07


 入学と寄宿の準備は滞りなく進められたけれど、ジョナサンは、ここにニナがいたら良かったのに、と何度も思った。オーダーメイドで作ったパブリックスクールの制服が届いたとき。寄宿の寮に持っていく荷物が多すぎて、取捨選択を決めかねているとき。入学後クリケットクラブとボートクラブのどちらに入ろうかと迷ったとき。
 今までは、ニナと週に2、3回は顔を合わせていたのに、最後のレッスンが終わってバカンスから帰ってきてからここ1ヶ月は、ニナは一度もジョースターの屋敷に来ていない。以前彼女は、ガヴァネスの仕事が終わればまた旅に出ると言っていたから、その準備をしているのだろう、だからなかなか来られないのだ、とジョナサンは考えて、ニナと会えないことを自分に納得させていた。
 ニナと会えないぶん、ジョナサンの気持ちはますますエリナへと向かった。ジョナサンは、この夏の暮れまで目一杯エリナと遊ぼう、スクールに行っても彼女が自分のことを忘れてしまわないようにと思って、エリナを頻繁に遊びに誘った。2人は屋敷の近くの野原でダニーと追いかけっこをしたり、牧場の牛や羊を見に行ったり、森で虫取りをしたりした。エリナはアッパー・ミドル出身のレディとしての教育を受けていたけれど、ジョナサンと一緒にいると、何のしがらみにも囚われない、素直な自分になれると感じた。
 それからジョナサンは、夏のひとときにリバプールに興行するファン・フェアにエリナを連れて行って、朝から夕方まで遊んだ。イギリスでは見られない動物や、奇妙な格好をした大道芸人の芸を見物したり、何回も繰り返し遊具に乗って「また君たちか」と係の者に呆れられたり、巨大なすべり台に2人で乗っては転んで笑い合ったりした。
 ジョナサンとエリナとの間にある感情は、恋と呼ぶにふさわしいものだった。

 一方でディオのほうは、ニナと会わなくなったことについて、ジョナサンとは別のことを考えていた。
 ディオがニナと会わなくなって抱いたのは、「寂しさ」と一言で表せるような感情ではなかった。ディオは、ニナを利用してジョナサンの優位に立つという「計画」が、結局頓挫してしまったことを認めざるを得なかった。
 ニナを憎んでいるわけでも、鬱陶しいと思うわけでもない。それなのに、ニナのことを考えると気分が落ち着かない。ニナの感情や行動を支配するのは、自分だけでありたい。もっと自分に関心を向けてほしいし、自分だけを見てほしい。それなのに、ニナはここにいない。ディオは、自分の心をそわそわとさせる不快な感情が、彼女なしでは片付くことがないのだと認めると、苛立ちを募らせた。

***

 ディオは、浮かれた様子で週に何回も出かけていくジョナサンが一体何をしているのかと思っていた。ある日町の子らと出かけた帰り道、ジョースターの屋敷が見えてきたころ、近くからジョナサンの声が聞こえてきた。その声のほうに近づくと、川でジョナサンが少女と遊んでいるのを見て、ジョナサンの様子の理由に合点がいった。そして、川で泳いで遊んでいるジョナサンと少女が別れたあと、木の幹に彫られた文字を見て、少女がエリナという名前だということを知った。その並んだ二つの名前を見て、ディオは眉を顰め、鼻を鳴らした。
 ──気に入らない……あぁ、気に入らない──ディオの心には一気に不快な感情が込み上がってきた。
 ──ジョナサンのことが気に入らない。金、血筋、地位、自分の努力だけでは決して手に入れらなかったものを、生まれながらにしてもっているジョナサンが気に入らない。それだけではない、ニナに一番に気に入られているジョナサンが気に入らない。おれが向けられるべきニナの関心を攫っておいて、こうやって恋などというくだらないものに囚われているジョナサンが気に入らない。
 ──ニナのことが気に入らない。ジョナサンよりも優れているはずのこのディオを、いちばんにしないニナが気に入らない。非合理的で、むず痒い、意味のわからない不愉快な気持ちにさせるニナが気に入らない。あの星の夜「ずっと味方でいる」と言ったのに、結局自分から離れていってしまうニナが気に入らない──。


 気がつくとディオは、帰りの道に就こうとするエリナの前に出て、彼女を呼び止めていた。

「やあ! 君……エリナって名なのかい? ジョジョと泳ぎに行ったろう。あいつ、最近浮かれていると思ったら、こういうわけだったのか」

 人好きのする笑みを浮かべながら、ディオはエリナに近づいていった。後ろでは、いつも連んでいる少年2人が、ディオが何をする気かと、にやにやとしながら見ている。ディオはエリナの手を勢いよく引くと、そのまま彼女の唇に、自分のそれを合わせた。

