09


 ジョースター家はリバプールの地方貴族として何代か続く家柄で、使用人や貿易の商売の労働者たちからの評判は至って良いものだったけれど、町の住民の中には、貴族とそれ以外、上流と労働者という階級差への不満を持つ者も当然いた。子どもというものは、大人たちの態度を、たとえそれがあからさまなものでなくても感じ取って真似するもので、ジョースター家、ひいては特権階級への不満を持つ大人を見ている町の子どもたちには、ジョナサンが屋敷の外で遊んでいるのを見つけると、彼をからかったり、彼に聞こえるようにわざと大きな声でジョースター家の悪口を言ったりする者もいる。そしてジョナサンはそれを受け流すことができず、いくつかの傷や痣をつくって遊びから帰ってくることがあった。
 ジョージはジョナサンをどんなときも愛しているし気にかけているけれど、息子を立派に育て上げんとする気持ちが突っ走ってしまうこともあった。ジョナサンの素直な性分は気持ちのいいものだと皆が思うが、それゆえに悪知恵のはたらく他者に利用されてしまうことがあって、そんなときジョージは、上手に立ち回ったり本音と建前を使い分けたりすることのできないジョナサンの将来が心配になり、つい厳しい言葉を投げてしまうのだ。投げられたジョナサンのほうは、多くの場合はごめんなさいと謝って、そのあと自分の部屋に行って一人で数分泣いたり、家政婦のヒューズやバトラー、またはニナがいるときには彼女に話を聞いてもらったり、ダニーと遊んだりして気を紛らわすが、ジョナサン自身の虫の居所が悪いときには、ジョージに反抗的になることもある。

 その日もまた、ジョナサンが外での遊びから帰ってくるなり、眉間に深くしわをよせて、口を横にまっすぐ引いて、衣服を土だらけにして帰ってきた。バトラーはその様子を見てジョナサンの顔を拭いてやり、替えの衣服を用意し、髪をとかしてやった。それでもジョナサンの顔にむすっとした表情が貼り付いたままで、自分から何があったのかを話そうともしなかった。バトラーは、今日は一段と機嫌がお悪いようだ、彼が一番よく懐いているミス・クラークは今日は来てないし、どうしたものか、と思案した。
 夕食時になっても、ジョナサンの表情は暗いままだった。ジョージは、あまり食の進んでいないジョナサンにどうしたのかと聞いたけれど、ジョナサンはジョージの方を見ないし、何も答えない。ジョージは、沈黙を決め込むジョナサンに一つため息をついて、また近所の子らと喧嘩でもしたのか、今度は何を言われたんだと問うた。するとジョナサンは、きっと目を鋭くして、その奥に涙をためて、ふりしぼるように、父さんのせいだ、と言った。

「何が、わたしのせいだというのだ、ジョジョ」
「父さんが……、父さんのせいで母さんが……父さんが母さんを殺したんだッ!」

 耳に入ってきた言葉を頭で理解すると同時に、ジョージは、手がくっついて離れないほど冷たい氷柱に、心が貫かれたような気持ちになった。

「な……な、にを、言っているのだ、ジョナサン。おまえの母さんを、わたしが、殺した? 誰がそんなことを言った!」
「誰だっていいさ! そうやって、自分は殺していないと初めに否定しないのが何よりの証しだッ! やっぱり、父さんが、母さんをッ」

 ジョナサンがすべてを言い終わる前に、ジョージはナイフとフォークを投げ捨てるように置き、勢いよく立ち上がってジョナサンに近づいて、その頬を力任せに叩いた。ジョナサンは衝撃で椅子から転げ落ちた。控えていたバトラーやフットマンがジョナサンに慌てて駆け寄る。ジョージは自分でも、たったいま何をしたのか分かりかねている様子で、息子を張り飛ばしてしまった手を上げたまま、肩で息をしていた。
 ジョナサンは床に倒れたまま、大粒の涙を双眸からこぼしながら、大嫌い、父さんなんて大嫌いだと叫んだ。
 その日は、そのまま自室へ逃げるように戻ったジョナサンと、しばし茫然としたのちに額や目頭を押さえながら口を開かなくなったジョージが、再び会話することはなかった。

