閉じた瞼の裏。ノイズ混じりに聞こえるのは、悲壮な慟哭。


───ごめんなさい…ごめん、なさい…!
───ごめんなさい…ごめん、なさい…!


夕日の差す丘。
屍の山の頂上で、少女はただ剣を握り泣き濡れる。
壊れそうな程に、謝罪の言葉を繰り返しながら。

















「───っ、あ…」


短い夢を見ていたようだ。
覚醒する意識。飛び起きて見下ろす階下。
否、其処はもう階下とは呼べぬ惨状。


「…こ、れは……」


セイバーの放った宝具は、この市民会館のホールを真っ二つに切り裂いていた。
遮蔽物を失くした亀裂から不穏な夜闇が覗いている。
火の手が回り弱っていた箇所がその空白に崩れ落ちる。
聖杯はもうない。セイバーも居ない。
瓦解する市民会館。
そこに、真っ黒な何かが溢れ出ていた。


「…泥……?」


そうとしか形容の出来ないモノが、夜の空からこの建物の残骸へ向けて零れ堕ちる。
黒い太陽。
その、孔のような場所から。
ぼたり、ぼたり。
一滴や二滴ではない。塊のように吐き出された泥は、一瞬で眼下の惨状を飲みこんだ。


「な、何だと…ッ!」


ホールの平地に居た英雄王が泥の奔流に飲み込まれた。
…違う、吸い込まれた。
わたしは咄嗟に立ち上がり、無常に流れ行く泥に叫ぶ。


「ギルガメッシュ!」


しかし返事はない。まさか、かの英雄王がこんな泥に負けるだなんて。そんなことは有り得ない。
焦りが、不安が、胸を支配する。手すりから身を乗り出して下に飛び込もうと姿勢を整える。
(大丈夫、このくらいなら…飛び込んでも死にはしない…!)
わたしはまだ、英雄王に借りを返していない。どんなに性格に難があったって、曲がりなりにもわたしを助けてくれた王様を、見捨てることなんてできない。だから彼を探す。そして助ける。
そう決めて手すりを離そうとしたわたしの手を、何者かが引っ張り上げた。


「…なにをしてる。死ぬ気か、きみは!」

「っ、離して!わたしは、あの王様を助ける!」

「あんなものに触れれば、たとえきみで在っても呪い殺されるぞ!」


必死の形相でそう叫ぶ衛宮切嗣。あまりに真剣な表情に言葉を失う。
(…呪い?)
眼下に流れる泥はその濁った色でわたしの世界を満たす。


───恨め拒め憎め否定しろ購え償え侵せ冒せ犯せ赦し等無い。
───死ね死ね死ね殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ死ね殺せ。


瞬間、身体機能を全て鷲掴みにされてぐちゃぐちゃに潰されたような衝撃の感情が頭の中に流れてきた。
耳鳴り。眩暈。吐き気。涙。呼吸すらままならぬ呪詛の声にわたしは絶叫した。


「ッひ、う、ああああああああああぁぁぁぁッ!!」


喉が裂ける。血の味がする。それでも声を出す。
そうでもしないと、とても正気では居られない───!!


「しっかりしろ!」

「───ぁ、が…ごほッ…」


震えが止まらない。再びボックス席に戻ったわたしは地面にひれ伏して胃液を吐き出す。涙すら粘液になったようだ。
そんなわたしの背中を叩く隣の男は、誰ダ。


「…あ、ぁ……ぅ……」


眼球だけを動かしてその顔を見つめる。
(嗚呼、これは。この男は)
この世の全ての悪を担うことになっても、悲願を達成すると宣言した。
摩耗しきった正義のミカタ。


「え…みや……」


衛宮切嗣。
そうだ、彼は。
セイバーのマスター。
どうして、此処に。


「僕のことが解るなら正気を失っては居ないな、弦切楪。さあ、立つんだ。此処もじき崩れる」


はやく、と腕を引っ張られて立ち上がる。よろよろと立ち上がって顔をあげて───眼に入ってきた光景に絶句した。
階下の泥は亀裂から住宅街へと流れ出ていた。
夜に溶ける泥が、人々を飲みこんでいく。
それだけでは済まない。
死を望む呪詛が、すべてを焼き尽くす業火となって。
其処に在った生命を喰らって世界を蹂躙する。


「───ぁ…あ……」


怯えた声はわたしのものではなく。
隣で立ちすくむ男の口から零れたものであった。


「………そんな……」


此処から見える景色は、正に地獄だった。
空にあいた黒い孔から溢れだす泥は勢いよく新都の住宅街に侵入し、触れたものすべてを燃え上がらせていた。
逃げまどう人々。飛び交う悲鳴と断末魔。
逃げ場のない地獄で絶望の炎が、生きているものすべてを焼き払う。
まるで───そうすることが、己の悲願であったとでも云うように。


「……………」


はらり、と掴まれていた腕が解放される。
隣に居た男は、虚ろな目をして歩き出す。
地獄へ近づこうと、足を動かす。


「……だ……なの………」


ぶつぶつと消え入りそうな声で呟きながら、衛宮切嗣は市民会館を出る。
わたしはその背中を追って崩れてゆく終焉の舞台を後にした。


「…うそ、だ……こんなのは……うそだ……」


舞い戻った地上は業火に染まる。
泥を生み出す孔は気付けば消えていた。
しかし、それが生み出した火の手は消えるどころか勢いを増して住宅街を襲う。
市民会館から離れて数mもない場所には、黒焦げの屍がごろごろと転がっていた。
熱風と人脂の焼ける匂いが鼻をつく。悲鳴は消えることなく、火の粉は絶えることなく。



その中で見た、誰よりも絶望するセイギのミカタのあまりにも悲しい背中を、わたしは忘れない。



あまりにも悲惨な理想の残骸。
微かに残った光を食い潰す悪の塊に、その男はひたすら絶望していた。
(嗚呼、知ってる)
何処までも続く無限の地獄は、わたしの中で視えるものと酷く似通っていた。
足元に散らばる死骸、鼓膜に焼き付く悲鳴。そして───黒い太陽。
でも…溶け落ちる世界は、幻覚なんかじゃない。
此処にあるのは目の背けようもない現実。

手にした者の願いを叶える万能の願望機。
呪われた器は、すべてを平等に焼き尽くした。









やがて火の勢いがおさまり、弱い雨が降り出した。
待ち望んだ悪夢の終わり。長い夜の明け方。
延々と地獄を彷徨い歩いた罪人はやがて───奇跡を見つけた。


「…生きてる」


生命が在ることが不思議なくらいの世界の中心で。
その少年は、手を伸ばしていた。
決して救済にはならないような頼りない雨。
それでも懸命に生きようとする生命。
走り寄って切嗣の名を呼ぶ。
触れた身体はあまりにも小さい。全身に火傷を負っていて、放置しておけばきっと生命を落とす。それでも、その少年は生きていた。
駆け寄ってきた切嗣が、少年を抱き上げた。
揺れる小さな手を、汚れきった手が受け止める。


「……良かった」


絞り出した声は泣きそうだった。
実際、泣いていたのかもしれない。
それくらい、その悲壮な背中は揺れていた。


「見つけられて、良かった───!」


触れるすべてを殺し尽くした呪詛。
体現された地獄。
その果てで、衛宮切嗣は。
衛宮士郎という───何よりも尊い救いを、見つけたのだった。

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