12


 ──月を見ていた。風は穏やかで、雲はなく、満月だったから、月のおうとつの陰影が作り出す像がはっきりと見えた。月から離れた位置にある星たちは、赤かったり、白かったりして、時折瞬きながらそこにあった。
 人は、それぞれの文化を背景にして、この月の像と星の繋がりにさまざまな物語を読むという。英雄譚、運命的な悲恋、罪と罰、この大地の誕生……わたしは人間の想像力から生まれてくる物語が好きだ。すでに知っている物語も、何度でも聞きたいほどに。
 いや、正確には、わたしは物語が好きというよりも、ただ静かに星たちの物語に想像を巡らせながら、彼らと過ごす夜が、好きだった。月が照らす野原にみんなで寝転んで、遠くから運ばれてくる潮の匂いに包まれて、森の奥で鳴いている獣の声を聞きながら過ごす、その時間が好きだった。

 彼はいつも、物語を語って聞かせてくれた。

「──その女神が乳をこぼしたから、あれを“乳の環”というのだそうだ」

 何それ、変なの、と言うと、そうだな、まったくだ、と言って彼も笑った。彼は空を指差していた腕を下ろすと、わたしの頬を大きな手で撫でた。その手の先を見上げると、長い、暗闇の色をした、ふわふわとした彼の髪が、わたしの頬をかすめていった。それがこそばゆくて、わたしはまたくすくすと笑った。

***

 ──月を見ていた。埃と砂が混ざった、湿っぽい風が吹いている。空の向こうからやって来る雲は厚く、もうすぐ月を隠し、そのあと雨が降りだすだろう。

「明日、海を渡る」

 そう言って振り向いた彼の瞳の奥にあるものが、わたしには読めなかった──いつもわたしの側にあったはずの彼の心は、どこに行ってしまったのだろうと、怖くなった。
 わたしはその行方を知りたいと思ったけれど、同時に、知ることが怖かった。その瞳の奥に、この世の何よりも暗く、冷たい激情があって、きっとわたしはそれを受け止めきれないとわかっていたから。

 けれど、いまでも思わずにはいられない。
 もしあのとき、彼の心の底へと手を伸ばしていたら。自分が傷つくこともかまわずに、彼に嫌われてしまうことも恐れずに、彼の隠された激情に触れられていたら、もう少しましな未来があったのではないかと。



***



 ディオがニナを突き放したきり、もうそれ以上話すことを拒否したので、ニナは彼の部屋から去るしかなかった。
 ニナは部屋から出たあとに、深くため息をついた──誰かの心の底に触れようとして、それが結局できなかったのは、これが初めてではない。ニナはそう思うと、再びため息をついて、脳裏に浮かんだ遠い昔の記憶を振り払った。言葉で伝わらないのならば、きっともう唯一必要かつ十分なのは時間だけだった。時間さえあれば、離れていってしまったディオの心に、再び近づけるかもしれなかった。
 けれどニナは、もう自分がジョージやジョナサンやディオがいるこの場所から去る時期が──「引き際」が近い以上、きっともう自分ではディオの心に再び近づくことができないとわかっていた。

 ディオがダニーの死に関わっているということをニナは確信していた。しかし物的証拠があるわけではなく、ディオがそれを認めるとも思えない。あとはジョナサンがニナの考えを知るかどうかだった。ニナはジョナサンの部屋へと向かった。
 ディオの心を時間をかけて柔らかくしていってくれるのは、ジョナサンの真直ぐな優しい心だとニナは考えていた。けれど、ジョナサンにダニーの死の真相を話せば、ジョナサンは自分の親友の死に関わっている「仇」と、これからも付き合っていかなければならないことになる。しかしジョナサンに真相を話さなければ、ディオのためにジョナサンを欺いたことになってしまう。ダニーの死の真相を隠すことでジョナサンにディオの心の救済を担わせるということは、偽善と言わずしてなんと言うのか。いっそ、明確なる証拠をもってディオの罪を暴き立てることができれば、まだましだったかもしれない。

 ニナが扉をノックしてジョナサンの部屋に入ると、ジョナサンは机に向かっていた。ジョナサンはダニーの死から間もないころは、ベッドから一日中出てこないほど落ち込んでいたが、少しずつ起き上がっていつもの生活をする時間が増えてきていた。まだダニーに関わるものを見たり聞いたりしたとき、ふと涙が溢れて止まらなくなってしまうことはあったが、ダニーがもういないのだという現実に馴染もうと彼なりに必死でいることが、ニナやジョージには痛烈に伝わっていた。ニナは、部屋に入ってきた自分を見て弱々しい笑みを浮かべたジョナサンに、胸が痛んだ。

「ニナ。どこに行っていたの。あのね、持ってきてくれた本を、一緒に読みたいと思っていたんだ……」
「……ジョナサン様、すみません。少し町のほうで用事を済ませていたのです……」