 ──ジョナサンからニナを奪えないのなら、そのほかのものすべてを奪えばいいのだ。

***

 ディオがエリナにしたことは、彼の思惑通り、ジョナサンとエリナを引き裂く結果となった。
 数日後、約束していた時間にエリナと会ったジョナサンは、いつも穏やかな笑みが口元にある彼女がいまにも泣きそうな顔で自分と目を合わせようとしないことに、すぐに気がついた。どうかしたのかい、というジョナサンの問いにも答えず、エリナは唇を噛みしめながらとうとう泣き出し、そしてジョナサンが止める間もなく走り去ってしまった。
 ジョナサンは呆然としてエリナの後ろ姿を見ていたが、そうしていると、近くにはディオとよく一緒にいる少年たちが来て、ジョナサンの背に追い討ちをかけるように小石を投げはじめた。

「見ろよ、ジョジョのなさけねぇ姿を!」
「おい、言ってやれよ。なぜ彼女があんな態度をとるのかをよ!」

 少年たちが意地悪く目を細めてジョナサンを嘲笑うので、ジョナサンはすぐに、エリナが泣いて走り去った理由をこの少年たちがよく知っているのだと悟った。
 ジョナサンは、もう我を忘れる勢いで少年たちに飛びかかった。

***

 そのころ、今日もジョナサンが浮かれた様子で出かけて行ったから、ディオは、彼がエリナとの関係を破壊されてどんな顔で帰ってくるかを見物してやろうと、エントランスホールの一角で読書をして待っていた。

 ジョナサンが出かけて2時間ほど経ったころ、どん、と大きな音を立てて扉が開いた。ディオがそちらに目をやると、息を切らせて、歯を噛みしめて拳を握ったジョナサンが、ディオの名を憎々しげに叫んだ。ほうら来た、とディオは内心ほくそ笑んだ。今日この場で、拳を振り上げて向かってくるジョナサンに対して、あのボクシングのときのように徹底的に叩きのめしてやろうと、まずは肘で鼻を突いた。
 喧嘩で相手を打ちのめす能力に関してはディオの圧勝だった。ジョナサンは血が出た鼻を庇うこともなく、その場に崩れ落ちそうになる。それでも、ジョナサンは負けられない、と思ってすんでのところでそれを耐えた。自分のプライドのためではなく、エリナの名誉のために、なんとしてでも、ディオに勝たなければならないと思ったからだ。
 ディオは立ち上がって拳を突き出したジョナサンの顔面へ、今度は蹴りを入れた。鈍い音がして、これではジョナサンも倒れるだろうという感覚がしたが、ジョナサンはその足を掴んで、思い切りディオに頭突きを喰らわした。
 予想外の反撃に怯んだディオの隙をついて、ジョナサンは鈍く響く音をさせながら、拳を何度もディオに打ち込む。

 思わぬジョナサンの反撃に、ディオは一瞬何が起こっているのか把握しかねたが、1発、2発とジョナサンの重い拳を受けるうちに、彼をこれまで支えてきた恐ろしいまでの負けん気が、驚きを上回っていった──こんな、こんなことがあってはならない。このディオが、こんな愚図に負けることなど──しかしそうディオが思った間もなく、ついに、ディオはジョナサンの拳に飛ばされて倒れた。
 ディオの身体のあちこちに、痛みが遅れてやってきた。そして自分がジョナサンに遅れをとったという現実が、痛みとともにやってきた。その痛みは、ディオの目蓋の裏に、過去に唾棄してきたはずの像を見せた──父とも思っていない男が、吐き気がするほど憎んだあの男が、唾を飛ばしながら、酒を買ってこいと命令している。酒を控えたほうがいいと言うと、思い切り力のこもった、薄汚い、浮腫んだ醜い手で、頬を張り倒された。金が足りないんだと言うと、じゃああいつの服を売ってこい、あんなものもう必要ない、いつまで取っておくつもりだ、少しは金になる、そう言って、あの男は──。ディオの鼻と唇からは血が、目からは、ぽたぽたと涙が流れていた。ディオは目蓋の裏の幻影を振り払うように、それらを乱暴に拭った。

 ──よくも、よくも、このぼくに向かって──ディオが心で思ったことが、口に出ていた。許さない、殺してやる、このディオを殴り倒したことを後悔させてやる、それしか考えられなくなって、ディオは携帯していたナイフを取り出したけれど、ジョナサンの「父さん!」という声で、我にかえった。ジョージと使用人たちが、騒ぎを聞いてやって来ていたことに、やっと気がついた。

 ジョナサンが階段を上がって去ったあと、ディオは床に落ちた石仮面をしばらく睨みつけていた。


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