text | ナノ

ひとつまみ程度の悠政
自然災害についての言及あり


 大歓声の中終えていく試合を横目に、さて、と野坂は席を立った。このあとも試合は幾つか予定されているが、これ以上の観戦は無意味だ。尤も、今日の対戦カードに月ノ宮と当たる学校はないため、さして足を運ぶ理由はなかったのだけど。強いて言うなら、今日販売されることになっていたとある参加校のマスコットキャラクターを模した今川焼きのような菓子が気になっていたぐらいだ。もっちりとした生地と餡子、カスタードの中身は、定石の組み合わせ故かやはり美味しく、足を運んだ理由はこれを食べるためだったかもしれないと思うほどである。
 腹も満たされた野坂は、満足げに観客席を後にした。数歩後ろにはいつもの如く西蔭がついてきている。二言三言試合の感想でも紡げばよかったのだろうが、あまり興味のない試合だったため、そういったことを口にするのはお世辞のような気がして、生産的でもないからと無言でいた。そうして行き慣れた通路をすいすいと進んでいけば、一番乗りでスタジアムの出入り口に着く。途中で抜け出してきたこともあってか、出入り口には警備員が立っている他に人影はなく、定休日の如くがらんとしていた。別に空いているからといって支障などなく、寧ろそれならそれで混雑に巻き込まれることもなく有難いと思いながら一歩スタジアムを出ようとしたところで、不意に冷たい何かが数滴頭皮を叩いたために、野坂はぴたりと動きを止めた。僅かに手のひらを差し出すと、ぽとん、ぽとん、と少し間を置きながら雫が落ちてくる。見上げた空は、青も白も橙もなく、どんよりと灰色で。

「ああ、雨か」
「この分だともっと降りそうですね……。売店で傘買ってきます」

 ぽつりと野坂が目の前の現象を呟くと、控えていた西蔭が今一度空模様を確認したあと、ぱたぱたと足早に通ってきた通路を戻っていった。天気予報では不意の雨に注意などと言っていたが、全員が全員そんなに準備のいい人間でもないだろうし、いつ降るかも判らない雨に備えるのが馬鹿らしいと、何も持たずに来る者の方が多かったのではないだろうか(実際、自分たちもあまり気にしていなかった)。今日の試合はドーム型のスタジアムのため、外に出なければ天気のことなど誰も判りはしないのだが、ちょっと調べたり何かの用事で外に出てこの天候に気づけば、すぐにでも売店の雨具類は売り切れてしまうだろう。一足早く席を立ったことがこんな形で幸いするなど思ってもいなかった野坂は、そっと出入り口から身体を引っ込めて、大人しく西蔭の帰りを待つことにした。
 端っこのベンチで十分ほど待っていると、たんたんと駆け足気味の足音が近づいてくる。通路の影から向かってくるシルエットまで見る必要もなく、該当者は一人しか居ない。はぁ、と息を吐いた西蔭の手には、何処ででも売っているような透明なビニール傘が、一本だけ握られていた。

「すみません、今はこれしか在庫がないらしくて……。全試合が終わる頃には、再搬入するらしいんですが……」
「いやいいよ。あるだけマシってやつさ」
「野坂さんが使ってください。自分は走って帰りますから」
「ちょっと」

 緩んだ野坂の手に傘を握らせ、服のフードを被って駆け出そうとする西蔭のジャケットを、野坂はくい、と掴んで引き止めた。少し見ない間に雨足はやや強くなっていたが、土砂降りというわけでもないので、それなりに濡れるだろうが帰れなくはないだろうと覚悟して飛び出すつもりでいた西蔭は、不意のストップに思わずつんのめりそうになった。振り返った視線の先には、相変わらず感情の読めない表情の野坂が居る。何ですか、と西蔭が努めてやわらかく発音してみせると、野坂はビニール傘をちらつかせて、彼を見てほくそ笑んだ。その笑みに、西蔭はうっと息を飲んだ。

「一緒に入っていきなよ。別に、急ぎで帰らなくちゃいけない用事があるわけでもないだろう?」
「確かにそうですが……」
「この傘大きいし、僕と西蔭ぐらいなら入るでしょ。ほら、傘は西蔭が持ってよ」

 でも、その、と煮え切らない態度を示してみたものの、ほら、と傘を差し出されては、自分に拒否権などあるわけもない。野坂が発言を覆すことなどないのは重々承知しているので、西蔭は諦めて、躊躇いがちに傘を受け取った。



 中学生といえど、それなりに体格のいい男が二人となると、幾ら大人用の大きめな傘でも、少しばかり肩がはみ出てしまう。それに気づいた西蔭は、さり気なく傘を野坂の側に寄せることを意識しながら、傘の持ち手を担っていた。ぱしゃぱしゃと水を持ち上げる二人分の足音が反響する。反対側から駆けてきた遊び途中だったらしい子供たちは、すっかりびしょ濡れだった。

