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 本来ならレッスンの時間だったけれど、ニナと、泣き腫らした目をしたジョナサンがジョージの書斎に現れたものだから、その日は仕事やレッスンを忘れて3人でおしゃべりをすることになった。ニナは退室しようとしたけれど、ジョージもジョナサンも、ニナにいてほしいと言った。
 紅茶と、いくつかの茶菓子をメイドに頼んで、談話室に置かれた広いソファに並んで座って、ジョージはぽつりぽつりと、とりとめのない話から始めた。
 ジョージは、いままでにないほど話し上手になって、メアリとの思い出を語った。初めて出会ったのは社交パーティーだったこと。パーティーなんてつまらないと思っていたのに、メアリが現れた瞬間、彼女に見惚れて、時間が止まったように感じたこと。弱小貴族が貿易で財を成したものだから、交際中もメアリの父からはしかめ面をされたこと。それでも両親を根気強く説得して、結婚までこぎつけて──ジョナサンが生まれたこと。

「おまえが生まれてすぐのころ……3人で、ロンドンに旅行に行ったんだ。親戚たちにおまえを見せに行くためにね。そのついでに、ロンドンで有名な骨董商に立ち寄ったんだ。メアリたっての希望でね。そこで見つけたのが、エントランスホールに飾ってあるあの仮面だ──ジョナサン、おまえと同じように、おまえの母さんも、歴史学が好きだったんだよ」

 ジョナサンはそれを聞くと泣きそうな顔で笑って、そうだったんだ、と言って、ニナと顔を見合わせてまた笑った。

「帰路につこうというときになって、いつも頼んでいた御者が急病で、代わりの者が……まだ馬車を扱って数か月の者が来た。それからロンドン市街を出たとき、天気が変わって、雨になったんだ」

「しばらく雨が止みそうにないとわかったとき、すでに山の中にさしかかっていた。……あのときは、山の途中に事故が多発する崖があることは、わたしたちの誰も、知らなかったんだ」

「しばらく走っていると、何度か大きく揺れるときがあった。御者に大事ないかと聞くと、問題ないと言うので、走り続けていた。それで、また揺れた、今度は一番大きな揺れだ、と思ったら──」

 ジョージは言葉を切った。眉間にしわを寄せて、目をぎゅっと瞑って──ジョナサンとニナは、ジョージの手を握った。

「次に目が覚めたときには……わたしは馬車の外に放り出されていた。雨がひどく降っていたよ。全身がとても痛くて、足の骨が折れているということだけはすぐに直感した。何が起こったのか、ここで何をしているのか、しばらく頭がぼんやりとしていたけれど……。しかし、幸運にもちょうど、紳士とご婦人が通りがかって、わたしを介抱し、助けを呼んでくれたんだ。わたしはその紳士に、妻と息子は無事かと聞いた……」

「妻は……メアリは……ジョナサン、おまえを落下の衝撃から守るように抱えて、亡くなったんだ」

「……仕方がなかった……仕方がなかったのだよ。いろいろな偶然が重なって、誰の意図でもなく、誰のせいでもなく、起こってしまったことなのだ。だけれど、ジョナサン、おまえがこのことを知ったら……わたしは、おまえが自分の代わりに母さんが死んだと思うのではないかと恐れた。……そうなるくらいなら、何も言わない方がいいと、思っていたのだ──しかしそれは間違っていた。わたしは間違っていたよ、ジョナサン。おまえは、……おまえは何も知らない子どものままではないのだね。真実に向かって進んでいける、強い子なのだね」

 そこまで言うと、ジョージの目からは涙が流れた。ジョナサンは、父さん、ごめんなさい、きのうあんなひどいことを言って、と父に縋りついた。ジョージは、ジョナサンを受け止めながら、いいんだ、わたしもおまえを叩いて悪かった、と言って、ジョナサンの頬をなでた。

 この光景に、ニナは「人間らしさ」を見た気がした。息子を守ろうとして本当のことを打ち明けなかったジョージ、成長して本当のことを知ろうとしたジョナサン、二人のすれ違いと、和解。12年ほどの間、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた愛情と渇望、思慮の糸が、ようやく解けたのだ。人間の心とは複雑で、潜在的で、時には非合理的で──だからこそその営みは、その心とはかくも美しいのだと、ニナは思った。

 けれども同時に、ニナは、自分の胸が苦しいような、締めつけられるような気がした──ジョージとジョナサン、父と子が笑い合って抱き合う姿を見て、遠い昔に決別したはずの感情が、置いてきたはずの景色が浮かんできたから──わたしを呼ぶ声。低くて、優しい、落ち着いた声。大きな背中、風に長い髪がなびいて、彼を呼ぶと振り向いて、微笑んだ──「父とは呼ぶな。私はおまえの父親ではないのだから」。そう言ってあのひとは、わたしの頬に指を滑らせた──。

 ニナはわずかに一度、かぶりを振った。胸の苦しみを否定するように、遠い昔に置いてきたものを、再び遠ざけるように。
 ──もう、戻らない。わたしは戻らない。わたしには、やらなければならないことがあるのだから。ニナは、そう言い聞かせるように、何度も胸の中で繰り返した。

 ジョナサンは、泣いて腫らした、けれど澄んだ瞳をして、ニナもありがとう、と言って手を差し出した。その手をとって、ニナも笑ったのだった。


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