 部屋に入って近づいてきたニナの言葉が尻すぼみになったので、ジョナサンはニナを見つめた。そうして口を開きかけたままジョナサンの頬に手を添えたニナを見て、ジョナサンはニナ、どうかしたの、と聞いた。
 ニナの口元はジョナサンに笑いかけるように上がっているのに、眉尻は下がっている。ニナは、ジョナサンに母親のことを伝えなかったかつてのジョージの気持ちを思っていた──あぁ、ジョージ様。わたし、いま、あなたの気持ちがとてもよくわかります……この子に、母君のことを伝えられなかったあなたの気持ちが……。だってわたし、この子には、ずっと笑っていてほしい。この子がいつも真直ぐで、元気でいられるように、なんでもしてあげたい。ジョージ様、あなたは、それだけを思っていたのですね。

 「ジョナサン様」そう呼びかけると、ニナは椅子に座るジョナサンの視線に合わせて屈んで、彼の瞳を覗き込んだ。

 ──けれどこの子はもう、何も知らない子どものままではない。
 ニナは、慎重に言葉を紡ぎはじめた。

「わたくしは、警察のかたの仰せになったこととは別の可能性を考えていました。ダニーにあのようなことをしたのは、金銭目的の盗人ではなく、この屋敷のことをよく知っている人物なのではないかということを……」
「……」
 ジョナサンの目が、わずかに見開かれる。
「先ほどまで出かけていたのは、町に、調べに行っていたからです。ダニーの口に巻かれていた針金と同じものを買った人物は誰なのか、…………ダニーに吠えられずに、それを巻きつけることを可能にするものを入手した人物は、誰なのか。……その人物とは、ある少年でした」
「……」
 ジョナサンは、ニナの言葉を待った。

「ジョナサン様。エドワード・ウッドという少年は、ディオ様と親しくしていますね。……あなたが、……あなたが大喧嘩をした、ディオ様と」

 そこまで言って、ニナは間を置いた。ジョナサンは、ニナが言わんとしていることをだんだんと理解すると、俯いて肩を震わせ、唇を噛んだ。

「……ぼくの、勘違いだと思っていたんだ。ディオが、ダニーの……ダニーのことに、関わっているなんて。きっと悪い勘違いだと、思っていたんだ」
「……わたくしの考えは、ただの憶測です。確かな証拠は、何もないのです」
「……うん、わかっている。だからこそ……ディオには何も、言えないんだね」

 ジョナサンは顔を上げた。ニナを見つめる瞳は、疑念と向き合い、いつかきっと明らかになる真実を受け入れる勇気を湛えていた。ジョナサンの夜明けの空の色の瞳を見て、ニナは、なんと美しいのだろうと思って、ジョナサンの手をとり自分の手に包んだ。そして口を再び開いた。

「ジョナサン様。これから、あなたに、あることをお願いします。それはきっとあなたにとって残酷なことでしょう。けれど、どうか聞いてください」
「……うん」
「ジョナサン様、どうか……どうか、ディオ様を……見放さないでいてほしいのです」

 ジョナサンはそれを聞くと目を見開いて、苦悶の表情を押し殺すように唇を噛み締めた。
 これまでディオから受けてきた嫌がらせや暴力、そしてダニーの死。ディオはダニーの死を謀ることで、忌々しい記憶を呼び起こさせたジョナサンに仕返しをしたけれど、これまでディオが行ったことに対して、決して気持ちの良くない感情を募らせてきたのはジョナサンとて同じだった。ニナの掌のなかで、ジョナサンの拳が固く握られる感覚がした。それでもジョナサンは、ニナをただ信じているから、彼女が軽い気持ちでこのような願いを言い出すはずはないとわかっているから、ニナが続けて話すのを待った。

「ディオ様のことを嫌いでもいい。ときには喧嘩したっていい。……それでも、ディオ様のことを諦めることだけは、しないでほしいのです」
「……ニナ……」
「ディオ様がジョナサン様に辛くあたることがあるのも知っています。本当にひどいお願いなのはわかっています。…………けれどどうか……いつかきっと、ディオ様が心を開いてくれるという可能性だけは、信じていてほしいのです」
「……ニナ……ニナッ……」

 なんて、ひどい願いなのだろう。ジョナサンはそう思ったけれど、同時に、なんて、優しい願いなのだろうとも思った。信頼していて、尊敬している、大好きな人が言った、残酷で優しい願い。
 ニナはずるいよ、とジョナサンは言いたかったけれど、ニナが自分以上に苦しそうな表情でそう言ったから、やっぱりニナを責める気など微塵も起きなくて、わかったよ、そうするよという返事の代わりに、彼女を抱きしめた。
 ニナは、ありがとう、ジョナサン様、と何回も繰り返し言いながら、彼を強く抱きしめ返した。


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