雨宮が、最近やけに弱っている。
絶対に勘違いではない。中学時代は、看護師の目を盗んでサッカーの練習をしたり、俺と取っ組み合いにも似た遊びもしたし、俺が話すことに、楽しそうに(羨ましそうに)蒼い瞳を輝かせて耳を傾けていた。
あれから数年経ち、俺たちは高校生となった。
高校生になってから、雨宮は頻繁に発作を起こすようになった。アイツの身体には、幾多の手術痕が痛々しく残っている。そして、サッカーはもっての他、身体を起こすのさえ辛そうにしていて、俺とは会話をするだけになった。それも、俺が話すことに「うん」とか、「そっか」とか、軽い相槌がほとんど。顔色は悪く、いつも輝かせていた瞳はだるそうに閉じられていることのが多い。
それでも俺は一緒に居たくて毎日病院に通った。なんというか、行かなくてはいけない気がしたんだ。
そんなのを何日も繰り返したある日のこと。
やはりだるそうに、それでもうっすらと瞳を開いていた雨宮が
「もう、時間がない」
ポツリと、何かの漫画のような台詞を、独り言染みた口調で呟いた。
初めは理解出来なかった。久しぶりに聞いたアイツの声に聞き惚れて、それから暫くして
「…は?」
何とかその言葉を絞り出す。笑えないほど間抜けな声だった。
「もうすぐ…時間が」
淡々と独り言のように呟く雨宮は、とてもゆっくりと俺の手を握った。その手はまだ温かい。
「喜多くん…僕、喜多くんが大好きだよ」
虚ろで、ふわふわとした笑顔を浮かべ、夢の中にいるようなそんな口ぶりで俺に話しかける雨宮が無性に怖くなった。アイツの命が消えてしまう。アイツがいなくなってしまう。
無意識に、雨宮の細くなった身体を力一杯抱きしめた。
筋肉が落ち、皮と骨ばかりでずいぶんと弱々しいその身体は、以前のアイツと同じ身体とは俄に信じ難いもので。
「喜多くん…僕のことは、忘れてね」
「…嫌だ」
「忘れなくちゃいけないんだよ」
「絶対、嫌だ」
雨宮の言葉を拒否しながら、アイツの細い身体を更に抱きしめる。骨が軋む音が伝わって、余計に怖くなった。
「お前のことは忘れないし、離さない…っ」
泣きそうになるのを堪えながら言う。だけど、声の震えは隠せなかった。
黙って聞いていた雨宮は、静かに俺の背中を叩いた。悲しくも力はほとんど込められていなかった為、背中に手が触れる感覚しかしない。
「喜多くんは、僕のこと好き?」
掠れた声で、雨宮が尋ねる。俺の背中に這わされた手が、震えていた。折れそうな身体を今度は出来るだけ優しく抱きしめ、そっと背中を撫でる。
「…太陽が、好きだ」
「…」
「雨宮太陽を、愛してる」
絞り出した声はとても小さく、きっと雨宮にしか聴こえないくらいだった。アイツは「…そっか」と、短い返事をした。
「僕も…喜多一番を愛してる」
耳元で、歌うように雨宮が囁く。アイツの囁きは、ふわりと俺の心に入り込んで溶けた。
さっきまで我慢していた涙が、勝手に溢れる。
流れる涙で頬が濡れていくのがわかった。アイツの前では泣きたくないのに。
(くそっ、止まれ)
そう思っても、涙は理性に従わず、尚も流れ続ける。俺から流れた水が、雨宮が着ている薄黄緑色のパジャマを濡らし、色を変えた。
「喜多くん?泣いてるの…?」
肩が濡れたからか、急に黙った俺を変に思ったからか、雨宮が不思議そうに尋ねる。
「…泣いてねぇよ」
苦し紛れに返した俺の声は、情けないことに震えていた。しかも鼻声で、雨宮にはバレてしまっただろう。
「喜多くん、顔見せて」
口調からしたら柔らかいが、アイツの雰囲気は有無を許さないものだった。目元の涙を少し拭いつつ、大人しく身体を離してアイツと向き合う。すると、雨宮の白くて細い指が、俺の両頬に添えられた。
そしてアイツは、自身の唇を俺の唇にそぅっと押し当てる。控えめにされたキスに、流れていた涙が止まった。
「…止まった、ね」
クスクスと声も無く笑うアイツは、いたずらっ子の遊びが成功した時のような表情に見える。久しぶりに見た、雨宮らしい微笑みで、切なくも懐かしく思った。
アイツは音をたてずに、両頬に添えた手を離す。
「喜多くん。僕、どんな喜多くんも好きだけど、やっぱり笑ってる君が一番好き。だからね、僕が死んで、どんなに悲しくても、いつか僕を忘れてまた笑って欲しい。だから」
「だから、お前を忘れろって言ったのか?」
アイツの言葉を遮って、俺は雨宮に尋ねる。どちらかと言うと、問い質す方が正しかったかもしれない。アイツは微笑んだまま、一度頷いた。
