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 ジョージ・ジョースターに対して、ディオが初めて会ったときに抱いた印象は、「お人好し」だった。

 ディオが手紙を送ってすぐにジョージから、リバプールの屋敷へ来るように、君はわたしの命の恩人の息子なのだから、という返事を受け取ったディオは、彼がどのような人物なのかを想像した。ディオがこれまで父親以外に接する機会のあった年上の男といえば、新聞や日用品の配達のために短期的に自分を雇うことのある店主か、酒場でだらしなく酔っ払ってはチェスで自分に負けて悔しがる男たちだった。
 ロンドン駅付近の高級な品物ばかりを置いた店が並んだ通りで見かけるような、上質なコートを羽織り黒く光るハットをかぶった紳士は、ディオにとっては分断された先の世界に生きる人々で、しかしだからこそディオは泥水を啜る思いで、その紳士たちの振る舞いを見て学んでいた。
 自分を屋敷に迎えて、部屋や使用人の紹介をするジョージの身なりや振る舞いはあのとき何度も目にした紳士たちのそれだったけれど、いつまで経っても、自分に対して卑しい出自の汚らしい労働者階級の子どもだと侮る目を向けてこなかったから、想像していたのとはだいぶ違ったな、とディオは思った。そして、命の恩人の息子というだけで、ここまで様々な世話を焼こうとするジョージの第一印象を、「お人好し」だとしたのだった。

 ジョージの左手の小指に光る指輪に気がついたのは、まずは、そのサイズが、ジョージの太い指にはやや不釣り合いだと感じたからだった。
 ディオは特に宝石の類に興味があるわけでもなく、これから興味を持つ予定もなかったので、ジョージにそのサイズの合っていない指輪について聞くことはなかった。ただ、ジョージが普段から指輪を身につけているので、それが彼の執心の品だということだけはわかった。それだけを知ったあと、ディオはもうその指輪をまじまじと見ることもなかったので、指輪がどんなデザインをしているかなどは知る由もなかった。けれども同時に、同じようなかたちをした指輪を、そういえば父の遺品のなかに見つけたな、という記憶は掘り起こされた。しかし父に関わることは考えると不愉快なので、それ以上は思い出すことをしなかった。

 ジョージの指輪がディオの目に再び入ってきたのは、ディオがジョースター家の正式な養子となることが決まった年のことだった。
 1885年の夏、新学期が始まる前の休暇中に、スクールでの優秀な成績をおさめ、紳士としての知識と振る舞いを身につけたディオに、ジョージが、養子となることを提案したのだ。ジョージは、ディオが養子でなくても、大学に行く資金や将来の生業のための援助は惜しまないということを何度も言ってきたけれど、彼がこだわったのは、ディオに「家族」をもってほしい、ということだった。恩がある者と恩を返される者という関係ではなく、実質的にも、対外的にも、ディオに「父」や「兄弟」と呼べる存在をもってほしいと考えたのだった。
 ジョージは、何でも卒なくこなし、多くのことで人よりも優れていて、いつも魅力的な笑みをうかべるディオが、ときどき空虚な、この世界をつまらないものと思っているような表情をするのを知っていたから、思っていた──この少年に足りないものは、きっと家族というものなのだと。すぐには「本当の家族」になれないだろうけれど、時間をかければきっと、この少年の心に空いた穴を埋められる。ジョージはそう信じていた。

 しかし、その提案を受けたディオが感じたのは、困惑だった。
 ──ジョージ・ジョースター、あなたは、ただのお人好しではなかったのか。あなたは…………あなたは、馬鹿なんじゃあないか。おれは、ジョースター家を乗っ取るつもりなんだぞ。いずれジョナサンのやつを徹底的に再起不能にして、それ以外選択肢がない状態にしてから、ジョースターの財産をおれの支配下に置く、そういう計画を立てているんだぞ。それなのに、おれを養子にするなど、その計画をますます勢いに乗せる行為だ。あなたは、ジョナサンがどうなってもいいのか。ジョナサンの財産だけでなく、おれにジョースターの家督まで奪われてもいいというのか。あなたは……あなたは本当に、馬鹿なんじゃあないか。…………あなたは、ずっとそうだ……昔からお人好しで、いつも人を疑うことを知らずに……騙されているとも思わずに、おれのことを……。
 ディオはそう思ったけれど、それを口にするわけはなく、「光栄です、ジョースター卿」と言いながらいつもの魅力的な笑みをうかべて、養子となることを喜んだふりをした。
 けれどもディオは、内心ではジョージの考えていることがわからなくて、動揺していた。ジョージの度し難いほどの素直さ、裏表のなさ、人を疑ったり侮ったりすることのない、真直ぐさ。ディオがいままで出会った大人たちには、決してこのような人物はいなかった。だから、ジョージが何を考えているのか、どうしてそんなふうに自分に接することができるのかが、わからなかったのだ。

