03


 新しく来た子犬の名前は「ダニー」になった。ジョナサンがAからZまで思いつく愛称を書きだして、その中から決めたのだ。ジョナサンは最後までダニーにするか、オリィにするか、それともハルにするか迷っていたが、それぞれの愛称で試しに子犬を呼んでみたら、ダニーと呼ばれたときにバウ!と返事をした。だからダニーになった。
 ダニーの散歩はジョナサンの役割になったけれど、ジョナサンはダニーと接するときにまだ少し慎重だ。ダニーに近寄りはするが、ダニーがじゃれようとすると逃げ腰になる。人が怯える様子を見せると、犬というものはますます強気になり、人を追いかけたり覆いかぶさろうとしたりするものだ。ダニーは用を足す場所はすぐに覚えたし、「ステイ」もできる賢い犬だったけれど、ジョナサンがおっかなびっくり接するので、どのように飼い主と付き合えばよいのか、まだわからなかった。
 そうしているうちに、ジョナサンとダニーの関係はすっかり悪化してしまった。ダニーはジョージや使用人たちの言うことは聞くのに、ジョナサンの言うことには反応を示さない。家族内構成員を順位付けるという犬の習性を知っているジョナサンは、ダニーが自分を下の順位に位置づけていると言って怒った。ダニーのじゃれつきが激しいときはほうきをもって対抗してみたり、ダニーが言うことを聞かないときは小石を投げつけてみたり。その現場に遭遇したジョージはジョナサンの行動を叱ったし、何度かニナも窘めたのだった。

 転機はその年の7月の末に起こった。
 1年で一番暑い季節だった。ジョナサンは、レッスンの合間に屋敷のすぐ裏手にある川に向かった。父やニナ、ナニーとの散歩のときに何度か川の浅瀬で遊んだことがあって、今日この暑い日に泳いだら気持ちがいいだろうと思ったからだ。靴とソックスを脱いで川に入ると、さらさらと静かに流れる川の温度はひんやりとして、足の裏に触れる小石がごつごつとして少し痛い。夏の太陽の下、川は透明で光が底まで届いていた。大人たちには、遊ぶのは浅瀬だけですよ、と言われるから、一人で来た今日はもう少し奥の方まで行ってみようと足を進めたのがいけなかった。
 川が透明に澄んでいたからわからなかったが、急に川底に足がつかなくなったのだ。一気に頭が少し出るくらいの深さになり、じゃぼんと音を立てて川に一度沈んだジョナサンは、すぐに顔を出そうともがいた。しかし驚きと恐怖で焦ってしまって、しかも軽装をしているとはいえ、水を含んだ衣服はかなり重い。必死に手で水を掻き浮かび上がって、言葉にならない悲鳴を上げ、助けてッ!と数回叫んだ。
 数秒が経過し、このまま誰も来なかったら──とジョナサンの頭に最悪のことがよぎったとき、犬の吠える声とともに、白い影が現れた。ダニーだった。ダニーは何のためらいもなく川に飛び込み、上手に犬かきをしてジョナサンのところまで寄って、首元を咥えてまた岸まで戻っていく。ジョナサンは息切れを起こして咳をしながらも、岸に近づいてすぐに川底に足がついたのがわかった。
 ジョナサンがなんとか身体を土手の草むらに横たえると、ダニーはぶるぶる、と全身を震わせて水を払った。ジョナサンの呼吸はうまく整わなくて、しばらく荒い息をしながらも、彼はまず安堵した──怖かった、びっくりした、死ぬかと思った、でも助かった、よかった。次に、なかなか起き上がらないジョナサンの周りをぐるぐると回るダニーを見た──ダニーが助けに来てくれたんだ──あんなに自分を嫌っているように見えたダニーが。
 咳はおさまったけれど、こんどは涙と鼻水が出てきてしまった。ジョナサンの気持ちは、その鼻水に濡れた顔のようにぐちゃぐちゃだった。助かったことの安堵、川に入らなければよかったという反省、そして、ダニーへの謝罪と感謝。いろいろな感情が混ざり合って、この気持ちたちをきれいに言葉にすることは、幼いジョナサンにはまだできなかった。

「ごめんよ、ごめんよダニー。ぼくは、ぼくはおまえを……、おまえを悪いやつだと、思っていたのにッ、ぼくはッ……。ありがとう、ありがとうな、ダニー。ほんとうにありがとう……」

 ジョナサンはしばらく泣いていたが、そのうちにダニーが猛スピードで駆けていったことを見ていた使用人が一人、ジョナサンが岸で蹲っているのに気が付いて慌てて走ってきた。ダニーはジョナサンの手や顔をなめたり、少し尻尾を振ってはジョナサンの周りを半周してみたり、ぶるぶると身体の水を払ったりしていた。ジョナサンはダニーを精一杯ぎゅうと抱きしめた。

 ジョナサンが屋敷に帰ってきてから、使用人たちが少し慌ただしくなったのを見たジョージとニナは、すぐにジョナサンのもとに向かった。そして、髪を乾かされながらジョナサンが一部始終を話すのを聞いた。ジョージは少し険しい顔をして、だから川は一人で行ってはいけないんだ、少なくともおまえがもっと大きくなるまでは、と言ったが、すぐに優しい顔になって、無事でよかった、とこぼした。ニナは、ほんとうにご無事でよかった、ダニーもよくやったわね、と言って手や服が濡れるのも厭わずにダニーをなでて、抱きしめた。
 その日のレッスンは中止になったけれど、その代わりジョナサンは、今まで触れ合わなかった時間を埋めるように、ダニーの身体が乾くように何度も手ぬぐいで拭いてから、そのからだに丁寧に櫛を通したのだった。


prev back to list next
- ナノ -