04


 春の午後に傾いた日差しが、カーテンの隙間からもれている。部屋は薄暗いけれど、チェスは細かい文字などを見る必要はないから、ろうそくの火は灯されないままだ。別の応接間に移動したディオとニナは、小さめの円盤を載いた猫足テーブルの上にチェスボードを用意して、そこに一つずつ駒を並べていく。木でできたボードと駒は、つるつるとして手触りが良い。
 駒を並べ終えると、ディオが白と黒の駒を一つずつ、それぞれ手に持った。ニナが左手を選ぶと黒だったので、ディオが先攻になった。
 静かな部屋に、こつん、こつん、という駒を盤面に進める音だけが、鳴ってはすぐに消えていく。

「ディオ様は、いつからチェスをやっていらっしゃるのですか」

 数手進んだあとに、ニナが聞いた。

「小さいころに、母に頼んでチェスセットを買ってもらったんだ。……だから6つの頃にはルールを覚えてやっていたな」

 ディオがポーンの駒を進めた。

「そうですか。そんな早くから」
「うん。母が死んだのはそのあとすぐだったから、よく覚えているよ」

 こつん、こつんと、一定の速さで駒が進められていく。

「まぁ。そんな早くに御母上を……。……お辛かったでしょう」
「……そうだね。でも、もう大丈夫」

 ディオは、ナイトの駒に触りかけたが一瞬手を止めて、ポーンを進めた。

「それからは、御父上とお二人で過ごしてきたのですね」
「……うん」
「御父上とチェスで遊んで、強くなったのでしょうか」

 ニナがビショップを進めたのを見て、ディオはルークに手を伸ばそうとしたが、ニナにそう聞かれると手を下ろして、盤面から目を離した。

「……いいや。ぼくがチェスを続けたのは、……酒場にいる飲んだくれの大人たち相手だ」
「……酒場の。……」
「…………あのときは生活するのがやっとだったから、お金が必要だったんだ。だから大人相手に賭けをした。酔っ払い相手なんかに、ぼくは負けなかったからさ。そうしているうちに、強くなった」

 ディオは再び伸ばした手をぎゅうと握りしめて、それからルークを進めてそう言った。
 ニナは次の手を進めない。ディオのターンが終わるとすぐに駒を進めていたニナの一定のテンポが初めて中断したので、ディオは盤面から顔を上げてニナのほうを向いた。すると、彼女が、ディオが初めて見る表情をしていることがわかった──ニナは、眉を下げて、涙は出ていないけれど痛みを堪えるような、憂うような瞳をしていた。
 ニナはゆっくりと手を伸ばして、ディオの手をやんわりと包んだ。白くて柔らかい、温かな手だった。ディオは、その体温が握りしめて冷たくなっていた自分の手に移ってくるのを感じる。

「……ディオ様、本当に大変だったでしょう。よく、これまで、頑張ってきましたね」

 そう言ったニナの瞳を見て、その手に触れていると、ディオの心の底に温かいものが落ちてきたような気がした。ディオは、初めてニナの「ほんとう」を見たのだとわかった。穏やかで、優しくて、柔らかくて、温かい。取り繕った笑みと言葉を向けても決して見ることのできなかったものが、いま目の前にいて、自分だけを見ている。自分だけを思っている。
 ──このひとの手は、声は、瞳は、なんて、心地が良いのだろう──そうはっきりと言葉にして思ったわけではなかったけれど、ディオの心の底にはあふれるような温かさが思いがけず入り込んできて、冬の静かな水底のようだった場所に、光がさした気がした。

 けれど同時に、ニナの穏やかな眼差しと、優しいけれどどこか悲しみを含んだ声色に、ディオはむず痒さを覚えた。これと似たような瞳をどこかで、遠い昔に見たことがある気がしていた──いや、ディオは、見たことがあると知っていた──「ディオ、あなたの瞳の色、わたしにも父さんにも似ていないわ。だけど、とってもきれいね……」──「ディオ、あなたチェスが好きなのね。父さんに似たのかしら……」──「ディオ、大丈夫よ。わたしはどこにもいかないから……」──「ディオ、どうか、どうか父さんと一緒に、幸せに、笑って、ずっと……」──いくつかの光景と、誰かの声の記憶が、短い間にディオの脳裏をかすめていった。
 ディオは目を瞑って、一度かぶりを振った。そうすることで、この温かさに蓋をして、知らないふりをした。このむず痒さの正体を言葉にしたとき──この温かいものを知っている心に気がついてしまえば、きっと自分の野望の灯火は掻き消えてしまうだろうと分かっていたから。

「……別に、たいしたことじゃあないさ」

 ディオは、自分の手を引っ込めてニナの手から離すと、むず痒さを眉間のしわにしてごまかした。


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