21


 ──肩が、腕が、痛い。こんなに身体が痛いのはたぶんあのとき以来だ。
 ディオは呼吸を乱して傷を負った箇所を手で押さえながらそう思った。あのときのことはいまでも憎々しい感情とともに覚えている。酒場で大人相手にカードゲームをしたときのことだ。あらかじめ、ゲームの観客のなかに協力者を仕込んでいおいて、相手のカードの情報をこちらに流させていた。しかし運悪く、相手が少しは頭の切れる奴だったから、イカサマに気がつかれてしまったのだ。もう少しで負けそうだった相手は怒り散らかして、酒場の主人や客たちが止めるのも聞かずに、力一杯ディオを殴って蹴った。いま思えば、あのときも骨が折れていたのだろう。医者にかかる金なんてなかったけれど、骨が折れたときの処置法は本で読んで知っていたから、なんとか自力で治した。

 ディオは、落ち着かない気持ちをなだめるために酒を飲みながらリバプールの港町を歩いていたところまでは覚えているけれど、そのあと浮浪者のような男に石仮面を被せるまでの記憶がはっきりとしない。しかし血を浴びた石仮面が男の顔面で燦爛たる光を放ったことで意識が覚めて、そのあとの信じられない光景の連続は、はっきりとディオの記憶に刻まれた。この、懐の下に忍ばせた石仮面は、自然を超越した力をもっている。自然を超越した力を、人間に与えるのだ。だからジョナサンにはもうこれを使えない、ジョナサンは、どうにかして別の方法で殺すしかないと、ディオは考えた。
 ディオは朝日が昇ったあとに医者にかかって左腕の処置をした。医者は、どうしたらこんなにひどく鎖骨を砕けるのかと驚いていたが、ディオはただ犬に襲われたのだと言った。犬はもう始末したとディオが言うと、医者は信じられないと目を見開いたが、ディオの放つ有無を言わさぬ感じに圧倒されて、もうそれ以上何も言わなかった。
 そのあと痛み止めの薬をたくさん飲んで宿屋や食堂など場所を転々として休んでいたら、もう陽が沈むころになった。気は重いが、ジョースターの屋敷に戻らなければと、ディオは歩き出した。そろそろ、ジョナサンがリバプールに戻ってくるかもしれない。ただし、ジョナサンが生きていればの話だが。

 屋敷の正面の扉を引くと、ぎいという音が、いつもよりも重々しく感じられた。ディオは、ジョナサンに追い詰められていることを自覚していた。ロンドンに向かったジョナサンに、毒薬の出所を突き止められてはいけないのだ。あの東洋人は、副作用が指摘されている数種類の漢方の、しかもその一般的な許容量を遥かに超えた量を買っていたディオの顔を──特にこの耳にある3つのホクロを覚えているに違いない。それに何より、ディオがその東洋人の店を訪れたのは初めてではないのだ。いつかまた必要になるかもしれないと思ってそうしなかったけれど、こんなことになるならあの店主も消しておけばよかった──そこまで思ってディオは、まるで終わりの見えない坂をひたすらに滑り落ちていくように、どんどん目的のためなら人を傷つけることを、殺すことさえも厭わなくなっている自分に気がついた。でも、もう立ち止まることはできないのだともわかっている。一度その坂を滑ってしまえば、もう落ち続けるしかないのだ。それに──「立ち止まる気なんて、まったく、ない」。ディオはそう呟いた。その呟きが静かな空気に響いてから耳に戻ってくると、この坂を滑り落ちていくことが、とても楽しいものだと思えた。もう、先の見えない暗闇へ落ちていくなかで、人を傷つけることが悪いことだという観念はどこかで捨ててきたし、暗闇が怖いだとかいう感覚も、ない。ディオは、罪の感覚や怖いという感情を覚えることがなくなっていた。酒を飲んだ時に得られるような、あの開放感、高揚感、些細なことを気にしなくなる、大胆な気持ちばかりが心の中で主張して、いままでやってきたこと、これからやろうとしていることの意味や価値なんて、もうどうでもいいのだと思える。

