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 1888年の初夏は、例年よりも涼しい日が多い季節となった。それがジョナサンとディオにとって幸いだったのは、2人が出場するラグビーのトーナメントの決勝戦が、その初夏に行われたからだ。ラグビーはまだ誕生して日の浅いスポーツだったけれど、周囲の青年と比べても圧倒的に体格の優れていたジョナサンと、足が速く周囲を見通す能力の高いディオが組んだことで、ヒュー・ハドソン大学のプレイスタイルは確立したようなものだった。決勝戦の最終局面では、やはりジョナサンがトライへの道筋を拓き、それを受け取ったディオが鮮やかにグラウンディングを決めて、優勝を飾ることになった。

 7月、ジョナサンとディオは大学を1年飛び級して、大学を卒業した。ジョナサンは学位論文に代わる学術論文をイギリス考古学の最新のジャーナルに載せることができたから。ディオは2年間で履修した法学がどれも1番の成績をおさめたからだ。
卒業後、ジョナサンはジョージの事業を手伝うかたちでジョースター家の次期当主としての訓練を開始し、ディオは法廷弁護士になるために法曹院へ進学することになった。法曹院はロンドンに所在をもつので、ディオは秋からまた寮生活だ。

 ジョージにジョナサン、そしてディオは、その夏の休暇にイングランドの南東部、保養地として名のあるブライトンに滞在していた。
 ブライトンは、もとは漁村だったのが18世紀には集合住宅の開発がなされ、イギリス王族がこの地にロイヤル・パビリオンを建造したのもあって、貴族の人気を集める保養地として成長した街である。ロンドンからも比較的近い位置にあり、1840年代にロンドンからの鉄道が敷かれたことで、ブライトンに訪れる貴族やジェントリ層は増えており、昼も夜も有閑と豪勢な休暇を享受する者たちが一堂に会する機会が多くある。
 ジョージはこれまでジョナサンとディオをイギリス貴族の社交界に参入させようとはしてこなかったけれど、2人が大学を卒業したことで、そろそろ時期がきた、と思うようになった。彼らがパブリックスクールを卒業したあたりから、夜会や晩餐会などでたびたびジョナサンについて尋ねられたし、ディオが正式な養子になってからは、学校で優秀な成績をおさめるディオのことも噂になっていると聞いていた。
 ディオはともかくジョナサンが社交界でうまく立ち振る舞うことができるかということにはやや不安があったが、とにかくまずはやってみることだと思って、ジョージは2人を社交界に参入させることにした。そこで、ある日の夜会への招待状に息子2人を連れて行きますと書いて返事を出して、ジョナサンとディオに、3日後の夜会に参加するから、出席者リストを見ておくようにと言った。
 ジョナサンは「ついにきたのかぁ」と呟いて、憂慮で顔色を暗くさせたが、ディオはいつもの余裕の笑みを浮かべて「わかりました」と答えた。

***

 ジョナサンの先案じに違わず、リバプールでのびのびと育ったジョナサンにとっては、夜会の煌びやかさは目に眩しすぎるものだった。
 すでに多くの着飾った老若男女が会場に着いて談笑しているなか、「ジョージ・ジョースター卿、ならびにその御子息、ジョナサン・ジョースター様、ディオ・ジョースター様」と名前が呼ばれると会場にいる全員がこちらを向いたとさえ思えるほど注目を集めたので、ジョナサンは息が詰まる思いがした。父親の横顔を見ると、心なしか彼もいつもよりは強張った顔をしている気がして、やはり父さんもこういう場は苦手なのだ、とわかって少し安心したかと思えば、隣にいるディオはまたいつものあの余裕な笑みを見せている。
 ジョナサンがディオの動じなさに感心させられていると、こちらに老紳士がやってきた。

「おお、ジョージ君。しばらくだったね」
「お義父さん。お元気でしたか」
「おじい様! こんばんは」
「こんばんは、ジョナサン。いやぁ大きくなったなぁ。最後に会ったのは君がまだスクールにいたころだったかな。私は変わらず元気だよ、ジョージ君。あぁ、彼がディオ君だね」

 老紳士がジョージと握手して、ジョナサンとハグをしている。ディオにとっては初めて見る顔だ。

「ディオ、君は会うのは初めてだったね。こちらはグレイ卿。ジョナサンの祖父、ジョナサンの母メアリの父君だ。いまはロンドンに住んでおられる」
「初めまして、グレイ卿。ぼくがディオです。ついにお会いできましたね」

