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 ジョナサンのお気に入りは、歴史のレッスンだった。
 言語のレッスンは、ニナが単語と絵の組み合わせで言葉を覚えていくゲームを作ったから楽しくできるときも多いけれど、同時に単語の書き取りもやらなければならなくて、単純で単調な作業が嫌いなジョナサンにとっては気乗りしないものだ。文学のレッスンは、童話や昔話を読むのは楽しいけれど、シェイクスピアやらゲーテやらダンテの作品を読んでも、納得や共感の気持ちはわいてこなかった。絵画のレッスンは、適当に思いつくままにとりとめのないものを描いたり、外に出て植物や動物を観察しながら描くのは好きだったけれど、果物やら切花やらを正確に模写することは苦手だった。
 これに対して歴史のレッスンは、先史時代も有史以降も、イギリスでも外国でも、人間が宗教や文化、技術や科学とともに歩んできた道を知ることがジョナサンの心を躍らせ、興味を惹きつけた。それに加えて、ニナの歴史の語りは、ジョナサンにとってとても魅力的だった。ただ起こったと記録されていること、そうであると言われていることを並べるのではなく、その記録や知見がこんにちの政治や文化とどのように結びついているのかを教えてくれたからだ。歴史というものは過去の、他人のものなのではなく、現在の、自分にまで延びている、生き生きとした時間と空間の流れの中にあるのだということが、幼いジョナサンの心にも感覚として刻まれた。
 その中でも、特にジョナサンの興味をそそったのは考古学と呼ばれる分野だった。文字としての記録がほとんど残されていない分、自ら切り開いて手にした遺物と自分の想像力を組み合わせて過去を再現するというプロセスは、ジョナサンの志向にぴったりとはまるものだった。

 ニナは、教えたことを乾いた土の如く吸収していくジョナサンを見て楽しんでいたから、レッスンではいつも笑顔だった。けれど、ある日の歴史のレッスンで、ニナが笑みを失くした瞬間があった。

 その日は、古代ローマ史のレッスンだった。
 イタリア半島のティベル河畔にうまれたラテン人による都市国家が、紀元前6世紀末に共和制を樹立したこと、貴族が官職を独占して平民を支配したことなど、ニナは、古代ローマの起源と政治体制についてのいくつかを説明した。それから、参政権と言えば、女性にも参政権を拡大するように訴えて、下院議員選挙に当選した方がいたのですよ、6年ほど前に亡くなったのですけれど、と付け足した。

「話を戻しましょう。政治参加を求めた平民と貴族の間の闘争はしばらく続きます。紀元前367年にはリキニウス・セクスティウス法が成立して、貴族の土地所有に制限が設けられます。このころ、平民が重装歩兵としてローマの国防に参加するためには、かれらが土地をもち武器や防具を用意するだけの蓄えが必要だったからです。──それから紀元前287年のホルテンシウス法によって、元老院の許可なしに平民会の議決がローマの国法となることが可能になりました」

「国内の闘争と並行して、ローマは領土を拡大していきます。紀元前4世紀からの100年ほどで、ローマはイタリア半島を統一しました。征服した地域には当然それぞれに異なる民族が住んでいましたが、ローマは”分割統治”と呼ばれる統治を行いました。それはすなわち、支配する民族を3つに分けて──ローマ市民と同等の市民権を持つグループである植民市、民法的な市民権に軍事と裁判以外の自治権があるグループである自治市、そして市民権も自治権もないグループである同盟市に分けて──統治したのです。そして、この被支配地域間で関係を結ぶことは禁じられました。──ジョナサン様、なぜローマは分割統治を行ったと?」
「ええと……自分たちと近い文化をもっている民族を特別扱いしたかった……からかな。ううん、いや。そうだなぁ、ええとね……そうだ!人は自分より下の存在がいると、安心するからじゃあないかな。前にもニナが言っていたね。つまり……植民市は自治市や同盟市がいることで安心して、ローマにあまり反抗しなくなるのかも……」
「さすが、ジョナサン様。とても良い答えですわ。わたくしの言ったことを覚えていらっしゃたのね。素晴らしいわ。──それぞれのグループがローマの支配から抜け出そうとすれば、大きな武力が必要です。大きな武力のためには、被支配地域間で結束することが不可欠です。しかし、それぞれの地域に与えられた権利に差があれば、ローマを打倒するための共通の目的や利害が生まれにくくなります」

