷水を含ませた手巾を赤くなった手に持ち、こちらを見つめるエリナの姿だった。7年前にディオの策略によって引き裂かれたジョナサンとエリナだったけれど、おたがいのことを忘れたことなどなかった。父を、家を、青春を失ったジョナサンがこの瞬間も踏ん張って立っていられるのは、エリナのおかげといっても過言ではない。彼女が、彼女との将来への希望が、ジョナサンを奮い立たせる。帰る場所があると思わせてくれる。2人はゆっくりと並んで歩き出した。しばらく歩いていると、道の向こうの柵に、格子柄のハットを被った男が座っているのが見えた。

***

 ニナはローマを夜に出発して、電車や馬車や船を乗り継いで3日後の夕方、やっとリバプールに到着した。
7年前にこの地を去ってから、きっと次にリバプールに来るのは何十年もあとだと思っていたのにもう戻ってきてしまったと、馬車の窓に見慣れた景色が映るのを眺めながら思った。これからジョナサンと会えば、彼はどんな顔をするだろう──7年前から一度として、ジョージが大変なときにさえ、ここに戻って来なかった自分に。
 ニナは、無残な姿になった屋敷の前で馬車を降りると、薄暗くなった空の下に立って辺りを見回した。辺りの風景は何も変わっていないのに、ジョージやジョナサン、ディオがいたこの場所だけが、彼らとの思い出を焼き尽くすように変わり果ててしまっている。ニナはまだ何があったのか詳細は知らないけれど、それを知ることが怖いと思った。寒いからか怖いからか、震える身体を包むように、両腕を自分の身体に回した。
 ドーヴァー海峡を渡る前に、自分がリバプールに向かっていることを、いまはエリナの実家に滞在しているというジョナサンに電報で知らせた。ジョナサンは、自分が今日到着することを知っているだろう。ニナは、しばらくそこに佇んだあとに、一歩を踏み出した。

 ペンドルトンの家までの道を歩いていると、向こうに大きな人影が見えた。夜目が利くニナは、薄暗い空の下でもその人影が誰なのかがすぐにわかった。人影を見るとニナは息をのんで、持っていた荷物を雑に手放して、走り出していた。

「ジョナサン様ッ……」

 全力で走るにはスカートの裾が邪魔で、踵の高い靴では転びそうになって、帽子は跳ねる身体に揺られて落ちてしまった。でもそんなこと、どうだっていい──無事だった、あの子は無事だったのだ。良かった。また会えて、良かった。抱きしめたい、すっかり背の高くなった、厚くなった身体を抱きしめて、いままでのことを話したい。ジョースター家を離れてから、どれだけあなたたちのことを考えていたか。どれだけあなたたちの成長を想像して嬉しくなっていたか。いつも手紙を楽しみにしていたことも、手紙を書いて、手紙をもらうことがずっと自分の心を支えていたことも、伝えたい。そして謝りたい、大変なときに何もしてあげられなくてごめんなさい、と。

「ジョナサン様ッ!」

 もう一度、あの日々にずっとそばにいた少年の名前を呼んだ。いや、もう彼は少年ではなくて、こんなにも大きく、たくましくなって──

「ニナ!」

 自分の名前を呼ばれたことに気がついたジョナサンは、目を凝らして向こうから走ってくる影を見て、すぐにそれが誰なのかがわかった。気がつくと、ジョナサンも走り出していた。「波紋」という不思議な力のおかげで痛みが軽くなったばかりの足を、これ以上ないくらい大きく動かして。
 ニナとジョナサンは、両腕を広げて抱き合った。強く、強く、抱きしめ合った。ニナは最大まで背伸びをして、ジョナサンの肩に腕を回して。ジョナサンは少し屈んで、ニナの腰に腕を回して。痛いくらいに、おたがいの存在を確かめ合うように、息もできないくらいに抱きしめ合った。
「ジョナサン様」と、ニナが呟くように呼ぶと、ジョナサンの目からはぽたぽたと雫が落ちてきた。大粒の雫が彼女の肩や背をかすって地面に滲みを作ったのを見て、ジョナサンは自分が泣いているのだとわかった。

「ニナ、ニナ……」
「ジョナサン様」
「ニナ。あぁ、会いたかった。君に、会いたかった」
「ジョナサン様、わたくしも、会いたかった」
「ニナ、やっと、君に会えた。ずっと、会いたかったんだ。どうして、いままで会いにきてくれなかったの。ぼくは……ぼくたちは、ずっと待っていたんだよ。誕生日も、夏のバカンスも、クリスマスも、君と一緒に過ごせたらって、ずっと思っていたんだ」
「ジョナサン様、ごめんなさい。ごめんなさい……」
「父さんだって……父さんも、ずっと待っていたんだよ。またリバプールで、みんなで過ごせたらいいなって、思っていたんだよ、ニナ。父さんも…………父さん、は…………」