 ディオがそう言ってグレイに手を差し出すと、彼は「ふむ、確かに」と言って齢の重ねた目尻を下げながら、握手に応えた。

「君が手紙に書いていた通りだ、ジョージ君。ディオ君は確かに素敵な青年だ。少し見ただけでわかるよ」
「ははは、そうでしょう、お義父さん」
「そんな、光栄です、グレイ卿」
「私のことはヘンリーと呼んでかまわないよ、ディオ君。君はもうジョースターの正式な養子になったのだからね。私の家族も同然だ」

 そう言って笑いながらディオの肩をたたくグレイを見て、ジョージはこの人も変わったものだ、と思った。20年以上前、メアリと初めて出会った夜会では、彼女を連れたグレイをイギリス貴族の誇り、自尊心、高潔といったものをよくその身に背負っている人物だと思ったが、この男も歳月とともに穏やかな気性になった。メアリとの結婚の許可をもらうまでの道のりは長く険しかったが、いまではジョナサンの成長を最も楽しみにしてくれている者のうちの一人だ。特に──メアリが亡くなってからは、よくこちらを気にかけてくれるようになった。数年前からほとんどの仕事をメアリの兄に任せるようになってからは、悠々自適な老後を過ごしていると聞く。昔だったら、ディオが労働者階級の出だと聞けば眉を顰めただろうに、いまは好意的な眼差しを向けている。それはこのディオという青年が、一目見ればわかるよく洗練された振る舞いと、ちょっと話せば伝わってくる確かな教養をもっているということもあるだろうが。

 そのあとも、ジョナサンとディオはグレイの紹介で、伯爵、子爵の夫妻や、ジョージの紹介で最近貿易の家業をもつジェントリ層の夫妻やその長男にも挨拶してまわった。そうしているうちに時間は過ぎ、もう新たに夜会の参加者が登場することがなくなってきた。
 ジョナサンはもうすでに、まるで論理学の難しい問題を考えたあとのように顔が暗くなってきている。まずそもそも、このテイル・コートがジョナサンにとっては窮屈だ。首元がきっちりと締まっているし、ホワイトタイまで巻かれているから緩めることもできない。もちろんオーダーメイドで誂えたものだからコートやシャツのサイズはぴったりだけれど、立つ、歩く以外の動作をしようとすればあまり余裕のない肘や膝が締め付けられる気がする。男性でこれなのだから、女性のあのこれ以上ないくらい細くなったコルセットはいったいどれだけ苦しいのだろうと考えると、ジョナサンはますます窮屈になった。

 ──そういえばニナはコルセットが嫌いだと言っていたな。ジョナサンは、髪に咲き誇る本物のような花びらや、シャンデリアの光を受けて耳にきらきらと輝く真珠や宝石を見て、ニナがこんな格好をしていたあの小さな晩餐の夜のことを思い出した。
 ニナは、彼女と同年代の女性がきゃあきゃあと喜ぶようなレースや宝石にはあまり関心がなかったと、子どもだったジョナサンにもわかるくらいだった。ジョナサンは周りにいる豪勢な格好をした女性たちを見て、ニナならこのような格好は似合うだろうと確信しつつも、でも自分を着飾るよりも読書や動物の観察をしたり、小説の感想を言ったりしているニナのほうがずっと魅力的だった、とも思った。母親とともに育ってきたのではないジョナサンにとって、「一般的な女性」というものがどのようなものなのかはよくわからなかった。だから、ニナという女性のありかたが一つの基準になっていた。

 ニナはいまどうしているだろう。彼女からの手紙は途絶えたことがないけれど、7年前、ガヴァネスを辞してからは、彼女がリバプールを訪問したことは一度としてなかった。ニナが自分と同じく考古学の事業に携わっていることは知っているが、きっといまも忙しくしているのだろう。いままでは外国に一人で行くことができなかったので彼女のところを訪ねることはしなかったが、これからはメキシコだろうがローマだろうがどこでも行ってやる。またニナと、いろいろな話がしたい。ああでも、彼女はもう将来を約束した人がいたりするのかな。そうだとすれば、あまり気軽には訪ねてはいけないだろうか──ジョナサンは、そこらじゅうで異なる香りが衝突しあって、もはや何の匂いなのかよくわからなくなっている香水にあてられて、ぼうっとした頭でそう考えた。

