05


 春はジョナサンの好きな季節だ。茶色い葉が少し残っただけだった木々に、ただ冷たいだけだった川に、殺風景な野山に、暖かな色が芽生える。陽が長くなって、外で遊べるようになる。
 ジョナサンは今日のレッスンが終わると、バトラーから、屋敷から3マイルほど離れた場所にある牧場で、今夜あたり羊の出産があるだろうという話を聞いた。ジョージに見に行ってもいいかと聞くと、夜だから従者をつけなければならないよ、という返事を是と捉えて、ジョナサンは喜んだ。
 いつも夕食後に帰るニナがまだ屋敷に残っていたので、一緒に見に行かないかと誘うと快諾されて、ジョナサンはまた喜んだ。

 夕食後、夜の帳が落ちて月が雲に隠れたり現れたりするようになった頃、ジョナサンとニナ、それからフットマンが一人、牧場に到着した。夜は冷えるので、厚手の上着を着て、襟巻と手袋も持ってきた。ジョナサンは、この牧場で遊んだことや動物の子どもを見たことはあったけれど、出産を見るのは初めてだった。どのようなものなのか、期待と、わずかな緊張があって、身体が落ち着かない。
 出産を控えた羊は、小屋に敷き詰められた藁の上に立っていた。そわそわとして、敷き藁をかき集めたり、鳴き声を上げたりしている。こいつは初めての出産なんだ、だから緊張している、と農夫は言った。ジョナサンとニナは柵の向こう側で見守ることになった。

 2時間ほど過ぎても、まだ子羊は出てこなかった。いつもなら寝る準備をしている時間なので、座っていたジョナサンは一つ大きなあくびをした。けれどニナが、ジョナサン様、もうお帰りになりますか、と聞くと、ううん、帰らない、と答えて立ち上がった。ニナはきっともう少しですよ、と言った。

 それからさらに30分ほど経つと、母羊が頻繁に鳴き声を上げたり、寝たり起きたりを繰り返すようになった。そのうちに、母羊の陰部からは赤褐色のものが落ちてきた。それを見た農夫は、そろそろだな、と言った。
 しかしそれから数十分経っても、子羊は出てこなかった。農夫がしかたねぇ、と言いながら腕を羊の産道に挿入したので、ジョナサンはぎょっとした。母羊が苦しそうに鳴いているのに、心がかき乱された。気が付いたらニナの手を握っていた。

 こりゃ双子だな、と言って農夫が険しい顔をした。産道が狭いのに2匹も胎内にいるから、うまく出てこられないんだ、と説明した。産道に手を入れて、感覚で子羊の位置を確認し、1匹ずつ引き出せるように調整している。ジョナサンは自分の心臓がどきどきと音を立てているのがわかった。ニナの腕にしがみつくと、ニナはジョナサンをやんわりと抱きとめた。

 ついに、最初の子羊が出てきた。初めに足が見えて、農夫が少し引っ張ると顔が見えた。そしてそのままずるりと引っ張ると、勢いよく子羊が出てきた。「生まれる」という表現は、これを表すためにあるのだとジョナサンは悟った。母羊は、半透明の膜がついた子の顔や身体を一生懸命に舐め始めた。子羊は、ふるふると顔を震わせて、まだ力の入らないだろう足で起き上がろうとしていた。ジョナサンは、それを食い入るように見つめている。
 1匹目の子羊が起き上がり、時折ふらふらしながらも母羊の母乳を求めている。母羊が横たわるが、まだ2匹目は出てこない。

 それから数十分経ってやっと、農夫によって2匹目の子羊が引き出された。母羊は子羊の身体を舐めるが、子羊は動かない。そのうちに母羊は舐めるのをやめてしまった。農夫は残念だったなぁ、といって母羊の体をぽんぽんと優しく叩いた。ジョナサンはニナを見上げて言った。

「ねぇ……ミス・ニナ、あの、2匹目の赤ちゃんが動かないよ。元気がないんだ……お母さん羊も、舐めるのをやめちゃった……」
「………ジョナサン様。2匹目の赤ちゃんは、死産だったのですわ」
「しざん?」
「あの子は、生まれる前に死んだのです」
「……………」

 ジョナサンは、もう動かない子羊を見つめた。見つめているだけなら、触れば温かそうで、すぐに動くような気がするのに、もう動くことがないなんて信じられなかった。
 「死」とは何なのかということを、ジョナサンは深く理解はしていなかった。幼いころに、父からまだ自分が赤ん坊のときに母は死んだと聞かされた。使用人が、親族が亡くなったといってしばらく休暇を取ることがあるのを知っていた。ニナと読んだ文学の中で、登場人物が名誉のために死を選ぶというシーンがあった。
 言葉としては「死」を知っているはずだったけれど、実際に見たのは初めてだった。
 ジョナサンはニナの顔を見て、悲しい顔をしている、と思った。それから「死」とは、きっと悲しいことなのだと思った。そう思うと、自分も悲しくなってきた。もう1匹の子羊は、母羊のそばで母乳を求めてよちよちと歩いているのに。母羊は、そんな子羊をしきりに舐めているのに──この子羊はもう動かないし、触っても冷たくて、鳴き声も上げたりしない。母羊に舐めてもらうこともない。

「…………ねぇ、ミス・ニナ。赤ちゃん、死んでしまって、かわいそうだね」
「……ジョナサン様……」

 ニナがしゃがんで、ジョナサンと同じ目線になった。ジョナサンは、頬に落ちた雫をニナの指がすくうのを見て、自分が泣いていることに気が付いた。

「ジョナサン様。大事なことを申します」

 ニナはジョナサンの頭をそっとなでながら、ゆっくりとした口調でそう言った。

「死とは、誰にでも等しくやってくるのです。自分の意志とは関係なく、誰もがいつかは死ぬのです。わたくしも、ジョナサン様も、ダニーやジョージ様も、いつになるかはわからないけれど、二度と動かなくなるときが来るのです」
「……うん」
「けれど、それはかわいそうなことではないのですよ。たしかに、残された者は悲しむでしょう。泣いても泣いても、涙が止まらなくなるかもしれません。けれど、死ぬということは、かわいそうなことではないし、ましてみじめなことでもないのです」
「…………どうして」
「いつか死ぬということは、いま生きているということだからです。いつか死ぬことを否定してしまったら、いま生きているということを、否定することになるのです」
「………………」
「あの赤ちゃんは、生まれる前に死んだけれど、母羊のお腹の中で、たしかに生きていた時間があったのですよ」
「…………うん……」

 ニナは、ジョナサンの涙が止まるまで、ずっと彼を抱きしめていた。


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