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 1886年の夏、ヒュー・ハドソン大学への入学を決めた2人は、5年間暮らしたパブリックスクールの寮と学友たちに別れを告げた。卒業証書、年を重ねるごとに増えていった書籍、すっかり大人と変わらないサイズになった衣類、それからジョナサンは鉱石や昆虫の採集箱を、ディオは大理石のペーパーウェイトや東洋風の意匠が施された小物入れを荷物に詰めて、リバプールに帰宅した。

 大学を見学した際に考古学を研究することを決めたジョナサンは、短い間でもできるだけ早く研究室に馴染みたいと言って、屋敷から馬車で1時間ほどかかる大学に、夏休みの期間だというのに毎日のように通っている。
 一方ディオも、大学が始まるまでの間、しばらくロンドンに滞在したいとジョージに申し出た。というのも、ロンドンの父母の墓と親戚や友人を訪ねるためと、ロンドンの書店を周って大学で使う文献を収集するために、ということだった。
 そんなわけだから今夏皆でバカンスに行くという計画は立つことがなく、ジョージは目を輝かせて出かけていくジョナサンや、すっかりイギリスのジェントルマンに遜色ない振る舞いを身につけたディオを見て、その成長が嬉しい反面、少し寂しくもあるのだった。

***

 大学の門が閉じている休日には、ジョナサンは研究と称して1日中自室にこもることがあった。気が散るからあまり入ってこないでくれとジョージや使用人にはあらかじめ言っておいて、その実、ジョナサンはあの石仮面をいじくりまわしている。それは、もう5年以上も前のことになるディオとの大喧嘩の際に、ジョナサンは確かに、自分が殴り飛ばしたディオの血が石仮面に付着して、仮面の縁から太い針のようなものが飛び出してきたのを見ていたからだった。
 ジョージはロンドンの骨頂品店でこのアステカ文明に関わる仮面を手に入れたと言っただけで、それ以上の情報は誰も何も知らなかった。だからこそジョナサンにとって、この石仮面の構造とその文化的背景を知ることで、自分の考古学者としての第一歩が踏み出されているように感じられた。いまはまだ仮面のスケッチをしたり、仮面の材質や構造を確認しているに留まっているが、大学で考古学の研究方法を専門的に身につければ、もっと多くのことが明らかになるだろう。ジョナサンは、それを想像するといつも心が躍り出すような楽しみを覚えた。

***

 馬車と鉄道を乗り換えてやっとロンドンに到着したディオは、駅近くの宿に入った。その夜を明かして次の日、父が死んで以来1回だけ、それも自分から申し出たのではなくジョージが行けというので訪れただけだった父の墓に、久しぶりに来た。金がなくて、たいした大きさにせずこれといった装飾もしなかった墓石には、これまでディオ以外に訪れる人がいなかったからか、周りにはずいぶんと雑草が生えて表面には苔が広がっている。それを取り払うこともなく、ディオは墓をしばらく眺めて、そこに立っていた。しばらくしてディオは顔を上げると、ふう、と一息をこぼして、墓地をあとにした。

 次にディオが来たのは、父の墓がある場所からは馬車で30分ほどかかる場所にある墓地だった。迷うことなくその墓地のある一箇所に向かうと、そこにある墓石には、ディオの母の名が刻まれていた。ディオは周りに伸びた雑草を屈んで抜き取っていって、そして懐から手巾を取り出して、墓石の表面についた汚れを拭いた。
 ディオは墓石をきれいにしたあとに屈んだまましばらくそこを見つめていた。そのうちに、朝から晴れていた空に薄い灰色の雲がかかって、高くに上った太陽を隠した。それを合図とするように、ディオは墓地を去った。