 話しかけられても空返事ばかりになってきているジョナサンの横で、ディオはまだまだ、というか最初から変わらずずっと一定の調子を保っている。ディオにとって社交界というのは自分の外聞をコントロールする絶好の場だったし、ここで有効な人脈を広げることができればと、今回ジョージに夜会に参加することを言い渡されたときからある意味楽しみにしていたのだ。グレイやジョージに紹介されれば皆口を揃えて「あぁ、こちらがあのディオ君ですか」と言うので、どうやら自分がスクールと大学で常にトップの成績を保ち続け、品行方正、眉目秀麗な青年として振る舞ってきたのは無駄ではなかったらしいと内心でほくそ笑んだ。ただ一つ煩わしいと思うのは、紹介された夫妻のそばにはしばしば自分と同年代の令嬢が控えていることがあって、夫人が「ジョースター家の正式なご養子となったのですってね」と言いながら自分の娘をさらに紹介してくることがある、ということだった。

 ディオはもちろん煩わしいという本音が顔に出るのを完璧に防いで、その令嬢に慣れた仕草で綺麗な笑みを向けながら挨拶する。すると緊張した面持ちをした彼女らは、はっと息を呑んで嬉しそうな顔をする。ここまではまだいいのだが、夫妻が違う知り合いにご挨拶して参りますと言って、娘をおいてその場を去ってしまうと、いよいよ鬱陶しくなってくる。
 初心に顔を赤らめて黙ってくれるのならば、ディオもいくつかの適当な会話をして終わらせることができるのだが、娘が積極的に「ディオさんは、ご趣味はなにを?」だとか「ディオさんは、ご将来はどんなことをなさるおつもりですの?」だとか聞いてくると、もう早くどこかに立ち去ってしまいたくなるくらいだ。ディオは決してこうした異性との交流が苦手なわけではない。ただ単に、無意味だと思っているのだ。それは相手が異性だからという理由ではなく、己の人脈の拡張にとって優先されるべき相手は他にいる、という考えからだった。ご趣味はと聞かれて「哲学書を読んで、その解釈を語り合うことですね」と答えても、将来は何をと聞かれて「法廷弁護人になる予定で、そのために法曹院に進学します」と答えても、娘はたいがいの場合それ以上の話を続けようとはしない。「それなら今度私の読書会にいらっしゃいませんか」「それなら紹介できる人がいます」とでも言ってくれれば、まだ会話のしがいがあるものを。娘たちが広めてくれる外聞で役に立つものといえば、せいぜいディオの見た目が綺麗だとか、物腰が洗練されている、というようなことだった。これらのことは、まぁ外見が優れている伴侶を獲得するには役立つかもしれないが、ゆくゆくはジョースター家を我がものにする、もっと言えばイギリス社交界を支配するという野望にとってはまったくの力不足だ。ディオはそう考えていた。
 それに、娘たちとの「不毛な」会話は、かつてのニナとの「有益な」会話を思い出させるからますます嫌になる。ニナからはいまだに手紙がよく送られてくるし、自分もそれにときどき返事しているが、その度にディオは、手紙からでさえ彼女の教養の水準が「一般的な女性」とは異なっていたのだと気づかされて、驚くことだってある。スクールに通っていたときも、大学で法学を学んでいたときも、ある政治的事件や経済状況に対するニナの意見を求めると、いつも幅広い文献からの引用とともに、彼女自身の着眼点と考察が長い手紙に書かれて送られてきたものだった。それを読むとディオは納得させられることもあったし、新たなアイデアを得ることもあった。

 いつになっても、きっとニナよりも優れている女とはこの先出会わないのだろう。もう何年も顔を見ていないというのに、いまだにニナという存在は自身に大きな影響を与えている。自分の野望にとっては何の役にも立たないと、そう思うことにしたはずなのに、彼女が自分のそばにいたなら、もっと愉快なことが増える気がしている自分がいる。
「女のくせに」男と同じように政治的意見をもっていたり経済についてよく考えていたりするのはおかしい、「女というものは」もう少し控えめであるべきだ、などと言う者もいるが、ディオにとっては女だろうが男だろうが、とにかく頭が良くて同じ水準の会話ができるならそれで良かった。その点で、ニナという人物は相手にとって不足なしの、最高のパートナーになり得たはずだった。
 彼女が自分と同年代であったなら、せめてもう少し若ければ、無理矢理にでもそばに置くことができただろうか。家柄は良くても「不毛な」会話しかできぬ娘と結婚するくらいなら、中産階級でも「有益」なニナと、無理を言ってでも結婚したほうがいくらか良いような気さえした。

 ──このディオが、ここまで考えているというのに── ニナはここではない遠くにいて、しかもダニーの件を鑑みれば、もうきっと彼女は自分のものにはならない。その事実を思って、ディオは微かにため息をついた。

 気がつくと娘のもとには両親が戻ってきていた。ディオのため息に気がつかず、「お会いできて良かったです」と頬を染めて言う娘に、ディオも「こちらこそ」と微笑みを返した。


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