目を開いた瞬間に感じたのは胸焼け。不快感を押さえながら起き上がると頭がくらくらした。
「漸く起きたか、小娘。もうすぐ夕方になるぞ」
抑揚のない声に顔を上げる。 テーブルの向こうにはこちらを呆れたように見やる神父が居た。
「…………」
「酷い顔だ。とりあえず、そこにある水でも飲んでおけ。少しは気分が良くなるだろう」
言われた通り、テーブルに置いてあったコップを手に取り飲み干す。喉の渇きが癒されるごとに、昨夜の記憶が段々と蘇ってきた。 ええと、昨日は確か…英雄王とお酒を飲んで…それから…。
「………」
………あれ、おかしいな。 なんか記憶が曖昧だ。 いつどうやって寝たのか思い出せない…。 でも何故か、ギルガメッシュの手が温かかったことだけは覚えている。 (変なの) 目を擦りながらコップを置く。言峰は何か資料のようなものを読んでいた。この部屋に英雄王は居ない。
「…ギルガメッシュは」
「さあな。何処かへ遊びに行ったのだろう」
「適当だなぁ。貴方のサーヴァントでしょ?」
「…………」
今度はわたしが呆れる番だ。さらりと出た台詞に対し、言峰は驚いたように顔を上げた。
「えっ、なに…?」
「……いや、何でもない。気にするな」
「………?」
なにか間違ったことを言っただろうか。でもどう見たって、言峰はギルガメッシュのマスターだ。そうでなければ、一体誰が────。
「ときに、小娘。おまえにひとつ質問がある」
「……なに?」
まさかこの神父から質問をされるとは思っていなかったので、咄嗟に身構えてしまった。そんなわたしを見つめながら、彼はやはり無表情のまま紡ぐ。
「おまえは、衛宮切嗣と遭ったのか?」
「え……」
意外な問い掛けに思考が一時停止した。 その名前が、こいつから出るなんて思わなかったから。
「………遭ったよ。それが?」
「そうか。ならば、ロード・エルメロイを殺したセイバーのマスターというのは」
「…衛宮切嗣のことだけど」
「やはりな」
納得したように笑って、言峰は資料を机に放る。そしてわたしに近づいて来た。
「…小娘。おまえは衛宮切嗣を憎いとは思わないのか?」
「はあ?」
「奴はおまえを保護していた魔術師を殺した。どうせサーヴァントの方も、奴の策略によって消されたのだろう」
「………」
「報告によれば、おまえは随分ランサーと懇意にしていたそうだな」
「…それが?」
「いくらサーヴァントとは云え、愛しい男を殺されたとなれば…その犯人を恨むのは当り前ではないかね?」
まるで煽るような物言い。彼の浮かべる笑顔は何処までも不吉だ。そもそもこいつの笑顔なんて見たことがなかった筈なのに、どうしてわたしは初見でこんなにも嫌悪感を抱いているのか。
「確かに、ランサーは大事な存在だったけど…わたしは衛宮切嗣を恨んでは居ない。彼を恨むなら、世界の仕組みを恨んだほうがまだマシだよ」
「……なに?」
わたしの答えがそんなに意外だったのか、言峰の笑顔が凍り付く。でも嘘は言っていない。わたしはこれっぽっちも衛宮切嗣を恨んじゃいない。だって、あれは。 (もはや次元が違う) 彼の持つ殺意にはすべて理由がある。殺すのは譲れない目的があるから。奇跡に頼るしかなくなった正義の味方を、一体誰が恨めよう。 ディルムッドを殺したのは、培ってきた不和不信。あの『魔術師殺し』は、そこに付け込んだだけなのだ。