 ディオはいつも正気であるつもりだったけれど、そもそも正気というものがどのようなものだったかも忘れてしまった。いつから自分がこのようになったのかも、わからない。母が死んだあの日かもしれないし、みっともなく酒に酔った父に殴られ続けたあの日々のなかでだったかもしれない。父を殺すと決めたあのときだったかもしれないし、父が実際に死んだあの日だったかもしれない。ジョナサンと大喧嘩したあのときだったかもしれないし、ダニーが死んだあの日かもしれない。ジョージの小指に光る指輪に気がついたあの瞬間かもしれないし、その指輪を川に投げ捨てたあの瞬間かもしれない。これまで生きてきたなかで、何回も、何回も、坂を滑り落ちる感覚がしたのは覚えている。でもいつからか、この坂を滑り落ちていくことこそが自分の人生なのだと──いや、滑り落ちているのではない、このおれが、自ら坂を下ってやっているのだ、人々にとっての暗闇を自ら選んでやっているのだと、思うようになった。そう思うときの不思議な高揚感は、善悪の基準や罪の観念や恐怖の感情といったものを覆い隠して、ただ自分の欲望のままに生きることを肯定する。いままで味わった惨めさ、悔しさ、憎しみ、そういったものは全部無駄ではなかったのだと、思わせてくれる。全部理由があったのだ、いままで散々この世の不条理と悲惨と憎悪に苦しんできたのは、これからすべてを支配し得る力を獲得するためだったのだと、思わせてくれるのだ──だから、もう戻らない。おれは、戻らない。

 屋敷に入ると、もう灯りをつける時間帯だと言うのに、エントランスホールも階段上も暗いままだった。

「どうした執事?! なぜ邸内の明かりを消しているッ!」

 そう声を荒げると、マッチをこする音が聞こえたのちに、ぼんやりとその明かりがジョナサンを照らした。ディオの顔には、背には、冷や汗が伝った。計算よりも早い到着だった。お互い沈黙のまま、見つめ合う。「帰ってたのか、ジョジョ」先に口を開いたのは、ディオだった。ジョナサンはその呼びかけに応えることなく、ディオを真直ぐに見つめた。

「……解毒剤は手に入れたよ。……さっき父さんに飲ませたばかりだ」ジョナサンはディオの返事を待つことなく、続ける。 「……つまり証拠をつかんだということだよ。残念だよ、ディオ……。本当に、……わかってもらえないかもしれないが、これは本心だよ……ディオ」

 ジョナサンは抑揚なく、目の奥を痛ませる涙を堪えて、ディオにはそう悟られないようにして、淡々と述べた。ジョナサンの言葉に対して「何を言っているんだ」とディオは思ったけれど、言わなかった。──本当は父親を殺されそうになって、自分の地位を脅かそうとしたこのおれを、死ぬほど恨んでいるくせに!──その思いを隠して、ディオは「その気持ち、君らしい優しさだ。理解するよ」と答えた。
 ──ジョナサンに追い詰められている。しかし、なんとかこの状況を乗り越えなければならない。幸い警察は到着していないようだから、まだ手の打ちようはある──「時間をくれないか」。ディオはそう言った。

「ジョジョ! ぼくは悔いているんだ、いままでの人生を!」

 ──まだ勝機はある。まだ、……まだ、巻き返せる。ジョナサンを殺しさえすれば──

「貧しい環境に生まれ育ったんでくだらん野望を持ってしまったんだ! バカなことをしでかしたよ、育ててもらった恩人に毒を盛って財産を奪おうなんて!」

 涙が頬を伝う。あと一押しだ、あと一押しで──

「ジョースターさん、気をつけろ! 信じるなよ、そいつの言葉を!」背後から知らない男の声が聞こえて、ディオの言葉はそこで途切れた。

「ジョースターさん! 甘ちゃんのあんたが好きだからひとつ教えてやるぜ! おれぁ生まれてからずっと暗黒街で生き、いろんな悪党を見てきた! だから悪い人間といい人間の区別はにおいでわかる!」

