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 ニナがダニーの死の真実に気がつくかもしれない、しかしそれでも自分を糾弾することはできまいというディオの見通しは、半分正解で、半分不正解だった。
 ニナは確かに、ディオがダニーの死に関わっているという可能性まで辿りついた。しかしその胸にあるのは、本当にディオがダニーを殺すように仕向けたかどうかの事実を確かめたいという気持ちではなかった。

 ニナは、初対面の時点でジョナサンがディオに暴力を振るわれたり、その後も持ち物を勝手に使用される、からかわれるといった意地悪をされたりしたということは、ジョナサンから聞くことがあった。しかしジョージやニナの目の前では、ディオは常にジョナサンに対して友好的に振る舞っていたし、そして何よりジョナサンがそれを望まなかったことから、ニナはディオを窘めることはしなかった。

 ディオは自分の心について多くは語らないけれど、ニナは、ディオの心には氷が張っていて、その下に社会や他者への不信や怒りが渦巻いているということは察していた。でもニナはその原因が生育環境にあるのだろうということしかわかっておらず、どのようにその氷を溶かせばいいのかということには、確信をもてないでいた。ただ、歪んで、見えない覆いが何重にも張った彼の心と真直ぐに向き合い、愛情と、安心と、信頼と、あとは子どもが与えられるべきたくさんの良いことを、目一杯彼に受け取ってもらうことしか思いつかなかった。
 ニナは確かに、この数ヶ月で、初めて会った時よりはほんの少しだけれど、ディオの氷が薄くなったように感じていた。チェスをしていたときに彼の「ほんとう」を垣間見て以来、ディオはそれまでよりも物理的にも心理的にもこちらに近づいてくることが多くなったように思っていたのだ。あれ以来、ディオは取り繕ったような笑みや言葉を向けてくるのではなく、小説や学問について語り合うなかで好奇心にあふれた瞳を見せたり、ボードゲームやカードゲームをして負けると本気で悔しがったりする姿を見せたりしたことがあったのを、ニナは思い出した。

 だからいまニナの足を動かすのはディオの所業を責めなければならないという正義感ではなく、ダニーの死という出来事への過程が、そしてその結果がディオの心をふたたび遠ざけてしまったのではないかという恐れであり、それを確かめたい、もしディオの心が遠くなってしまったのであれば、もう一度引き戻したいという思いだった。

 ディオがダニーの死に加担していたとしても、これまでの彼の態度や言葉の裏に、他者や他者の大切なものを傷つけることをいとわないという悪意が、自分でも見抜けないほど深くにまで根を張っていたのだとしても──それでも、チェスボードを買ってくれたんだと母親のことを話したディオは、あの星の夜自分の手を握り返したディオは、紛れもなく「普通の」少年だったのだ。
 ──せめてディオに伝えたい。自分がディオを大切に思っているということを。どんなにディオが他者を苦しめても、他者はディオを苦しめる人ばかりではないのだということを。そしていつか、人は過ちを犯したって、生きている限りそれを償い、改め、やり直すことができるのだということを、知ってほしかった。

 屋敷に戻ってきたニナは、足早にディオの部屋へと向かった。

***

 ディオの部屋の扉をノックするとすぐにどうぞ、という声が聞こえてきて、ニナが部屋に入ると彼は窓から外を眺めていた。まだ部屋に陽が差す時間帯だったから、ディオは入ってきたのがニナだとわかると、カーテンを半分ほど閉じた。

「こんにちは、ミス・ニナ。ここから、あなたが帰ってくるのが見えたよ。町に行っていたんだね。……それで、何かわかったことはあったかな。……ダニーの件で、何か気になることがあったのでしょう」

 ディオの声の調子はいつも通りだったけれど、カーテンの開いているほうに立っているディオの姿を窓から差し込む光が黒くぼんやりと形作って、その表情は見えなかった。ニナが静かな声で「ディオ様」と呼びかけると、ディオがうん、と返事をして薄笑いするような声が聞こえた。
 ニナが部屋の中へと一歩、足を進めると、ディオは窓の外を見ながら口を開いた。

