20


 ジョナサンはオウガー・ストリートまでやってくると、御者が止めるのも聞かずに馬車を降り、その先へと足を踏み出した。馬車から出た途端、強い風が頬を凍らせるように吹いてきた。

 リバプールと同じく、ロンドンにも早めの雪が降っている。この町に並ぶ家屋の中には灯りがついているものもあるが、建物の壁や窓や扉は割れていたり傷ついているものも多く、この凍えた風がそれらをがたがたと揺らしている。家々の屋根はうっすらと白くなり、頻繁に吹く強い風がそれを飛ばしてはまた積もる。ごうごうと家屋の合間を縫って吹いてくる風は腹の底に響くが如く轟いて、一人として出歩いている者はおらず、時折ただ遠くで犬の吠える声が聞こえてくる。
なんて寂しいところなのだろうとジョナサンは思ったけれど、それでもここで引き返すことなどできるわけがない。御者は「ジョースターさんの行くようなところじゃねぇんです」と言うが、ジョナサンはそれでも行かなくてはならない、行く理由があるのだと、自分に言い聞かせるようにして答えた。

 リバプールからここまでの道のりを馬車に揺られながら、これから自分がしようとしていることがどんな結果を生むのかを考えて、ジョナサンは胸の潰されそうな思いがしていた。このままロンドンでディオが毒薬を入手し父に飲ませていたという証拠と解毒剤を得たなら、ディオが相応の罰を受けることになるというのは確実だ。その罰がどの程度のものになるかはわからないけれど、殺人未遂という罪は彼の今後の人生のほとんどを奪うことになるということは、ジョナサンにも容易に想像できる。ジョースター家からの援助は当然断ち切られ、他の貴族からの援助も期待できるはずがない。自身の家族もいないディオは、もし罪の償いが終わったとしても、きっともう思い通りの人生を歩むことはできない。
 ジョナサンは、これまでのディオとの「偽りの友情」を思い出すと、虚しくて、悲しくて、どうして、君はどうしてこんなことをやってしまったんだと彼を猛烈に責めたいのになぜだか責めきれなくて、苦しくなった。ディオが父を殺そうとしたのは、おそらくジョースター家の財を思い通りにするためだということまではジョナサンにもわかる。けれど、どうしても納得できないのは、父を殺す以外にも方法はあっただろうに、ということだ。父を殺さずとも、父が寿命でこの世を去ったあとにどうにでもできただろう、だって相手はこのぼくだ、ぼくなんかより明らかに君のほうが頭がいいし、人付き合いも上手いし、魅力的だ。君がそんなに地位や金が欲しいなら、ぼくだって少しは考えた。どうして何も言ってくれなかったんだ。君はいつだってそうだった、自分の言いたいことを綺麗な笑顔の裏に隠して、本気で人と関わろうとしない。どうして、そんなに自分から孤独を選ぶんだ。ぼくは、頭が良くて、社交的で、魅力的な君と……君と、仲良くなりたかったのに──ジョナサンはそのようなことを考えると、胸が苦しくて、涙が出てくるのを堪えねばならなかった。

 それから7年前にニナに託された願いを思い出して、彼女はきっとディオの性根をよく理解していたのだとも思った。彼の腹の底には実の父親への憎悪と他者を害することを厭わない「悪」が根を張っていて、それはそう簡単に取り除けるようなものでもないのだということを、ニナは知っていたのだ。あのときニナが言った「ディオを見放さないでほしい」という願いは、ただ単にダニーの死に関わったディオを許してやってほしいという意味ではなくて、「悪」の道へと歩んでいってしまいかねないディオを見守っていてほしいという意味でもあったのだ。そのことを考えるとジョナサンは、ニナとの約束を守れなかった自分を情けなく思うのと同時に、けれどディオの性根を知っていたなら、どうしてもっと自分たちのそばにいてくれなかったんだ、どうして7年前からこれまで一度も顔を見せてくれないんだと、彼女を恨む気持ちも出てきた。でもニナへの恨み言をはっきりと言葉にする前に、ジョナサンは、いいや、自分だって同じだ、だって7年前のディオとの大喧嘩以来、自分だって彼の本当の気持ちを本気で知ろうとはしてこなかったのだから、と考えて、自分で自分を叱りたくなった。

***

 オウガー・ストリートは複雑に入り組んだ路地が多く、気がつくとジョナサンはまた迷ってしまった。雪の下から飛び出してきた猫が子犬を捕食していたのに視線を奪われていると、どこからかジョナサンの跡をつけてきた男3人が襲いかかってきた。
 顔に刺青をした男が突き刺そうとしたナイフを手で受け止め、続いて拳法の構えをして跳躍した男を拳で張り飛ばす。残る1人はハットを変形させて、鋭い刃のついたそれをブーメランのように投げてきた。ばき、みし、という音を立てて、ハットはジョナサンの腕を骨まで切った。しかしそれでもジョナサンはひるまず、ハットの男に重い蹴りの一撃を入れた。男が飛ばされて倒れたのを見てジョナサンは腕に食い込んだハットを外した。あまりの痛みに歯を食いしばったが、それでも怯む様子を見せてはならないと思って、血の滴る腕を力を込めて押さえた。これで毒薬のことを聞き出せるかと思ったが、背後には新たな盗賊たちが来ていた。ジョナサンが身構えると、倒れていたハットの男がやめろ、と大声をあげた。