 スピードワゴンと名乗った男はジョナサンの隣に、彼を守るようにして立つと、燭台を蹴ってディオにぶつけた。

「こいつはくせえッー! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッ! こんな悪には出会ったことがねぇほどになァ! 環境で悪人になっただと?! ちがうねッ! こいつは生まれついての悪だッ!」

 スピードワゴンは、ディオが口を挟む隙は決して与えんとするように、そう大声でまくしたてる。そしてカーテンがひかれていた廊下の先から、あの東洋人の店主を引っ張りだしてきた。

「ディオ、この東洋人が君に毒薬を売った証言はとってある」

 そうジョナサンが言うと、カーテンが開いて、何人もの警察が姿を現した。ディオは、目まぐるしく変わっていく状況に、巧い言葉で口を挟んで優位を確保することもできなかった。そして、警察の並んでいるなかにジョージがいてこちらを静かに見つめていること気がつくと、顔がぴくぴくと痙攣するくらいに強張って、心臓はばくばくと音を立てて苦しく、額からは汗を流した。──これだけは、あってはならなかった、ジョージ・ジョースター、あなたに露見することだけは──「ディオ、話はすべて聞いたよ……」ジョージはまだ回復していない身体で立ち、ディオに静かに言った。
「息子が捕まるのを見たくはない」。そう言って踵を返したジョージの瞳は、声は、ディオに対する諦めを示していた。ジョージのあの目はもう二度と自分を映すことがないのだ、あの声はもう二度と自分の名を呼ぶことがないのだと理解すると、ディオは息ができないほどに苦しかった。そして、計画のすべてがここで破綻したのだと悟った。もうどんな言い訳も、償いも、通用しないのだ。

 ──どうしてこうなった? おれはただ……ただ、ジョージ・ジョースター、あなたを越えたかっただけで……おれは……。……どうして……どうして、おれには、こんな人生しかないのだろう。おれが何をしたっていうんだ。「生まれついての悪」? 部外者のおまえに、おまえたちに、何がわかる。おまえたちは、自分の父親に殴られ続けて、殺されそうになったことがあるのか? 生きるために盗んだだけなのに、三日三晩血の小便が出て止まらないくらい、ひどく蹴られたことがあるのか? 野良犬の餌以下の食べ物しかなくて、ほんのちょっとの薪もなくて、飢えと凍えのどちらで死ぬだろうかと考えたことがあるのか? おまえたちに、何がわかるんだ。おれの苦しみの、何がわかるんだ──。

 怒り、悔しさ、そして誰に対するものかもわからない憎しみの火は、ディオの心の底で、轟々と燃え盛る炎となった──もう……もう、どうだっていい。いままで生きてきたことに、意味なんてなかった。なかったんだ。

「ジョジョ……人間ってのは、能力に限界があるなぁ」ディオは手錠をかけてくれと頼んだその口に、微かな笑みを浮かべた。

「おれが短い人生で学んだことは……人間は策を弄すれば弄するほど予期せぬ事態で策が崩れさるってことだ!…………人間を……人間を超えるものにならねばな……」

 ──思えば、ジョースター家に来たときから、おれの計画は変更ばかりだった──ニナ・クラーク、あのひとも、ジョージ・ジョースター、このひとも。結局手に入らなかった。おれが本当に欲しかったものは何にも、手に入らなかった。

「何のことだ? 何を言っているッ!」ジョナサンは、声色の変わったディオを見て焦った。
 ──でも、もう、いいんだ。こんな「人生」は、もういらない。ディオは懐から、石仮面とナイフを取り出した。

「おれは人間をやめるぞ! ジョジョーッ!」

 そう叫んだディオは、笑っていた。


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