04


 勉強が特別好きではなかったし、音楽やマナーといった他のレッスンは仮病を使って休んでしまったこともあるジョナサンだったけれど、ニナのレッスンは別だった。
 ジョナサンは、ニナと過ごす時間がこの上なく好きだった。日光が苦手なニナのために、あまり陽の入らない部屋を整理した。カーテンが閉じられた薄暗い部屋に数本の燭台を置いて、ニナが遠い異国の文化や宗教、歴史について教えてくれる時間は、ニナの語りによって見たことのないはずの景色が浮かび上がってきて、まるで実際にそこにいるかのような幻を見せてくれるのだ。部屋は暗くとも、決して目蓋が重くなることはなかった。むしろ、ニナの紡ぐ物語に夢中になるあまり、夜も寝付けないことがあるくらいだ。
 言語と絵画のレッスンは明るい部屋で行うけれど、こんどはニナが黒いレンズの眼鏡をかける。
 ジョナサンは、ニナには知らない言葉がないのではないかとさえ思えていた。文学や歴史の資料を勉強するとき、ジョナサンが見たことのない文字や聞いたことのないことわざが出てきても、ニナに聞けばすぐにいつの時代の、誰が使っていた言葉なのかを答えてくれる。
 どうしてニナはそんなにいろいろなことを知っているの、とジョナサンが問いかけると、あなたよりもずっと長く生きて、お勉強してきたからですよ、ジョナサン様、とニナはレンズの奥で笑った。

***

 ニナは1年に2回くらい、旅に出ると言ってしばらくレッスンに来なくなる期間があった。
 その期間は短くても1か月、長ければ3か月になることもあった。明確な行先は告げず、何をするのかも言わず、しばらく旅をしてきますとだけジョージに伝える。長期の不在の際には、必ずジョージとジョナサン、使用人たちの健康を気遣う手紙が、小さな紙に描かれた風景画とともに送られてきた。その風景画は、イギリスの他の地方のものもあれば、フランスやオランダ、イタリアなどの別の国のものも、あるいは図鑑でしかお目にかかれないような、メキシコや南アメリカ大陸のどこかの国のものであることもあった。
 ジョージや使用人たちは、ニナは近しい家族がいないはずだから、親戚あるいは誰か特別な男性と一緒にバカンスをしているのだろうと思っている。けれど、しばらくぶりにリバプールのジョースター家を訪ねてきたニナに旅のことを聞いても、どこに行って何を見た、という報告しかなく、誰と何をしたのかについては謎のままだった。

 ニナは、自分のことを多く語る女ではなかった。語るべきことを持ち合わせていないのではなく、語るべきことを選んでいるという感じだった。けれどジョージもジョナサンも、そのことを不快に思ったことはない。ニナの心の底はみえないけれど、それが濁っていないということは確かだったからだ。彼女がジョナサンと遊ぶときの笑顔も、ジョージと世間話をする声色も、使用人たちを気遣う瞳も、ダニーをなでる手つきも、すべて心のこもったものだった。

 ニナもまた、このジョースター家にいる時間を好んでいた。
 ジョースター家のガヴァネスを担当するためにロンドンからスタッフォードまで列車で来たニナを、リバプールまで馬車で送り届けてくれた御者の話をニナは道中ずっと聞いていたけれど、そのときジョージ・ジョースターという人は労働者や使用人からたいそう慕われているのだと知った。もともと地方の小さな貴族だったのが、貿易を家業とした数十年前に大成功してリバプールの邸宅を大きくしてからも、労働者や使用人たちへの面倒見がよく、雇用主として満点だと皆が褒めている、と御者は言った。
 実際にジョージに会ってみても、ニナは、このような気持ちのいい人はそう多くはいないだろうという感想をもった。ガヴァネスである自分を見くびる様子は一切なく、自身の地位や財をひけらかすこともしない。ニナを家族のようにもてなし、他の使用人たちへの気遣いも忘れない。さらには一人息子のジョナサンも、まっすぐで素直な、元気な子だった。やや向こう見ずなところはあるけれど、ジョナサンが笑うとニナも嬉しかった。彼は物覚えが抜群にいいとは言えないが、ニナの話をきらきらとした瞳で聞いて、質問があればすぐに手を挙げ、宿題を課せば必ずやってきた。ニナは、ジョナサンにいろいろなことを教えるのを楽しんでいた。
 これまでニナがメイドやコンパニオンとして働いてきた経験には、何人かの男たちにいやらしい目で見られたり権力をこれ見よがしに誇示されたり、女たちには中産階級出身であることをそれとなく揶揄されたりすることがあった。ニナは別にいちいち腹を立てたりはしないが、いつの時代も人間は自分を飾ろうとするものなのだ、何によって飾ろうとするかは変化するけれど、と思って短くため息をついたことはあった。

***

 ジョースター家への道を歩くことに慣れてきたころ、ニナは、ジョースターの屋敷のエントランスの壁に飾られた仮面について、ジョージに尋ねたことがあった。その仮面の材質はおそらく火成岩で、目と鼻、そして牙が覗いている閉じられた口が彫られている。ところどころヒビや欠けがあって、精巧とはいいがたい作りだが、不気味な存在感があった。

「ジョースター卿、少しお尋ねしたいことが。……エントランスに飾られている、あの石でできた仮面は……」
「それはね、昔……ロンドンの骨董店で見つけたものだよ。メキシコの遺跡でみつかったそうなんだ。ミス・クラーク、きみならアステカ文明というのを知っているね。その遺物だそうだよ」

 そこまで言うと、ジョージは顔を伏せて手で口元を覆って、一度息を吸って吐いた。

「いや、すまないね。ロンドンでそれを購入したときのことを思い出してしまって。……そのときは、まだ乳飲み児だったジョナサンと、……妻と、わたしの妻と一緒だったんだ」
「……奥様と。……」
「うん。メアリというんだが……、これは、彼女が選んだ品だったから、ここに………」

 ジョージは手で顔を覆って、すまない、ともう一度つぶやいて、その先を言うことはなかった。ニナは、ジョージの空いているほうの手を取って、しばらくなでていた。


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