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 久しぶりにニナが屋敷を訪ねてきたと思ったら、それがダニーの件でジョージから手紙が来たからだったということを知って、ディオは面白く思わなかった。けれど、自分の思惑がここまでうまいこと現実になってくるのを感じると、悦に入らずにはいられなかった。

 ディオがロンドンの貧民街で暮らしていたときに散々思い知った経験に違わず、やはり警察は無能だった。ダニー殺しを盗人の仕業と決めつけ、町の住人への聞き込みもおざなりで、捜査の経過を見ているとその拙さに腹立たしく思うことさえあった。とはいっても、存在しない「盗人」以外へと万が一嫌疑の目が向けたられたとしても、ディオは自分に疑いの火の粉が降りかかることは決してないという確信があった。
 エリナのことを揶揄ってジョナサンにめためたにされた少年たちは、ジョナサンには大切にしている犬がいるということは前々から知っていた。ディオは、使用人がいつ屋敷の見廻りをするのか、いつ犬に餌をやるのか、いつ焼却炉を空にするのかという情報を、不自然にならないように時間をおきながら、会話の中にそれとなく混ぜて教えた。最後にディオがしたのは、少年たちのなかでも特に頭が回ると見ていたエドワード・ウッドがジョナサンへの恨み言をこぼした際に、ジョジョが可愛がっている犬を失えば、奴はどんなに傷つくだろうなと、冗談まじりに言うことだった。自分がダニーを始末するように直接指示したわけではないのだから、もしウッドが怪しまれても、彼がそんなことをするとは思わなかったと言い切ることができるという自信が、ディオにはあった。

 唯一、己に疑いを向けてくる懸念があるのはニナだった。勘のいい彼女なら、犯行が盗人のものではなく、屋敷の者が関与しているという可能性に気がつくかもしれない。
 ニナはディオがウッドと一緒にいるところを何回か見たことがあるから、彼女がウッドの名を知ったら自分を連想するかもしれないということを、ディオはわかっていた。しかしディオは、いつかニナの推理が真相へと辿り着いたとても、彼女が明らかな証拠なしに自分を糾弾することまではできないと、確信していた。彼女は証拠もなしに自分を責めるほど、浅薄な人間ではない。だからこそ、結局このディオをいちばんにしなかったのだ、そうディオは考えていた。
 ディオは、これでジョナサンだけではなくニナにまで衝撃を与えることができたのだと考えると、彼らに意趣返しができて胸のすくような思いがした。ジョナサンには、先日の大喧嘩で自分を容赦なく殴れ倒してくれたことに対して、ニナには、いつまで経っても自分にいちばんの関心を向けてこないことに対してだ。

 ニナと出会ってからというもの、柄にもなく自分の感情を乱されることがあると、ディオは自覚していた。しかし同時に、ニナとチェスをしながら昔のことを喋ったときに不意に漏れ出た感情は、思いがけずニナの「ほんとう」を引き出した。その瞬間だけは、父を「地獄」に落とすと誓った日から父が死んだ日までずっと燃え盛っていた、あのさまざまなものが入り混じった泥のような感情に、まるで洞窟の出口にやっと差した光のように、温かい、と感じるものが落ちてきた。
 けれど、ディオはその温かさを受け入れなかった。ディオは、わかっていたからだ。もう、父を「地獄」に落とす前の自分には戻れるはずがないことを。そして、もはや自分は、戻るつもりもないのだということを。ニナがいくら自分を気にかけ、安らぎを与えんとしても──そんなものに「負ける」ことは、この自分のプライドが許さない。人間が群れるのは、弱いからだ。自分は弱くない。自分は、あんな、弱くて、互いを慰め合うことしか能のない、出自や環境に甘んじて、支配を受けることを良しとするような、野望のない人間にはならない。なってなるものか──。

 このようなディオの意地は、ジョナサンとの大喧嘩以降、より強く、激しいものとなった。ディオはあのあと、自分を殴り倒して、あの吐き気のする幻影を見せてきたジョナサンには二度と遅れを取るまいと誓い、痛みを教え込むようにして、すでに腫れた頬を自ら叩いた。ジョナサンの爆発力を侮っていたことを反省し、彼を力でねじ伏せるのではなく、抗う気力までも奪い取らなければならないと考え直した。そのために、自身の感情を冷静にコントロールする必要があると認識した。

 それはニナに対しても同じだった。ディオはこれまで、ジョナサンと比較させることでニナの「特別」を手に入れようとしてきたけれど、その方針は彼女には有効ではなかった。それどころか、知略を巡らせて彼女の関心を引きつけようとすると、かえって彼女は引いていってしまう。
 そうしてディオは、手が届かない葡萄を酸っぱいものだと思うように、ニナの心は自分にとって価値のないものだと思うようになった──自分が欲しいのはあの「温かい何か」ではない、自分が必要なのは金や、人脈や、地位であって、決してあの女の柔らかな手や、微笑みではない、と。ジョースター家に来て、ニナと出会ってから浸かっていたのは所詮「ぬるま湯」で、己の野望にとっては微塵も必要のない、くだらないものだったのだと。
 彼女の心が自分に向かないのであれば、もう要らない。どうせ、たいした価値もないものだったのだから。いぜれにせよニナはもうジョースター家のガヴァネスではないのだから、彼女を利用する計画は終了だ。そうディオは考えることにしたのだった。


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