「良かった!ディオ、これからは……わたしたちは家族だ。ジョナサンと、君と、わたしで、家族なんだよ」

 顔を綻ばせて、大きな手でディオの手を包んで握って離さないジョージの目を、ディオは何となく直視することができなくて、視線を逸らした。するとその左手の小指にはめられたサイズの合わない指輪の、プラチナの上に輝く宝石が、美しいことに気がついた。

 それからしばらくしてディオは、かつて自分が質に入れた父の遺品だと思っていた指輪が、ジョージの指輪とそっくりなものであることを思い出した。

***

 ディオは店主に差し出された木箱を受け取り、指輪を取り出した。ずっと確信が持てなかったけれど、これは確かに、あのとき見たジョージの小指に光るものと同じだ。プラチナの輪に施された凝った装飾と、光をさまざまに反射して輝く宝石。5年前はもしかしたら必要になるときがくるかもしれないと思って父の遺した指輪を完全に手放すことはしなかったけれど、いまディオが指輪を手元に戻そうと考えたのも、別に必要になったからというわけではなかった。
 ディオは、指輪が必要になったのではなく、ジョージの指輪がこれと同じものかどうかを確かめて、そしてもし同じものだったなら、これを完全に消し去ろうと思ったのだ──この指輪も、彼の大きな手に輝く指輪が美しいと思った記憶も、彼が自分を家族だと言ったときの笑顔も、そのとき感じた自分の戸惑いも。

 ──ジョージ・ジョースター、あなたは、本当に、馬鹿な人だ。そんなふうだから、人につけ込まれるんだ。おれの父にも、…………おれにも。

 ディオは、指につまんだ輝きを見つめて、ふふ、と嘲るような笑みをこぼした。
 それから指輪を箱に戻し、利子とともに増えた返却分の金を取り出して、店主に渡した。5年前は指輪と引き換えに初めて多くの金を手にしたから、その重さに胸が弾んだものだったが、いまとなってはそこまでもの珍しい金額とは感じなくなった。あのときの自分を思い出して、ディオはまた笑いがこみ上げてきた。店主に礼を言うと、店を出た。

 揺れる馬車のなかで、ディオはひとり笑わずにはいられなかった。
 ──ここまで来たのだ。いまも脳裏に焼きついて離れない、あの醜悪な顔をした父親が死んだ日から。憎んで憎んで、絶対に許さないと誓った父親を、地獄に落とした日から。

 ディオは馬車の小窓からロンドンの街並みに視線をやると、なんと醜いことか、と思って顔をしかめた。上流階級の者は自分の出自と所詮親から受け継いだだけの財に慢心して、見てくれを整えることしか興味のないクズだ。労働者は自分の貧しさを受け入れて、そこから脱しようという気概もない、ただの怠け者だ。綺麗に整えられた街並みを歩く、肥えて頭の禿げた「紳士」たちと、臭いくらいの香水を纏って嫌味な視線を向け合う「淑女」たちと、そこから少し離れれば汚らしい身なりをして貧困にあえぐ痩せ細った「人間」がいるこのロンドンの街は、混沌としていて、矛盾に満ちていて、吐き気がするくらい、醜い。

 そう思っているというのに、ディオの口元は、ずっと笑っていた。おかしくも楽しくもないというのに、はははは、あはははは、と声を上げて、ずっとひとりで笑っていた。その声は乾いていて、空虚だった。

 ──でも、まだまだゴールじゃあない。おれの真の「計画」は、これからなのだ。

 ディオは、指輪が入った小箱を握り締めた。テムズ川の傍流の近くに馬車を止めるように言うと、馬車の扉を半分開けて、底の見えない淀んだ川に、それを投げ捨てた。


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