 そこまで説明して、ニナは微笑んだ。ジョナサンは、ニナに褒められたことが嬉しかった。ニナは、ジョナサンがどのように答えても、それが間違っていたとしても、いつもどこか長所を見つけて、素晴らしいと褒めるのだ。

「地中海を制覇したローマでしたが、それは同時に長年の戦争と従軍による農民たちの困窮を意味しています。また、支配地域の拡大に伴って、その統治を担当した貴族や騎士階層が権力をもち、貧富の差や武力の差は広がりました。共和制が揺らぎ始めたのです。紀元前1世紀は内乱の時代となりました」

「このころ出てきたのが、有力な政治家たち──ポンペイウス、クラッスス、そしてカエサルです。彼らによる政治は”三頭政治”と呼ばれましたが、クラッススの戦死、ポンペイウスの暗殺によって権力を手中に収めたカエサルは独裁官になりました。しかし、彼もまた暗殺され……。カエサルの部下だったアントニウス、レピドゥス、そしてカエサルに後継者として指名されたオクタウィウス──のちのローマ帝国の初代皇帝による”三頭政治”が再び行われたのです。しかし、レピドゥスは失脚し、アントニウスによるカエサルの遺産の着服問題などがオクタウィウスとの対立を深め、エジプトの女王クレオパトラと結んだアントニウスは、アクティウムの海戦でオクタウィウスに敗れました。これによって、内乱の1世紀はひとまず終了し、紀元前27世紀からはオクタウィウスによる帝政が始まります。名実ともに、ローマ帝国が誕生したのです」

 ここまで話すと、ニナはデキャンタに手を伸ばして、コップに水を注いだ。それを一息つく合図だと受け取ったジョナサンは、彼女の話を聞きながら書いたキーワードどうしをつなげたり、書き加えたりして、ノートにメモを取っていく。ニナのレッスンが始まってもう6年になるが、ニナはジョナサンがメモを取るのに困らない長さで話をすることに慣れたし、ジョナサンはニナの話を、その要点を押さえて憶えながら聞くことに慣れてきていた。歴史のレッスンの内容を記したノートは、もう8冊目になる。

「……ようし。ニナ、書き終わったよ。たくさん人の名前が出てきて覚えるのが大変だけれど、結局オクタウィウスがローマ帝国を──」

 ノートを書き終えて、顔を上げたジョナサンは、そこまで言ってから、はっとした。向かいに座っているニナの顔から、笑みが消えていたからだ。それどころか、つかみどころのない表情で俯いて、その瞳は、どこを見つめているのか分からなかった。なにか遠いものを見るような、焦点の合わないような瞳だった。
 初めて見る表情だった。6年間も一緒にいて、ニナはいつも笑っていたから。ジョナサンを窘めるときでさえ、ニナの瞳はジョナサンをしっかりと捉えて、その奥には優しさがあった。いまは、一番近くにいるジョナサンを、見ていなかった。

「……ニナ。……ニナ?」

 そうジョナサンが呼ぶと、はっ、と小さく息を吸い込んで、ニナは顔を上げた。遠いところにあった意識が戻ってきたかのようだった。

「ニナ、顔色が悪いように見えるけど……具合が悪いのかい」

 ジョナサンの問いかけに、ニナはいいえ、少しぼうっとしていました、と答えた。その表情は、いつも通りのものに戻っていた。


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