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 それから間もなくして、ジョナサンとディオがパブリックスクールの宿舎へと出発する日となった。
 朝食のあと使用人たちが忙しなく馬車や宿舎への道すがら食べる軽食の準備をしたりしているうちに、あっという間に昼前になった。ジョナサンは自室から大きなトランクを抱えて、フットマンが手伝おうとしたのを断って、のっそのっそと階段を下りてきた。ディオは1冊の本と最低限の手回り品だけを持って、ジョナサンが大儀そうに下りてくる様子を、階段の下から見ている。そうしていると、ニナが見送りに合わせてジョースターの屋敷に到着した。
 ニナはエントランスホールに入ると、最初にディオと顔を合わせた。「こんにちは、ディオ様」そうニナが挨拶すると、ディオは先日ニナを拒絶したときの鋭い眼光も冷たい言葉も、まるでそんなものは存在しなかったかのように、万人が好印象をもつ笑みを浮かべて、挨拶し返した。そしてすぐに顔を背けてしまった。

 ニナはホールの壁に目を向けたが、そこに飾られていたあの不気味な石仮面は、いまはもうない。ニナが先日ジョージから聞いたのは、ジョナサンとディオの大喧嘩のときの振動か何かで石仮面が落ちてきたので、割れたりしたら危ないし、ジョナサンの母の形見でもあるので、箱に入れて書庫に保管することになった、ということだった。ニナがジョナサンに、壁にぶつかるほどの殴り合いをしたのかと聞くと、ジョナサンは少し目を泳がせたあと頷いた。ニナは石仮面のあった場所をしばらくじっと見つめた。

「父さん、ニナ。ぼく、毎週手紙を書くからね。きっと返事を書いてね」

 ジョナサンがそう言ったのを聞いて、少しぼうっとしていたニナははっとして、ジョナサンを見た。ジョナサンはやっと荷物を運び終わると、ジョージとニナに最後の挨拶をしようとこちらに来ていた。ジョナサンはジョージとハグをして、それからニナにも思い切り抱きついた。ジョナサンはしばらく離ればなれになる彼女の香り、柔らかさと声を、きっと覚えておこうと、顔を彼女の胸に埋めた。このようなスキンシップができるのも、もう最後だと思った。

「もちろんだよ、ジョジョ。手紙は必ず返事するよ。そうだ、健康にだけは、くれぐれも気をつけるように。しっかり勉強して良い成績を取りなさい。先生たちにも礼儀正しくするように。ディオとよく協力して生活して、それから……」

 ジョージが何度もジョナサンに言ってきた「心得」をまた繰り返そうとしたので、ジョナサンは「わかっているよ、父さん」と言って笑った。ニナも「えぇ、必ず。たくさんお手紙を書きます」と言って、ジョナサンを強く抱きしめ返した。
 隣でディオはジョージと握手をしている。ジョージは「ディオなら心配はいらないと思うけれど、困ったことがあったらいつでも力になる」と言った。ディオは整った口元を綺麗に上げて頷いて、礼を述べた。それからディオはニナのほうを一瞬ちらりと見て、ミス・ニナもどうかお元気で、とだけ言った。

「ディオ様も……どうかお元気で。手紙を、書きますね」

 ニナは、もう荷物を持って馬車に乗り込もうとするディオの横顔にそう言った。ディオは目線だけをニナに寄越したあと、えぇ、と一言返事をした。
 2人は馬車に乗り込み、ジョナサンは小窓から顔を出してしばらく手を振っていた。ニナは、2人の行く先を案じるように、ジョナサンに振り返した手を胸にあてた。ジョージとニナは、馬車の姿が地平線の点となって見えなくなるまで、しばらくそこに佇んでいた。