「ジョジョ、あいつも残念だっただろうなぁ……。あいつにとってダニーは唯一無二の親友だったのに」
「……えぇ、そう、ですね。とても……」
 ニナは、ディオの表情もわからないままに答えた。
「そうだ、ミス・ニナ。ぼくは考えていたんだけれど、ダニーをあんなふうにしたのは、泥棒なんかじゃあないのではないかな。だって、泥棒の仕業にしては、どうにも手際が良すぎる気がするんだ」

 余裕を見せつけるような、わざとらしいディオの態度の理由がニナにはわからなかったけれど、これは、少なくともダニーのことで己が疑われているのではないかという怯えを隠すような態度ではないと思った──それはまるで、初めて会った春のときに感じたような……いや、それよりももっと、ディオの心の氷が厚く、冷たくなってしまったのではないか──そんな感じがしたのだ。そしてそのあとに、ニナは気がついた。ディオは、たとえ自分が疑われているとしても、まったく意に介していない、そのことを誇示しているのだ──なぜなら、疑いを向けてくる者のことを、そもそも、どうでもいいと思っているのだから。
 ──あぁ、悪い予感が、当たってしまった。そうニナは思った。

「本当はこんなことは言いたくないんだけれど……ぼくはね、もしかしたら、この屋敷の者が、今回のことに関わっているんじゃあないかって考えていたんだよ」
「……ディオ様」

 ディオは、ニナの返事を待つこともなく話し続ける。まるで、ダニーの死の真相についてニナの考えていることすべてを自分は知っていると、そしてニナが自分を責めることができないことさえもわかっていると、暗に示すように、すらすらと、調子の整った声で。

「そうでなければ、あんなに首尾良く犬を始末できるはずがない・・・・・・・・・・・・・・・・。あなたもそう思うでしょう、ミス・ニナ?」

 そう言ったディオの顔を見て、ニナは、ディオがダニーの死に関わっているということを確信した。その瞳には、声には、他者に対する憎しみと敵意、優越感が透けて見えた。

 「ディオ様」気がついたらニナは、窓際で外のほうを向いているディオのそばに駆け寄って、そのひと回り小さい身体を抱きしめていた。まだ高く差し込む太陽の光に目が眩むことも厭わずに、遠くに行ってしまったディオの心を必死にたぐり寄せてつなぎとめようと、両の手をぎゅうとディオの肩に回して。顔をディオのうなじに寄せると、ディオが微かに息を呑んだのがわかった。

「ディオ様……ディオ様、いったい、何があったのですか。……あの夜……星の下で、わたくしの手を握り返してくださった夜から……」
「…………」

 ディオは何も答えず、抱きしめられたまま、動かない。

「言葉にしたほうがおわかりになるのなら、何度だって申します。わたくしは、ディオ様を大切に思っています。あなたが幸せに、健やかでいられるように、いつも願っています」

 ニナは、ディオの身体に回していた腕を解いて、掌をディオの両頬に添えた。互いの吐息を感じるくらい額をくっつけて、ディオの瞳を覗き込んだ。ディオは眉間にしわを寄せ目を伏せて、ニナと目を合わせようとしない。

「ディオ様、あなたの心は、どこにあるのですか」
「…………」
 ディオは、動揺や困惑さえも隠しきってしまうように顔を背けようとしたけれど、頬に添えられたニナの手がそれをさせなかった。
「何が、あなたをここまで頑なにさせるのですか」
「…………」
「何が、あなたをそこまで遠ざけてしまったのですか。……何があったのですか、ジョナサン様と──」
「あいつは関係ない!」

 ニナがジョナサンの名を口にした途端、ディオは鋭い目でニナを射抜いて、それから腕にうんと力を込めてニナの身体を突き放した。

「あいつの名を、……あいつの名を、聞きたくない。あなたの口からは」

 そう言ってディオは、半分閉じられていたカーテンを再び乱暴に開いた。ニナは、いきなり明るくなった視界が眩しく、一瞬すべてのものが白く見えて、思わず目蓋を閉じた。そうするとディオの身体は、腕を伸ばしても届かないところに離れていってしまった。

「もう、出て行ってくれ」

 輪郭の定まらないディオの姿からは、ただニナを拒絶する言葉だけが、冷たく聞こえた。


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