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 「ディオを見放さないでほしい」。
 ニナは7年前、ダニーの死の真相を知ってもなおジョナサンにそう頼んだけれど、ジョナサンはこの7年間一度も、ディオを見捨ててしまおうかと思う瞬間などなかった。
 ディオを見捨てるも何も、あの大喧嘩以来ディオは打って変わって自分に何の悪意も向けてこなくて、それどころか彼は自分と仲の良い義兄弟たらんと本気で思っているようにさえ見えたからだ。パブリックスクールでも、ジョースター家のことを聞かれればディオは必ず、ジョージに拾ってもらって感謝している、ジョナサンはとても良いやつだ、家族ができて幸せだと言ったし、その言葉に違わず、3人で過ごすときディオはいつも綺麗な笑みを浮かべて、冗談を言い合ったりさえしていた。

 それなのに、彼の綺麗で整った笑顔からは、ある一線を超えて理解し合おうという気概を感じることも、一度としてなかった。ディオは、ジョージやジョナサンに負の感情をぶつけてくることもなければ、自分の意見を通そうとすることもない。「雨のあとには良い天気がくる」と人は言うけれど、ディオとの関係の場合、そもそも雨さえ降らないのだ。
 ジョナサンにとってディオとは、まるで綺麗だけれど底の見えない湖のように、一見魅力的だけれど近づきがたく、一度嵌ればきっともう無事では戻って来られないような、危うさを感じさせる人物だった。けれどジョナサンは、その危うさを具体的に言葉にすることはできなかった。これは、7年前あれだけの仕打ちをされたジョナサンだからこそ本能の部分で感じ取ることはできる、という程度のものでしかなく、当然ジョージにも友人にもこの感覚を伝えることはできなかった。
 ディオから受けるこの薄寒い感覚は、きっとただの思い過ごしだ、ダニーのことだって勘違いだ、ニナでさえ何か勘違いをしてしまったんだ。あの大喧嘩から年数が経つほどに、ジョナサンはそう思うようになった。

 しかし、人間が時折感じる「言葉にできない予感」は的中することがままある。そして今回は、ジョナサンの本能は間違ってなどいなかった。
 スクールを卒業して、法律上財産を自由にできる年齢まであと2年となった頃、ジョージの正式な養子となったディオの「計画」は、ついに動き出していたのだ。

***

 ジョナサンが書庫を出て急いでディオのもとへ向かったころ、ディオは自分の「計画」の、数回目の実行をしようとしていたところだった──風邪をこじらせたジョージに「薬」を飲ませるという、父に対して行ったのと、同じ行いを。

 ただしディオは、最初からジョージに対して父と同じような方法を使って死を操作しようと考えていたわけではない。それどころか、ディオが正式な養子となることを提案されるまでは、ジョージをどうにかしようという考えすらなかった。というのも、自分がただのジョースター家の居候ならば、ジョージを操ることができたとしても、その後継のジョナサンの差配一つで自分の処遇が決まってしまうからだ。
 ディオがこの国のコモン・ローを勉強するなかで確信したのは、ジョースター家の財を最終的にジョナサンから奪い実権を握るためには、ジョナサンがジョースター家の運営に、ひいてはイギリス貴族にふさわしくないという事実を作り上げるしかないということだった。ジョースターを名乗るのはジョナサンだとしても、その実すべてを操っているのは自分であるという状況を作るために、ディオの企てには、ジョナサンを徹底的に腑抜けにして、「やむを得ず」ジョージにジョナサンを見限らせて実権を握るという道筋が描かれていた。

 しかしスクールと大学でジョナサンと生活をともにしたディオは、その「計画書」を少し変更することになった。それはひとつに、ちょっとやそっとじゃジョナサンを腑抜けにすることはできないということがわかったからだ。ジョナサンは、成長とともにその大きな身体だけではなく心までも、図太く、硬くなっていっている。しかも、ディオには理解し難いことだったけれど、ジョナサンはジョージとの間に到底切れそうにない信頼関係を結んでいる。それがわかり始めたときディオは、ジョナサンを腑抜けにするにはまずジョージをどうにかするしかないと考えた。

 その考えは、ジョージがディオを正式な養子としたころに確かなものになった。ディオがジョージの養子となったことで、ディオは何もしなくてもジョージの死後にはジョナサンと等分した遺産が手に入る。しかし、ジョージは死ぬ前に家督をジョナサンに譲るだろう。それではディオの気は休まらなかった。ジョースター家を裏で操るだけではなく、ジョースターの名を、名実ともにジョージの後を継ぐのは自分がふさわしいのだと、ディオは思うようになっていたのである。