「では、おまえは哀しくはないのか。ランサーが死んだことなど、どうでもいいと?成る程、それならば英雄王に取り入ったのにも納得がいく」
「馬鹿言わないでよ。死ぬほど悔しくて悲しいに決まってんでしょーが。いまでも泣きそうなくらい辛いよ。でも、そんなことしたってディルムッドはもう帰っては来ない。だから泣かないだけだよ」
それに、わたしは英雄王に付け込んだりしてない。断じて。 そう言い切ったわたしを暫く見つめ、言峰は嘆息した。
「詰まらんな。こちらとしては、ランサーの死を嘆き悲しみ、犯人である衛宮切嗣を呪って泣き叫ぶおまえが見たかったというのに」
「……聖杯戦争に関わってる時点でマトモじゃないとは思ってたけど、よもやそこまでとはね。言峰綺礼。わたしは貴方が嫌いだ」
「もとより好かれようとは思っていない。無為な好意よりは嬉しいよ」
「…貴方の前では、死んでも泣き叫んだりしない。わたしにはわたしの誇りがある。守り抜きたい誓いがある。それは貴方の嗜好ひとつで壊されるものじゃない」
目の前の男を強く睨み付けて告げる。すると彼は、邪悪な笑みを浮かべて静かに頷いた。
「そうか。ならば仕方ない。───やれ」
歪つな笑顔が消えると同時に、身体がソファーから吹っ飛んだ。
「───え」
滞空時間は1秒にも満たない。 驚きを飲み込むより先に、背中が壁に激突した。
「──っ、が…!」
背骨が軋み、鈍痛が駆け巡る。肺のなかにあった酸素が強制排出された。
「っは、…ぁ…」
一体なにが起こったのか。 くらくらする頭を抱えるわたしの耳に入ってくるのは不快な神父の声。
「嘆きや悲しみで泣かぬというのなら、痛みと苦しみを以て叫ぶが良い、弦切楪。おまえの苦痛は私の悦びとなる」
「…っ、の……クソ神父…!」
息を切らしながら立ち上がろうとするが、首筋に冷たいものを感じて動きを止めた。 眼前には、揺れる闇。
「あ……」
錆びた人形みたいにぎこちない動きで顔を上げた。 そこに居たのは。
「……なん、で…」
影の戦士、バーサーカー。 黒い靄を纏った鎧が、無慈悲にわたしを見下ろしている。 手にした剣は、わたしの首へ突き付けられている。 地べたにしりもちをついたまま言峰を睨む。
「……貴方は、ギルガメッシュのマスターじゃ…」
「無論、その狂戦士は私のサーヴァントではない。それは此処に居る、間桐雁夜のサーヴァントだ」
「…は……?」
聞き慣れない名前。 よく見ると、いつの間にか言峰の隣には紺色のパーカーを羽織った男が佇んで居た。 病的なほど色褪せた肌と髪。フードの中から覗く顔は、左半分が歪つなかたちをしている。濁った瞳はわたしを捕えて離さない。
「なんで……バーサーカーのマスターが、此処に……」
「彼は私の協力者だ。此処に居ても何の不思議あるまい」
「…………」
協力者……?バーサーカーのマスターと、言峰が…?そんな馬鹿な…だってバーサーカーはギルガメッシュと相性最悪な筈だぞ…!