「無理だと言ったらどうする」
「…本当に無理?」
「無理だな。…お前は俺が初めて愛した人間だ。お前の存在は特別で、忘れちゃいけない…と、俺は思う」
「…ふふっ、本当に喜多くんは真っ直ぐだ」
俺の考えを聞いたら、雨宮は少し時間を開けてから可笑しそうに笑って、言葉をこぼした。笑った弾みか、微かに咳をした。
背中を擦ると、アイツは苦笑を浮かべたまま「大丈夫、」と言って、一度深呼吸をする。
「そんな風に思われてたら…忘れて、なんて言えないね」
困ったように眉を下げて目を細めた雨宮は、掛けていた布団をちょっとだけ握りしめた。
「でも、それって喜多くんの重荷になりそうで怖い」
雨宮の手が、震えている。
「重荷になる位なら、忘れてもらいたいって思った…でも、そんなこと言われたら…僕はわがままになる」
視線を俺から逸らした雨宮は、俯いて布団の上に置かれた自分の手を見ていた。
「もっと喜多くんと一緒にいたい…もっと、ずっと…ずっと、一緒に…っ!」
静かな部屋に、雨宮の悲痛な声だけが響き渡った。身体にビリビリと刺さるような痛みを含んだその声は、今まで圧し殺されていた雨宮の感情をたくさん詰めているようだ。
「…なら、二人で逃げないか」
「…え?」
俺の言葉に、雨宮は少し息を乱しながら返事をした。返事と言っても、聞き返しただけだが。
「一緒に生きて、最期の時までずっと一緒にいよう。周りが追ってきても、また一緒に逃げよう」
真っ直ぐにアイツを見つめて、アイツに告げる。雨宮は俺を見ようとしない。
「…僕は長くない。心臓に爆弾もあるから出来ないことのが多いし、何より迷惑しかかけないよ」
手が白くなるまで布団を握りしめた雨宮は、俯いたまま俺に言う。髪が顔にかかって、アイツの表情が隠れて見えない。けれど、きっと苦しそうな顔をしているんだろう。
わかってるよ、雨宮。
「好きな奴からの迷惑は、男にとったら光栄な話だ」
笑いながら、雨宮の白くなった手に俺の手を重ねる。一瞬ビクついたが、暫くすると握りしめた手をやんわりと開いて、俺の手に絡めた。
繋いだ手とは反対の自由な手で、雨宮の顔にかかっているオレンジの髪を避ける。
泣きそうな顔をしていた。蒼い瞳には、うっすら涙の膜が張っている。
やっぱり、と思って、先ほど俺がされたように雨宮とキスをする。子どもがするような、ただ触れるだけのキス。唇を離してアイツを見つめると、雨宮は大きな瞳から涙を一気に溢れさせた。アイツの涙の堤防は決壊した。
「俺はずっとお前といたい。お前を離したくない」
大粒の涙を落として、雨宮は俺と繋いでる手に力を込めた。ぎゅっと握られる手を握り返し、反対の手でそっとアイツの身体を抱き寄せる。
「だから、二人で逃げよう」
ふわふわと柔らかいアイツの髪に顔を埋め、すがるように抱きついた。薬品の匂いの中から幽かに太陽の匂いがして、安心する。
「…本当に、喜多くんはそれでいいの?」
くぐもった声で、鼻を啜りながら雨宮は言う。握りしめた手からは震えが伝わり、アイツは猫のように俺の肩に顔を擦り寄わせた。
怖い、と言わんばかりの震えが、今の雨宮を案に語っていて。
「お前がいいんだ。他の奴じゃなくて、今ここにいるお前がいい。…雨宮じゃなきゃ、ダメだ」
アイツの耳元で、アイツにだけ聴こえるように囁く。背中側に回した手で、雨宮の頭を撫でてみると、ふわふわの髪が指の間をすり抜けていった。
「っ…きた、くん…」
声を詰まらせながら、雨宮は俺の名を呼ぶ。抱き寄せていた身体を離してアイツを見ると、ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、向こうも俺を見た。蒼い瞳から流れる涙は、全てを流し去る雨粒のようにも思える。
「…ありがとう、」
雨宮は、幸せそうに笑った。アイツからは久々に見る表情。情けないことだが、アイツのその顔を見たら、俺もまた涙を流してしまった。
二人で泣きながら互いに両手を繋ぎ、どちらともなくキスをした。涙で塩辛かったが、何度も何度もキスをした。
病室から見える外は、夕陽のおかげで、辺りを赤とオレンジに世界を染めている。
「二人で逃げよう」
(その言葉に込められた少年の想いは)
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お題はツイッターの診断様よりお借りしました。
診断様空気読みすぎて毎日楽しいです