「これじゃあ寄り道もできないね。仕方がないから真っ直ぐ帰ろうか」
「そうしてください。野坂さんに限ってあり得ないとは思いますが、万一風邪でもひいたら大変ですから」
「ふふ、もしそうなったら西蔭が看病してくれるかい?」
「あり得ない話に花を咲かせるのもどうかと思いますが、そうですね。他の奴に野坂さんの相手ができるとも思えませんし、そうなるんでしょうか。自分が完璧にできるわけでもないですけれど」
「いやいや、これで君は案外きっちりやってくれるんだよ。そのときは期待しているからね」

 いつまで経っても西蔭からすればあり得ない話が続けられて、いよいよ否定の言葉のストックも少なくなってきた。言葉に詰まる西蔭を見て、野坂はくつくつと笑う。からかっていないと言えば嘘になるが、自分の世話を任せるとすれば、やはり彼以外に選ぶ気がないというのも確かだった。だからこうして傘の持ち手を任せているし(単純に身長差の問題もあったが)、当たり前のように隣を歩かせている。こういうのを“頼りにしている”というのだろうか、と、半分ビニール傘で歪んだ視界に映る景色を眺めながら、野坂はぼんやりと考えた。

 雫がぱつぱつと透明なビニールを叩き、弾かれたそれがぴちょりと足元を濡らす。スタジアムを出る前に厳かに降っていた雨は、少し強まっていた。靴やズボンが濡れることを危惧しながらの帰り道は、いつもより気をつけることが多くて、西蔭としては気が気でない。野坂はあまり気に留めていないのか、平時と変わらないラフさで歩いている。時折排水溝の近くを覗いたりしているが、蛙でも探しているのだろうか。真っ直ぐ帰った方がいいのでは、と思った西蔭だったが、口にしたところで野坂がその行為をやめることはないし、そもそも自分如きの意見で野坂の思惑を阻害してはならないと、大人しく噤んだままでいた。西蔭にできるのは、隣の影が立ち止まったり、歩幅がずれてすいーっと前後に移動していかないよう、細心の注意を払いながら傘を持つことだけだ。
 この日何度目かの急停止をし、濡れた電柱をじぃっと見つめていた野坂は、観察に飽きたのか視線を外すと、また歩きを再開しだした。そして不意に、口を開く。

「こうして雨の中を歩くのはいいな」
「はぁ……」
「ほら、雨が降ると人の騒がしさとか何かの物音とかが減って、静かになるだろう? 少し寂しい感じがして、いいなって思ってるんだ。普段は見れても窓越しの景色ばかりだけど、こうやって外を歩いてみると、何だか自分が絵本の中に居るみたいで不思議な感覚がするよ」

 管理された王帝月ノ宮での生活は、基本的に外部と遮断されている。外の天気がどうであろうと、何の支障も来たさない。来たしてはいけない。なので晴れていようと雨が降っていようと、生徒たちは特に何も感じることなく日々を過ごしている。しかし野坂は、自室の窓から見える、透明な雫が静かに、しかし確実に接するものを染めていく光景とその音が、どことなく晴れの日よりも気に入っていた。しっとりとした丸みを帯びた音も、ばしばしと叩きつけるように穿つ音も、好意的なものとして耳と記憶に残っている。

「西蔭は雨のこと、どう思う?」
「……あまり、深く考えたことはありません。自分がどうこう言ったところで、雨は降らないですし、止みもしませんから」
「確かにそうだ。人の感情で天候が操作できるんだったら、世界はこんなに苦労なんかしないだろうね」

 西蔭の当たり障りない相槌に、野坂は笑って見せた。ぴちゃんと民家の木の枝から落ちた雫が水溜りに跳ねて、降り注ぐ雨と混じる。自然は驚異だと誰かが言っていたが、誰かの意思で動かせないそれは確かに恐ろしいだろう。地震、津波、台風。この世界は常にそんな隣人と付き合っていて、こちらが何をしたところで収まりも生まれもしてくれない。
だからこそ、その傍若無人ともいえる無慈悲さが心地いいのかもしれない。自分では抗えない絶対的な何か。それは、アレスの天秤システムを受けたからどうにかできる代物でないことは判っている。完全な人間や社会でも、共存を許さなくてはならない存在は、必ずある。

「……ユートピアにも、雨は降るんだろうか」
「野坂さん?」
「いや、独り言だよ」

 求める世界にも快晴以外があることを信じて、野坂は空を見上げる。透明なビニール越しのグレーばかりが広がる空は、ある意味で理想通りでもあった。景色をワントーン濃く染める雫たちのリズムを聞きながらの帰り道、いつもより足が軽く感じるのは、きっと気のせいじゃないはずだ。



***

野坂さんについての考察というか解釈というか


180826
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