***

 ニナはジョナサンとディオがパブリックスクールへと出発するのを見送って、自身もすぐにロンドンへ引越す準備をした。その際には、棚にぎりぎりで収まっていた書物たちの片付けにずいぶんと苦労した。ニナは本当に気に入っている本や小さめの家具だけを残して、他は売るか、譲渡するか、あるいはジョナサンやディオが気に入っていた本があれば、屋敷の書庫に寄贈した。ジョージや亡きメアリ、ジョナサンやディオも読書家であることから、書庫はかなり広く作られていた。ニナはその一角に、石仮面が入った箱があるのを見た。

 ジョースター家のフットマンが2人、作業を手伝いに来て、それが終わるとジョージが晩餐を用意した。ジョージはもちろん、使用人たちにも惜しまれながら、ニナはリバプールでの最後の日を過ごした。
 晩餐後、ジョージとニナは談話室で窓辺に立って、これまでの思い出の印象深いものをいくつか語り合った。ニナがジョージやジョナサンと初めて会った春の日のこと。ジョナサンが感冒に罹って、2人でずっと看病したこと。3人で博物館や大学を見学に行ったこと。ジョージは「ディオが来てからは、夕食の席でいつもジョジョを怒ってしまった」と言って苦笑いをした。それからジョージは、ニナを真直ぐに見つめて、母のいないジョジョに君がいてくれてよかった、と言った。

 次に会えるのはいつだろうね、とジョージが尋ねると、ニナはまだわからない、と答えて、またしばらく外国に旅に出る予定があるのだと言った。でも「いつかきっと帰ってきます」と付け加えて、ジョージの手を握った。ジョージは、ニナがリバプールに「帰ってくる」と表現をしたことに、じんわりと心が温かくなった気がした。
 8年も一緒に過ごしたニナだったから、この最後のときばかりはいいいんじゃあないかと思って、ジョージは自分の手を握った彼女をそのまま引き寄せて、腕の中にすっぽりとおさめた。ニナは少し驚いて、恥ずかしそうにして目を細めたけれど、黙ってジョージの身体をやんわりと抱きしめ返した。ジョージには妹がいなかったけれど、もしいればこのような立派な人になっただろうかと考えた。これまでは雇主、屋敷の主人、紳士といったいろいろな地位や外聞に縛られてニナにこのように接することはあまりなかったから、ジョージはニナの顔が間近にあることが珍しくて、ついまじまじと見つめた。

「……君は、変わらないね。出会った日からずっと……もう8年も経つというのに、いまも変わらず、君はあの日に出会った少女のままだ」

 ジョージが感慨深げに、独り言を呟くようにそう言うと、ニナの目がわずかに見開かれた。

「そんなに……変わりませんか。わたくしは」
「あぁ、ええと、子どものようだということではないのだよ。ただ、君はその、なんというか……ずっと、初めて会ったときから清らかで、綺麗で、それが変わらないと思ったんだ」

 ジョージが早口になって、まるで成人したばかりの青年が好いた女性を口説くときのように、焦りと恥ずかしさを隠しきれずに顔に浮かべてそう言ったから、ニナは耐えられなくなって、ふっと息を漏らして笑ってしまった。そうするとジョージも、自分は何を焦っているんだと可笑しくなって、頬を緩めた。
 ジョージは窓の外を見た。屋敷から見える野原や林は、雲のない空に浮かぶ月だけが照らしている。ジョージはもう一度ニナを見つめた。

「その綺麗な髪が、月のようだと思っていたんだ」

 それを聞いたニナは、驚いた顔をしてジョージを見つめた。

 ──ニナ、おまえの髪は、月のように綺麗に、輝いて見えるんだ。

 ニナの瞳が揺れて伏せられたのを見て、ジョージはどうしたんだい、と聞いた。ニナはしばし窓の外に視線をやってから、口を開いた。

「……この髪を、そのように言っていただくのは、2回目で、……嬉しいのです、とても」

 そう言ってニナはジョージを見つめて、微笑んだ。その瞳から落ちそうになっている小さな雫は、窓から差し込む月の光を、きらきらと反射していた。


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