 ジョナサンは、「父さんは」の続きを言えなかった。言おうとしても、嗚咽がそれを邪魔して、涙も鼻水もとめどなく溢れてしょうがなくて、ただ泣いて声を上げることしかできなかった。それに、この続きを言ってしまったら、本当に父はもういないのだという現実を突きつけられる気がして、言えなかった。
 ニナは、自分の肩が濡れたのを感じた。昔、ジョナサンがまだニナよりも小さかったころにそうしたように、精一杯力を込めて大きな身体を抱きしめた。2人はしばらくずっと、そうして抱き合っていた。

***

 エリナは、数十分前に家を出たジョナサンが目を腫らして戻ってきて、隣にはつばの汚れた帽子を手に持った女がいたので、一瞬何があったのかと驚いた。けれど、すぐにそれが、ジョナサンがよく口にするニナという人であることを察して、2人を招き入れて茶を用意した。

 ゆっくりしてくださいね、と言ってエリナが出した茶を飲んでいると、ニナも、ジョナサンも落ち着いてきた。

「……エリナ・ペンドルトン様。とても、素敵なお嬢様ですね」

 ニナはエリナが退室したあと、扉の向こうを見ながらそう言った。ニナとエリナは、おたがいの名前は知っていたが、会うのは初めてだった。
 ニナは7年前の夏、ジョナサンが嬉しそうな顔をしてよく町に出かけていったころに、彼が町の子と遊んでいることは察していた。でも、いつまで経ってもジョナサンが誰と遊んでいるのかを話してくれないので、こっそり家政婦に尋ねていたのだった。ジョナサンは、ジョージやニナに自分の好きな女の子のことを話すのが恥ずかしくて、聞かれれば答えたかもしれないが、自分からは何も言っていなかった。エリナは、ジョナサンがよくニナというガヴァネスの話をするので、名前だけは知っていた。

「うん。とても……良い子なんだ」

 ジョナサンは、ほんのりと赤くした頬を触りながら答えた。

***

 茶を飲み干したあとも、ニナとジョナサンはしばらく無言でいたけれど、目の腫れがひいてきたジョナサンは、ぽつりぽつりと、7年前からいままでのことを話し始めた。学校のこと、クラブのこと、大学のこと、考古学のこと。休暇中のことも、夜会のことも。ニナにたくさん送った手紙に書いていたことから書ききれなかったことまで、いろいろなことを話した。でもその話に、ディオは出てこなかった。ニナは、ディオが死んだということしか知らなかったけれど、ジョナサンが意図的にディオのことを口にするのを避けているということに、すぐに気がついた。嫌な予感が、ニナの背筋を駆けていった。

「……それでね、父さんも、入院は嫌がったんだ。……ほら、父さんは、ジョースター家の男はみんな身体が強いことが、誇りだったから」

 この秋からジョージの体調が悪化したということまで話したジョナサンは、またしばらく口をつぐんだ。ニナは何も言わず、その続きを待っている。

 「…………ディオの……」ジョナサンは小さな声でそう言ってから、一度深呼吸をした。「……ディオの父上のブランドー氏が、亡くなる前に父さんに手紙を書いていたんだ。ぼくはそれをたまたま見つけて、読んでしまった。……そこには……父さんと同じ症状に苦しむ様子が書かれていた。……ぼくは、父さんの病気も、もう回復が望めないのかもしれないと思って、……ディオにそのことを尋ねようとして……あの夜、ディオのもとに急いだら、見てしまったんだ。……ディオが、自分が用意した薬と、父さんの薬とを、入れ替える瞬間を」

 それを聞いて、ニナは目を見開いた。「そんな、そんなことが……」と、思わず口にした。

「……ニナ、君はあのとき、『ディオを見放さないでいてほしい』と、ぼくに言ったね。……でも、結局……ディオを、…………ディオを、こちらに繋ぎとめておくことは、できなかった」

 ジョナサンは顔を両手で覆うと、俯いて、ごめん、ごめんね、と何度も呟いた。ニナはうなだれるジョナサンの肩を抱き寄せた。

「……ジョナサン様が、謝ることではないのです。わたくしが、ディオ様のそばに……いられたなら、違う結果になっていたかもしれません。謝るのは、わたくしのほう。いままで会いに来られなくて、ごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい」
「ニナ……」

 ジョナサンは、頬と頬がくっつくほど近くにいるニナを見つめた。小さいころ、こうして肩を抱かれながら、いろいろな話をしたことを思い出した。こうしていると、少しずつ、重たい気持ちが軽くなっていく。不安と恐怖と緊張ばかりだった心に、明るくて温かい光が差してくる気がする。

「いいんだ。それよりも…………会いに来てくれてありがとう、ニナ」

 ジョナサンがそう言うと、ニナは泣きそうな顔をして、ジョナサンの瞳を覗き込んだ。燭台に照らされる部屋で、ジョナサンの夜明け色の瞳と、ニナの海と大地の縮図のような瞳が、合わさった。ジョナサンは、ニナを近くで見ると、彼女が7年前と変わらずに、瑞々しい若さを保っていることに驚いた。

「父さんは、もう、いないけれど……君が変わらずいてくれて、良かった。良かったよ、ニナ」

 ジョナサンの瞳からは、一粒雫が流れて、落ちていった。


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