それは、酷く月が綺麗な夜だった。
いつものように衛宮家で夕飯を食べ終えたわたしは、士郎と一緒にお皿を洗ってからお風呂を借りて、夜の番組を大河ちゃんと観賞していた。
「士郎ー、お茶ー」
「またかよ藤ねえ!お茶ぐらい自分で淹れろよなっ!」
煎餅を齧りながらお茶を求める大河ちゃんと悪態吐きながらもしっかり用意をする士郎。このふたりは時々どちらが年上かわからなくなる。そうこうしているうちに言い争いが始まった。こうなると長いのだ。少し避難しよう。姉と弟のような双方のやり取りを聴きながら居間を出る。和室に続く廊下を歩いていたら、冬だというのに開け放した縁側に座る痩身が眼に入った。
「…切嗣」
名を呼ぶと和服の男は痩せこけた顔をこちらへ向けた。
「楪か。どうしたんだい?」
穏やかな口調で彼は問う。わたしは苦笑いで返す。
「士郎と大河ちゃんが小競り合いはじめたから避難してきたんだ。切嗣こそ、なにしてるの?」
「ああ…月が、綺麗だと思ってね」
そう呟いて彼はゆるりと夜空を見上げた。 闇に浮かぶ月は煌々と青白い顔を照らす。
「……切嗣、」
拭いきれない死の気配を感じて思わず名前を呼ぶ。 彼は振り返らず、ただ静かに言葉を紡いだ。
「楪。きみは───僕を、恨んでいるかい」
月に溶けていきそうな声だった。 わたしは首を横に振る。
「わたしは、貴方を恨んでいない。貴方を恨むくらいなら、世界を恨むよ」
「…それでも、きみには僕を恨む権利がある。僕はきみの大切なものを幾度も壊した」
「………………」
黙り込んだわたしを見て、彼は穏やかに微笑んだ。
あの忌まわしい聖杯戦争から5年。
此処に居る衛宮切嗣はもう、昔の衛宮切嗣ではない。 その身は呪いに蝕まれ、魔術回路も喰いつくされている。 魔力も生命もほとんど残っていない抜け殻だ。 わたしは闘いが終ってから、この男の傍で生活を続けてきた。 有耶無耶になっていた祖母の遺産相続や住居の管理は大体彼がやってくれた。 もはや余命も少ない彼は、あの時助けた少年を養子に取り、父親として生きていく道を選んだ。 士郎は、あの地獄で唯一生き残った子供だ。切嗣は彼を助けた。いや、彼が切嗣を助けた。 そうして───いまの生活が在る。 養子の士郎と、父親の切嗣。そして彼を慕う藤村組の孫娘である大河ちゃん、そしてわたし。この家に出入りしてるのはほぼこのメンバー。ちなみに大河ちゃんはわたしの高校の同級生でもある。
「恨んで、欲しいの。衛宮切嗣」
まるで恨まれることでしか救われないといった風な態度。わたしはかつて全てに裏切られた男に問いかける。痩せ細った声は「そうだなぁ」と呟く。
「今となってはきみだけが、昔の僕を知っている。だから───うん。恨んで欲しかったのかもしれないな」
そうすれば、少しは。 自分がしてきたことは正しかったと、思えるかもしれない。 空っぽの背中で彼はそう言った。
「…貴方は、ずっとそうやって生きてきたんだね」
誰よりも理想を追い求めたが故の茨道。 その過程で生み出した犠牲に恨まれることでしか正義を実感できないほどに、彼の願いは行き場を失っていたのだ。 なんて───かなしい生き方。
「恨まないよ。頼まれたって、絶対に」
「それは、どうしてだい」
「恨む理由がないからだよ。理由もなくひとを恨めるほど、わたしは器用じゃないんだ」
苦く笑って切嗣を見遣る。彼は一瞬だけ目を見開いてから、ゆっくりと頷いた。
「…そうだったね。きみには、敵も味方もない。『すべてを見届ける存在』」
まるでこの月のようだ、と。 切嗣は本当に嬉しそうに笑った。
「───楪。もし、僕が居なくなってから此処で聖杯戦争が起こるようなことがあれば」
微かに揺れる声。彼の中にある呪いは、もうすぐ刻限を迎える。 それを見越しての言葉をわたしは聞き入れる。
「わかってる。出来る限りのことはやる」
「…済まない。僕は、もう」
「うん。まあ、次って言っても60年後とかだからわたしも生きてるかどうかわからないけどね」
冗談交じりに返すと切嗣はくすくすと忍び笑いを漏らす。
「きみならおばあちゃんになっても大活躍できそうだな」
「…それって褒めてる?」
「褒めてるさ」
うーん、そんな腹を抱えながら笑い続けるひとに褒められてもイマイチ信じられない。
「でも、そうだね。おばあちゃんになったって、聖杯戦争が起こったらわたしはやるべきことをやるよ」
「…ああ」
「わたし、今の生活が好きなんだ。此処に居ることを赦してくれた切嗣には感謝してる。だから、恩返しはするよ。必ず」
士郎も大河ちゃんも藤村組のひとたちもみんな、切嗣が居なくちゃ出会えなかったもの。 絶望しか残らなかった闘いに囚われたまま生きていく筈だったわたしの道を照らした光。
「…ありがとう、楪」
「こちらこそ」
その時、居間の方から士郎の声が聞こえてきた。どうやらわたしを呼んでいるようだ。
「あ、士郎が呼んでる」
「みたいだね。行ってやりなさい」
「うん」
ぺたぺたと廊下を歩き、ふと振り向く。 縁側に腰かけたまま月明かりに照らされる切嗣は今にも消えてしまいそうだ。
「 、」
名前を呼べばこちらを向く。 もう何度も見た光景。 すっかり馴染んだ姿。 それを強く記憶に焼きつけて、わたしは別れを告げる。
「さようなら、衛宮切嗣」
少しだけ昔の匂いがした。 懐かしい硝煙の香り。 その瞬間だけ、彼はかつての鋭い声でわたしの名を呼ぶ。
「ああ。さようなら、弦切楪」
そして、わたしたちは最期の逢瀬を終える。 すべてを失った男は満ち足りた時のなかで息を引き取った。 わたしは、まだ生きている。 来たるべき時へ向けて。 まだ、生き続ける。
こころはとっくに明日をみているのに わたしの両足は、つめたさを名残惜しむみたく せかいは白く白くなってゆくのに わたしのことを染めてはくれないんだね
泣いてももどってこないきみがいとしくて 蝋燭のともしびさえもよくみえない 滲んだ景色の中に、ひっしにきみをさがしだすけれど、
(このせつなさがいつか結晶化されてもきみをつらぬきませんように。)
───いつか、光さすことを願って。
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