06


 だんだんとはっきり見えるようになってきた「乳の環」を見つめながら、3人はそれぞれにこれまでのことを考えていた。

 晩夏が過ぎて木々の葉が紅く色づく季節のはじまりになれば、ジョナサンとディオはパブリックスクールに通うので、レッスンはこの時をもって終わり、彼らは入学と寄宿の準備を始める。
 ジョージや使用人たちとも離れ、新しい土地で新しい人たちに囲まれて勉学やスポーツができるというのは、ジョナサンにとっては想像と期待が膨らむような、とても楽しみなことではあった。けれどニナともう頻繁に会うことができなくなるということを思い出すたびに、寂しさと、「まだ子どもでいたい」という気持ちがどうしようもなく迫ってくる。ジョナサンには、ニナと離れることが、まるで「子ども時代の終わり」を示しているように感じられた。ジョナサンは、今日のこの日を、何を語るでもなく、ただニナが隣にいる時間を、きっと忘れないと思った。

 ディオのほうは、勉学やスポーツを人よりも上手くこなす自信や、周囲の人間とも必要に応じて付き合っていく自信があったから、新しい生活に不安を持ってはいなければ、特に期待もしていなかった。ただ、ニナに対して抱いた「むず痒さ」はまだ心の隅にこびりついていて、共に過ごしたのはたった数ヶ月ではあったけれど、決して小さくはなくなってきた彼女の存在をどのように受け止めるかを、掴みかねていた。彼女の笑みが自分に向いたり、彼女の瞳が自分を映していると、ジョナサンに対する優越感とは違ったものが満たされる気がした。けれどディオは、その気持ちの名前を知らないふりをして、よくわからない不快なものだと決めつけて、ごまかすことしかできないでいた。それなのにディオは、何故だか隣にいる彼女の手を握りたいと思った。

 ニナは、彼方の山際へ沈んでいく太陽の名残を見上げるジョナサンの横顔を見て、人の子の成長とは本当に早いものだ、と心の中で呟いた。
 ジョナサンは5歳の頃から見てきていて、本当に身も心も立派になったと思う。ジョナサンは、人に優しくあれ、自らは強く、たくましくあれというジョージの教えを、余すことなく吸収した。
 彼の素直で明るい性格に、何度癒しをもらったことか──そうニナは思った。ジョナサンという人は、きっと今後も多くの人を救うだろう。ニナは、ディオがそのうちの一人となることを望んだ。
 春に出会ったディオは、最初はこちらの様子を伺いながら、猫を被ったように甘さと鋭さを器用に使い分けていたので、ニナもどのように接するべきかを思案していた。そんななかで、チェスをしていた何気ない時間に彼の「ほんとう」を垣間見てわかったのは、彼の心には、他者を寄せ付けない氷が厚く張っているということだった。その氷は、ディオを一見人当たりが良く、優秀で、器用な少年だと錯覚させるが、他者が表面下に入り込むことを阻むものであり、氷の下では一言では片付けられない激情が渦巻いている。そうニナは悟った。
 だからこそニナは、ディオの賢しさや、他者に対する悪感情を知っても、彼を突き放すことができなかった。厚く張った氷は、決してディオが望んで出来上がったものではないのだと、心ない大人たちにもみくちゃにされるなかで、自己を守るために出来上がったものなのだと思ったからだ。
 ディオの氷が溶けるのはまだ先だろうし、今後、自分の預かり知らぬところでディオがジョナサンと衝突することもあろうが、ニナは、ジョナサンならきっと、ディオの心を少しずつでも温めていってくれるのではないかと考えていた。

 ──けれどその未来に、わたしはいられない。そう思うとニナは、未来への希望と過去への追想が入り混じった、優しいけれど、切なくて寂しいような、不思議な気持ちになった。
 これまで、本当に幸せだったと、ニナは思う。たった数年間ではあったけれど、それはまるで自分がひとりの人間として、家族ができて、共に生きているような、楽しくて、幸福にあふれた時間だった。
 本当は、こんなに長居するつもりはなかったのに──用が済めば、早々に立ち去るつもりだったのに──それなのに、この幸せな時間から、優しい場所から離れることができずに、ここまできてしまった。「旅に出る」と言ってどんなところに行こうとも、目的を果たしたあとに戻りたいと思うのはいつも、ジョナサンやジョージがいる、あの場所だった。
 後悔があるわけではない。「あのとき」選んだ自分の未来は、その選択の結果は間違ってはいないし、やるべきことはやってきたつもりだと、ニナは何度でも心の中で言い直してきた。けれど、ジョナサンやジョージがいるあの場所を何よりも大切だと感じるようになってしまったことは、ニナの想定にはなかったことだった。

 「あのとき」、育ててくれたひとたちを拒絶し、その目論みを打ち砕かんと離反したのは、すべて自分の信念からだった。その信念を貫いた結果、ひとりになることを覚悟していたはずだった。家族というもの、愛情というものなどは「あのとき」捨て去ってきたはずだったのに──それなのに、ジョナサンがきらきらとした瞳で自分のことを慕ってくれるものだから、ジョージがまるで実の娘や妹に対するように、自分に気遣いを向けてくれるものだから、隠したつもりだった本当の望みが見つかってしまったのだ。
 どれだけ自分が、もうあの日々へは戻らない、もう大切な存在をもたないのだと誓っても、心の底では相変わらず、寄り添い、寄り添われる存在を求めていた。
 ──いや、わたしがわたしである限り、ひとりで生きていくことなど、最初から無理だったのかもしれない。そう思うとニナは、自嘲の気持ちがこみ上げてきた──だって、わたしはすでに、大切な誰かとともに生きていくことの温みを、あのひとたちと過ごした日々のなかで、知ってしまっていたのだから。

 ──けれど、わかっている。ニナは、苦しみを抑えるように、胸に両の手を当てた。
 家族というものを人に求めても、それは仮初の安らぎにしかならず、そもそも自分にそんな資格はないということを。人と一緒にいたいと望めば、きっと自分はその人を不幸にする。自分は、どうしたって人と共に生きることはできない。
 ──もう、過ちは繰り返さない。繰り返すわけにはいかない。

 だから、このレッスンの終わりに──いまはジョナサンたちと離れることになっても、これだけは伝えておきたかった。

「ジョナサン様、ディオ様」

 ニナがそう言って、両隣にいるジョナサンとディオの腕を引き寄せて、身体を近づけた。陽が落ちた風の冷たさに抗おうと、体温を分け合うように。

「あなたがたがスクールに通って、大学に行って、大人になっても……いつか誰かと結ばれて、家族を持つことになっても……子が生まれ、その子がまた子をもつ頃になっても……きっと、わたくしは、あなたがたを見ています。あの星たちが、いつも変わらずいるように」

 ニナは腕を上げて、星空に手のひらをかざした。それから下ろして、またジョナサンとディオの腕と組んで、2人の手を強く握った。

「わたくしはいつも、ジョナサン様とディオ様が健やかであるように、祈っています。……この先、辛い、苦しみの日があったとしても、わたくしはずっと、あなたがたの味方でいます。そのことを、どうか……どうか忘れないで」

 ジョナサンは、ニナ、ニナ、と名前を何度か呼ぶと、彼女の腕にぎゅう、としがみつくようにして、にじみ出てきた涙をぬぐった。
 ディオは、ニナの言葉には答えなかったが、繋がれた手を握り返した。

 星たちは夜の帳に輝いて、薄く膜が張ったニナの瞳を、静かに照らしていた。


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