 しかしこのままではジョナサンがその立場にいるので、ジョージがもっと歳を取れば、自ずとジョナサンが実質的な家長になってしまう。ジョナサンに結婚などされて、子どもが生まれでもしたらいよいよ自分の出番はなくなる。だから大学を卒業して数年のうちが「好機」だった。
 いますぐジョージから貴族としての地位と仕事を奪うには、彼に汚名を着せてこの貴族社会から追放すればいい。そしてそのあとなら、ジョナサンの実権を思うままに奪える──そのような手も、考えなかったわけではなかった。けれど、ジョージの左手の小指に光る指輪を見るたびにディオは、そのような手は取りたくないと考え直した。ジョージを強制的に隠居させたとしたら、そしてそのあとジョナサンから家督を奪ったとしたら、ジョージはきっと自分を憎み、養子にしたことを後悔するだろう。このような未来を、ディオは避けたかった。
 そうしてディオが辿り着いた結論は、「ジョージの命を、この手で終わらせる」ということだった。ジョージの死を、自分がもたらすのだ。父を葬ったのと、同じ方法で。

 ──ジョージ・ジョースター、あなたは、おれを信じたまま死ぬんだ。おれのことを、ジョナサンと同じ、「愛する息子」として信じたまま、死ぬんだ。そうしておれは、あなたのやってきたことを全部引き継ぐ。あなたがやってきた事業も、大事にしてきた家も、土地も、使用人も、すべておれのものだ。おれは、あなたを超える。あなたよりももっと財を広げ、ジョースターの名声を高めてやる──。

 このように「計画」の最終決定を下したとき、ディオの心には不思議な高揚感が浮かんできた。実の父を葬った日から自分の背に纏わりついて離れない死神が、再び「父」を殺すことになるのだと思うと、何故だかとても楽しいような、愉快が過ぎてぞくぞくとするような心地さえして、ははは、と吐息の混ざった笑い声が出てきた。けれどその顔には、口元は笑っているというのに、眉は下がって目からは雫がこぼれそうな、奇妙な表情が浮かんでいた。

 そうやってしばらく笑っていたけれど、自分の眼前が雫で霞むのが、愉快で愉快でたまらないからなのか、それとも何か別の理由があるのかが、結局ディオにはわからなかった。

***

 ジョナサンはそれを見た瞬間、まるで突然世界のものすべてがゆっくりと動き出して、自分の意識だけが先に行っているのではないかという感覚がした。嘘だと思いたいのに、自分の目は嘘を映していない。この目は、確かに捉えてしまったのだ。ディオが、トレイに載った薬と、自分の懐から取り出した薬とを入れ替えた瞬間を。
 ──ぼくはただ、父さんと君の父上の病が同じなのか確かめたかっただけだったのに──その疑念は、もっと恐ろしい事実を運んできてしまった。

 父にかけて身の潔白を誓ってくれとジョナサンが言うと、ディオは声を荒げた。

「あんなクズに名誉などあるものかッ!」

 その叫びには、ジョナサンが7年前の大喧嘩で見て以来の、いやそれよりも、動揺のなかに計り知れない憎しみが込められていた。ジョナサンはディオの声ばかりがどんどんゆっくりになっていくように感じられた。
 ディオは、身の潔白を証明しこれからの自分を守るためにすら、父親への思いに嘘をつけないのだ。その憎しみはどれだけ根が深く、燃え盛っているのだろう。ジョナサンは、初めてディオの心の底を見た気がした。

「ジョジョ! 薬を戻せ! そして手紙を渡すんだッ!」

 ジョナサンの脳裏に、これまでのディオとの思い出が次から次へと蘇ってきて、ディオが怒鳴る声がどんどん遠くなっていく。世界の動きに対して、意識だけが速度を上げていくような感覚がする。
 7年前のダニーの死、これまでのディオとの空虚な友情、薄寒いと感じたディオの笑み、ジョージの病、ディオの父ダリオが遺した手紙という点と点は、ディオの抱える計り知れない憎しみによって結びつけられ、ディオへの嫌疑がついに一本の線となってしまった。

 ──あぁ、ニナ。あなたがいまここにいたら……あなたはどうしただろう。優しいニナ、あなたはあのとき、ディオを見捨てないでとほくに言った。けれど、もう……ぼくは、約束を守れそうにないよ、ニナ。ぼくは……ぼくは──

「ぼくは父を守るッ! ジョースター家を守るッ!」

 ──ごめん、ごめんね、ニナ。
 ジョナサンは、ディオの腕を目一杯の力で締め上げた。


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