「雁夜、バーサーカーに命令を」
「………」
バーサーカーのマスターは無言でわたしを見据え───己のサーヴァントに命令を下した。
「令呪を以て命ずる。バーサーカー、その娘を痛め付けろ」
「───ッ…!!」
加護の時にも似た赤い光が放たれる。 (これはやばい…!) 首筋に突き付けられていた剣を払いのけてバーサーカーの前から這いずるようにして逃げる。何とか立ち上がって後ろを向くと、黒い影は何の躊躇いもなくわたしに向かって構えた剣を振り下ろした。
「……っ、く…!」
顔庇うように腕を構える。バシン!という壮大なラップ音と共に、バーサーカーの剣が止まった。わたしの身体に触れることなく、見えない防護壁に攻撃を阻まれている。
「ほう、絶対神盾(アイギス)か。中々厄介なものを持っているな。だが───」
言峰の声に反応するように、バーサーカーは再び剣を振り上げてわたしを切り裂こうとする。攻撃はまたも盾に弾かれた。
「攻撃を続けろ、バーサーカー!」
狂戦士のマスターが叫ぶ。その呼吸は苦しそうに乱れている。バーサーカーは指示通り、何度弾かれても攻撃を繰り出してきた。
「っ、う……!」
その度重なる斬撃に耐え切れなくなったのか、わたしの腕に段々と血が滲んでゆく。伝わる衝撃と神経を蝕む痛みに呻き声が上がる。
「良いぞ。もっと苦しめ。もっと傷つけ。おまえの表情は予想以上にそそるな、弦切楪」
「全っ然嬉しくな───っあ!」
どすん、と衝撃。 あろうことか、バーサーカーの鎧に包まれた脚がわたしの腹部を蹴りぬいたのだ。 わたしの身体はサッカーボールみたいに軽々と宙を舞う。
「──が……げ、ほっ…!」
地面に叩きつけられ痛みに噎ぶわたしを愉しそうに見下ろす言峰がほんとにむかつく。罵倒してやりたいが声が出ません。頑張れわたしの身体。
「おまえの絶対神盾(アイギス)は魔術攻撃・宝具攻撃に特化した防護壁と聞く。しかし、物理攻撃はそれなりのダメージを受けるのだろう?」
「ぁ……ぅ、ぐ……は、」
立ち上がろうにも力が入らない。冷たい床に大の字になったまま、わたしは荒い呼吸を繰り返す。あー痛い。そもそも、なんでこんなことになってるんだ。
「……おい。もう良いだろう」
痛みで意識が飛びかけた耳に入ってきたのは、バーサーカーのマスターの声だった。 (………あれ、) なんだろう。 この声、聞き覚えがある。
「折角令呪を使ったのだ。こんなもので終わらせては詰まらんだろう」
「…言われた通り、この娘を痛め付けた。このくらいで良いだろう。これ以上やったら…この娘、たぶん…死ぬぞ」
「構わん。続けろ」
そんな、誰かと誰かの会話。 片方は言峰。 もう片方は───ああ、そうだ。 戦場でよく聞こえてきた、怨嗟を叫ぶ声だ。 そうか。あれは、バーサーカーのマスターの声だったのか。謎が解けた。
「……断る。俺はこんなことをするために此処へ来たわけじゃない」
「それもそうだったな。そろそろアインツベルンの拠点に向かわねばならん」
「セイバーは本当に居ないんだろうな?」
「ああ。セイバーとそのマスターは、今ごろライダーの拠点を監視していることだろう。その隙に聖杯の守り手を誘拐する」
…なんだ、なんの話をしてるんだ、このひとたちは。 身体中が痛い。頭も痛い。ずきずき、ずきずき。 アインツベルン。セイバー。聖杯。そんな単語が聞こえる。 ライダー。嗚呼、そうだ。ウェイバーは元気にしているだろうか。この前のお礼がしたいなあ。
「作戦は先ほど話した通りだ。良いな、雁夜」
「…ああ」
ごほっ、と咳をして首を動かす。反転した世界で近づいてくる足音。…言峰だ。
「おまえの苦しむ顔は逸品だった。英雄王の趣味も理解できる」
「……っは…クソ神父…。わたしは…貴方が、大嫌いだ」
ようやく悪態を吐きながら、ゆるりと目線をその先へ。バーサーカーのマスターがこちらを見ている。だから口を開いた。
「バーサーカーのマスター…貴方の怨嗟は、きっと何も生まない」
「…俺を知っているのか」
「知らないよ……知らない。ただ、勝手に聞こえてくるだけ…」
「聞こえてくるって…」
「……嘆きで嘆きは拭えない。そのままじゃ、きっと───誰も救われないよ…」
「───ッ!」
ずっと、あの叫びが聞こえてくるたび思っていたことを告げると、彼は息を飲んで後退った。その隣に居るバーサーカーを見ても、胸に生まれるのは『悲しい』という感情だけ。 うまくいかないなあ、どうも。
「話は終わったか。ならば少し寝ていろ。おまえに邪魔されては、折角の舞台も台無しになるからな」
「───ぁ、」
言峰がなにを言っているか理解する前に、意識が途切れてゆく。 安息にも似たまどろみのなか、わたしはただ遣り切れないカナシミを抱いて闇に身を任せた。
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