「やめろ、みんな! その紳士に手を出すことは……このスピードワゴンがゆるさねぇ!」

 男は雪と少しの血にまみれながら起き上がった。盗賊たちの動きは、スピードワゴンという男の大声を聞いて止まる。

「ひとつ聞きてぇ! なぜ思いっきり蹴りを入れなかった! あんたのその脚ならよぉ、おれの顔をメチャメチャにできたはずなのによォ!」
「…………ぼくは……」ジョナサンはスピードワゴンを真直ぐに見て答えた。
「ぼくは、父のためにここに来た……。だから蹴る瞬間! 君にも父や母やきょうだいがいるはずだと思った……。君の父親が悲しむことはしたくない!」

 そう言ったジョナサンの瞳は、先ほどまでの乱闘の際のものと変わらず静かで、けれど確かな決意に溢れていた。その目に射抜かれたスピードワゴンは、一瞬ジョナサンの言っていることが理解できなかった。いままでロンドンの裏側で生きてきたなかで、こんなに上等な身なりをしている者が、このような態度を示したことなんてなかったからだ。この若い大男は、自分を容赦なく襲った者にさえも慈悲を示すというのか。自分たちのようなこの世の掃溜で生きるしかないような者に相対してもなお、己の信念を貫くことができるのか。
 信じられない。けれど、この青年の瞳が嘘や綺麗ごとを言っているのではないということは、確かだった。スピードワゴンの胸中には、「こいつは限りなく甘っちょろいやつだ」という印象が浮かんだけれど、それは不思議と不愉快なものではなかった。このような貴族が、紳士が、この世にいたのだ。そして、自分は出会って、知ったのだ。生まれや育ちが違ったとしても、「人間」として対等に向き合うという意志が、覚悟が、どれだけ気高いもので、どれだけ輝いているものなのかを。

 闇夜に雪は降り積もって、冷たい風が頬や指先を凍らせるようだったけれど、スピードワゴンには目の前の青年の顔が、瞳が、暖かい灯台の光のように感じられた。
 ややあってから、スピードワゴンは口を開いた。

「……あんたの名前を、聞かせてくれ」
「ぼくは……ジョナサン・ジョースターだ」

 ジョナサン、ジョースター。
 甘っちょろくて、喧嘩なんて素人で、向こうみずなこの青年のことがもっと知りたい。その輝きを、もっと見せてほしい。スピードワゴンは口の端の血を拭って、ジョナサンに言った。

「東洋の毒薬を売るヤツを探していると言ったな! 気をつけな! ヤツはこずるいぜ!」
「……! 知っているのか?」
「腕の手当てをしなよ。このスピードワゴンが店まで案内してやるぜッ!」

***

 リバプールの港の船たちは寝静まり、海から吹いてくる寒風が街を冷やしている。そこをふらふらと歩く人影はディオだった。ジョナサンに自分の企てを悟られてから、彼を石仮面を使って殺害するという方法を思いついたはいいものの、ジョナサンがロンドンから帰ってくるまでの間屋敷でただ待っているには気が落ち着かなかった。だから普段は絶対にしないことだけれど、いまディオは酒の力を借りて気を紛らわすことしかできなくて、でも酒にみっともなく溺れては暴れた父親と同じようなことをしている自分に苛立っている。その苛立ちを抑えるために、また酒を浴びるように飲む。ディオは足取りが覚束なくなるくらい酒を飲んでいた。

「気をつけろィ! どこ見て歩いてんだこのトンチキがッ!」

 だから目の前に歩いてきていた男たちに気がつかなかった、というよりも、気にしなかった。その結果、ぶつかった。

「おい相棒! おれの上着にあのガキの小便のシミがついていねーか見てくれ!」
「ギャハハハッ! こらァ聞いてんのかァ! ケツの青いガキがよォーッ!」

 ディオの耳には雑音が聞こえてきた。目の前で動く影が、何だか意味のわからないことを言っている。意味はわからないが、不快であることだけは確かだ。うるさい、この雑音を消してしまいたい、何だっていい、この不快なものを壊してしまいたい。

 瓶の割れる音と、何かが砕ける音がして、次に聞こえてきたのは「ぶっ殺してやる」という怒声だった。

「ぶっ殺す」。その言葉を聞いた瞬間、ディオは心のなかで何かのたがが外れるような心地がした──あの汚くて暗い路地で、誰かの懐から見えている財布に手を伸ばしたとき。どうしても腹が空いてしょうがないので、屋台の片隅でこっそり食べ物を盗ったとき。酒場でみっともなく酔っ払った大人と勝負して、負かしたとき。人は頭に血が上ると、ときたま「ぶっ殺してやる」と自分に言ってきた。汚らしく唾を飛ばしながら、たるんだ額を押し上げて、「ぶっ殺してやる」と怒声を浴びせることの醜さを、ディオは思い出した。

 ──許さない。絶対に許さない。
 ディオは上着の裏から石仮面を取り出した。


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