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追想と崩壊のその後






身体の寒さを忘れてしまってから、何年も経った頃だった。雪が赤いと知ってから、何ヵ月も経った頃だった。彼の表情だけは読み取れていたこの目が、本当に使い物にならなくなってしまったのはここ最近だった。それどころか、耳も聞こえなくなった様な気がした。何の音もしないから。その事を彼に伝えたが、一向に返事は返ってこない。


「いつまでここに居れば良いんだろうな…」


寂しいなぁ。余計に虚しさが増したので触覚を頼りに部屋の中を這いずる。床には絨毯が敷いてある。そのままずるずる進んでいくとテーブルの足が手に触れた。つつつ…手を登らせるとふか、と何かが触れた。あ、テーブルじゃなくてソファーだったみたいだ。


「…神童、」


二人掛けソファーの片方に神童は座っていた。何だよ、返事しないから居ないのかと思っちゃったよ。意地悪な奴だ。
神童は目を瞑っている様だ。寝てるのか、仕方ないな。傍にあった毛布みたいな手触りの布をかけてやる。身体が酷く冷たいのが心配だった。


「ん、これ何だ…」


神童の固まった片手に握られていた何かを俺は手に取る。細長い棒が付いた双眼鏡の様な形状…神童の言っていたオペラグラスだろうか。ちょっとだけ、そう思い、拝借する事にした。









あの美しい風景が崩れてから、何年も経った頃だった。クレバスの剥き出しになった世界が増え続けて、何ヵ月も経った頃だった。聞き取れていたはずの彼の声が聞こえなくなったのは最近の事だ。これじゃ本当に何も喋れない、そう思い彼に伝えたが彼は座ったままこちらをじっと見つめているだけだった。


優しそうに微笑んでいる様にも見える彼が、この場所に何日も滞在しているのは稀だった。そろそろクレバスが広がってもおかしくはないのに、彼は座っているだけなのだ。また壊れてしまう美しい銀世界を、俺は踏み締めて進んでいく。座り佇む彼の姿が見えなくなるところまで来るとそれまでの銀世界は一変、剥き出しになったクレバスが世界を覆い尽くしていた。

こうして見るとクレバスも十分美しく見えるのだ。見えるのに、これが世界を壊す原因なのだ。遣る瀬ない気持ちになってしまう。そっとクレバスに触れてみた。冷たい。









神童の持っていたオペラグラスは不思議だった。何となく目に当てる様に合わせると、その目の前の風景が見える様な気がした。そのまま扉を開けて外に飛び出した。
外は暖かくて美しいのだけど、他の何者も存在していない――そんな気がした。

オペラグラスで覗いた世界は微かに光が見えている。緑の葉の光が。僅かに傾いた壁の様な、よく分からない世界の限界がそこにある気がした。オペラグラスではそのように見えた。草の上をサクサク進んで、ぺたり。冷たい壁に手を押し当てる。その瞬間目の奥の方でずくりと痛みが奔った。










びき、確かに俺の耳に届いた。霧野が言っていたクレバスの広がる音だ。何故今になって俺の耳に届いたのかは分からない。けれど、ここがもうじき崩れる事だけは俺にも分かる。霧野を連れて、逃げなくては。


「……どう、神童!」


―刹那。声が聞こえた。俺が聞き違える事のない愛しい、声が。俺を呼んでいるあの声が。

「き、きりのっ」

不思議と自分の声も聞けた。何年ぶりだろう。

「神童…やっぱり其処に居るんだな」

「きりの…なぜ、ここに?」

「壁の向こうに、神童が見えた気がしたんだ」

「かべ…?きりの、ここはそとだ、かべなんて、ない」

「俺も驚いたさ、この世界に限界がある事にな。でも何故神童は壁の向こう側に居るんだ?」

「まて…さっぱりわからない。いま、せかいはこわれているんだ…くればすのせい、で、」

「クレバス?じゃあ俺はクレバスの内側に居るって事か?」

「いや…くればすのうちがわは、ちかになるはずだ」

「地下…ここが、地下?だってここは、暖かくて…息も吸える」

「あたたかい?…そとは、ゆきが…」

「雪?あの、赤い雪の事か?何故神童は外に居るんだ?何故俺の居るところは地下なんだ?」

「きりの…ゆきは、白いんだ」


クレバスの向こう側に居る霧野は言葉をなくしてしまった。彼は事情も知らずに地下に居て、そこで何年という時を過ごしてきたのだと言う。その相手は俺だった。


壁の向こう側で雪が見えた。確かに白く積もっていた。向こう側の神童は地下のクレバスの広がりから逃れる為に何年も世界を点々と渡り歩いていると言う。その相手は俺だった。


クレバスの向こうの霧野は目が見えないのだと言った。こちらの霧野に障害がないことを伝えると歯痒そうにそうかと呟いた。


壁の向こうの神童は耳が殆んど聞こえないと言った。こちらの神童は障害もないし、俺を助けてくれる。そう言うと彼は淋しそうに頷いた。


「不思議だな、別の世界の神童に会えるなんて」

「…俺も、だ。耳も治ってきている」

「俺もまだぼんやりしているけど、神童を認識出来ているよ」

「……このクレバスを壊せば、そっちの霧野に、触れるかもしれない…」

「ありがとう神童、でも、お前の方に居る俺が待ってる。俺の方に居るお前も」

「…こっちの霧野の声は、俺には聞こえ、ないんだ」

「…実は俺も、こっちの神童が見えなくなってしまったんだ。それどころか、動かないんだ」

「…こっち、もだ」


互いに何も言えなかった。そうこうしてるうちにもクレバスの罅はびきびき音を立てていた。

「やっぱり、お前に、会いたい」

「…そうだな、俺もそう思うよ神童。俺は壁を壊すよ」

「…うん」


壁に爪を立てた。向こう側に居る神童に会うために。目はとっくに元に戻っていた、本当は視力を失っていなかったのではないかと思う程に俺の目はかつての碧色だった。


クレバスの細かい罅を力一杯殴った。向こう側に居る霧野に会うために。自分の息遣いもクレバスの罅の音も耳に届いていた。聴力を失っていたのは俺の夢だったのかもしれない。




暫くすると2つの世界に穴が開いた。相反する世界の現象を取り込んだ2つの世界は矛盾を生み出し打ち消し合ってやがて終焉を迎えた。終わってしまった世界の片方はオペラグラスだけが世界を形伝え、もう片方の世界では地表に残ったクレバスが圧倒的な存在感を放っていた。


「「会いたかった」」


壊れた世界の狭間の静寂でオペラグラスもクレバスも二人だけを見つめていた。




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