 ジョージにはロンドンで親戚や友人と会うのだと言ったけれど、実際にはディオには訪ねるべき親戚も、顔を見たい友人もいなかった。父方の親戚にはおばやおじ、いとこがロンドンにいることを知っているが、ディオは会う気などまったくなかった。会っても自分にとって何の得にもならず、それどころか現在の自分の状況を知れば金をせびられる恐れだってある。そう思ったからだ。  実際、ジョースター家に引き取られてから2年ほどは、時折父方の親戚からの金の無心の手紙が届くこともあった。汚れのついた便箋に書かれた宛名の粗雑さを見ればすぐに差出人を察することができたので、ディオはそのような手紙を二度と開いたことはなかった。母方の親戚については、誰一人としてその行方を知らない。
 貧民街でスリを一緒に企んだり、賭け事をするときの回し者としたりするための仲間はいたけれど、ディオはリバプールへ向かう前に彼らとの縁も切った。ディオは、あのとき自分と同じ年頃だった少年たちがいまはどうなっているかを知らないし、興味もない。もし幸運に恵まれれば生活は苦しくても家族とともに暮らしているだろうが、そうでなければ死んでいるだろう。そのくらい、ロンドンの最下層、最貧困層に生きる者たちにとっての生と死とは、簡単にその境界を飛び越えていけてしまうようなものだった。
 ディオは馬車からの風景に、穴の空いた服を着てぼさぼさの髪の毛をしたみすぼらしい子どもたちが、ごみを漁ってはその「収穫」を取り合っているのを見たり、そのような子らが時折「旦那様、旦那様」と呼びかけながら馬車に縋り付いてくるのを見て、不愉快そうに顔をしかめたのだった。

 次にディオが向かったのは、駅近くにある小さな質屋だった。それは野菜や肉の店、菓子の店、洋服の店、帽子の店などがずらりと並ぶメインストリートからひとつ外側に出た路地に、紺色の小ぶりのドアを構えていた。同じく紺色の窓枠に縁取られたガラスの向こうには、橙の光を灯したランプが棚やテーブルにいくつか置いてあるのが、曇天の屋外からはわかる。ディオは御者に待っているように言うと、錆びた金色のドアノブを回した。扉の上に付けられたベルが、カラカラと音を立てた。
 ディオが中に入ってしばらくしてから、男がいらっしゃい、と言って出てきた。厚ぼったくたるんだ目蓋が眼の半分を隠しているような、老いた男だった。ディオは上着の内側から手のひらの大きさの質札を取り出した。

「5年前、質に入れたものを取りに来た。名前はディオ・ブランドー。これが質札だ」
「はいよ。ちょっとお待ちくださいな」

 男はそう言って、カウンターの向こう側にある棚から綴りを取り出すと、質札に書かれた日付と番号でディオの名を探した。その間、ディオは店内を見まわしていた。
 5年前に来たときの記憶はもうかすれはじめているけれど、それでもこの質屋とこの老いた店主が変わっていないということは確かだと、ディオは思った。

 5年前、父が死んだあとに、父が死ぬ間際に見せてきたジョージ・ジョースターへの手紙を出してその返事が届くまでの間、ディオは暮らしていたアパートの一室の整頓を、全部一人で行った。幸か不幸か父もディオ自身も衣服や物を多く持ってはいなかったから、整頓に苦労することはなかった。母の使っていたものが見つからないかと少し期待したけれど、もうそんなものは残っておらず、出てくるのは父親が少しずつ飲んでいた高価な酒を少量残した瓶か、若い頃着ていたのだろう古いテイストのする一張羅か、捨て忘れたのだろう情婦からの手紙の切れ端のような、くだらないものばかりだった。ただ一つディオが驚いたのは、どう見ても父程度の人間が持つことなどできるはずのない、プラチナの輪に宝石が輝く指輪が、キャビネットの奥から出てきたことだった。指輪の内側には、JとMという文字が刻まれていて、当時のディオでもこれがオーダーメイドの高価な品であることは察せられたので、明らかに父のものではないことはわかった。しかし父とはまったく縁遠いこの指輪を、父はもらったのか、拾ったのか、それとも盗ったのか。いずれにしても、どうせろくな方法で手にしたわけがないし、どうせ金が足りなくなったときに酒でも買うために隠しておいて、それで結局忘れたのだろう、とディオは考えた。
 父に言われるままにジョースターという貴族に手紙を出したはいいものの、いつ返事が来るのか、本当に返事が来るのかも定かではなかったために、ディオは父の遺品のほとんどをどんな値であれ売り払った。そして指輪をこの質屋に持って行って、ひとまず生きていくのに困らないだけの、いくばかりかの金を得たのだった。

 ディオが店内に所狭しと置かれた調度品や絵画を眺めているうちに、店主が一度店の奥に入っていって、すぐにまた戻ってきた。

「はい。この指輪ね」

 そう言った店主の手には、小さな木箱に入った父の遺品たるあの指輪が、当時と変わらない輝きを放っていた。それを見た瞬間、ディオの眉の間には深いしわが寄って、口元が歪んだ。

 ──あぁ、やはり。

 ディオは口から出かかったその一言を、息を吸うことで喉に押し込めた。


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