***

 翌日、レッスンの予定でジョースター家にやって来たニナは、前日に起こったことをバトラーから聞いた。遊びから帰ってきたジョナサンがひどく考え込んでいた様子だったこと、夕食の席で「父が母を殺した」と言ったこと、それに対してジョージがいままでにない恐ろしい形相で、息子に手を上げてしまったこと。
 ニナは、ジョースター家に来たばかりのときのことを思い出す。ニナが石仮面について尋ねたとき、ジョージは、石仮面を入手したロンドンでは妻と一緒だったと言った。そのあとしばらくしてから、奥様は事故で亡くなったのですとヒューズが教えてくれたことがあった。ニナは、ジョージはその事故についてジョナサンに話したことがあっただろうかと考えた。レッスンの前にはジョージに会うのが常だったが、まずはジョナサンの自室へ向かった。

 ノックをすると、かすかに返事が聞こえたので、そうっと扉を開けた。カーテンが半開きになった部屋で、書物やノートを開かずに置いた机の前に座っていたジョナサンは、部屋に入ってきたのがニナだとわかると一瞬驚いた顔をしたが、すぐにくしゃくしゃの顔になって、目からは涙が溢れて、そしてニナが手を広げたので、その胸に飛び込んだ。ジョナサン様、とニナが静かに呼ぶと、ジョナサンはその声に安心して、もっとたくさんの涙が出てきた。ニナはジョナサンを強く抱きしめて、何度も背中をなでる。

「ニナ……あのね、父さん……父さんに……」
「はい、ジョナサン様」
「昨日、あいつらが言ったんだ……エドワードと、ハロルドが……あいつらが、おまえの母親が死んだのは父さんのせいだって、町の人はみんな知ってるって、言ったんだ…………」
「…………」
「馬車の事故はッ……雨の日の、事故が起こりやすい場所で起こったんだって……事故が起こりやすいのに、雨なのに、馬車を走らせたからッ、……母さんが死んだんだって…………」
「…………」
「それで、ぼく、父さんに言ったんだ、昨日、父さんのせいで、母さんが死んだんだってッ! 父さんが、母さんを殺したようなものだってッ……!」

 ジョナサンはそこまで言うと、ますます嗚咽を上げて、涙と鼻水をぐしゃぐしゃにして、泣いた。ニナはとんとんと背中を静かに叩いたり、さすったりしている。
 ジョナサンが、自分に母親がいないこと、そしてそれが「普通ではない」ことに気が付いたのは、町の子どもたちと遊ぶようになってからだった。というのも、子どもたちが自分の家族の話をするとき、決まって母親が出てきたからだ。赤ん坊を抱いて仕事をする女や、乳を与える女の姿を見たこともあったし、父親と母親がいて初めて、子が生まれてくるのだと、知識としても知った。
 ジョナサンは、ジョージに、どうして自分には母がいないのかと聞いてみたことがあった。けれどジョージは、おまえが小さいころに事故でなくなったのだよ、と言ったきり、それ以上を教えなかった。そのときの表情がとても苦しそうだったから、ジョナサンはそれ以来母のことを話題にするのをやめた。やめたけれど、ジョナサンの中の「母」への渇望は、ジョナサンの成長とともに日に日に強くなっていくばかりだった。なぜ、自分には母親がいないのか、どうして死んだのかを悶々と考える日々が続いた先に、昨日、近所の子らに母親の件をからかわれ、ついに、いろいろなものが爆発したのだった。

「どうしよう、ぼく……ぼく、違うのに、そんなこと……、違うんだ。父さんが母さんを殺したなんて、そんなこと……どうしよう、ぼく、なんてひどいことを……」
「ジョナサン様」
「わかってるんだ、父さんは、殺してなんか……父さんのせいなはずないんだ……だって父さんはいまでも母さんを…………」
「ジョナサン様」

 ニナは、ジョナサンの額に自分の額をくっつけて、目を合わせて、ジョナサン様、ともう一度言うと、わたくしもわかっています、と言った。そして、ジョナサンに言い聞かせるように話し始めた。

「以前、人から聞きました。メアリ様は、ロンドンからの帰り道、馬車の事故に遭って亡くなったと」

「ジョナサン様に、メアリ様が亡くなった理由をきちんとお教えしなかったのは、……おそらくですが、ジョナサン様、あなたが傷つくのを恐れたのでしょう。母君の亡くなったときの話を聞いて、幼いあなたが傷つくのを、見たくなかったのです」

 ジョナサンは、静かに、ゆっくりとニナが話すのを聞いていた。しゃっくりはまだ出てくるけれど、涙はもう止まっていた。

「でも、ジョナサン様。あなたはもう、事実を知る勇気がありますね」

 ニナの問いかけに、ジョナサンはこくん、と頷いた。


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