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ハイメがアクアフォースの海軍兵


 海の香りを含んだ風が軍服を揺らす。真白なそれに包まれれば、否が応にも気分は職務モードにならざるを得ない。
 しかしながら、こと甲板を大股で走っていくこの男に関しては、その意識は薄いのではないかと、すれ違うアクアロイドたちは思う。ある者は落ち着きがないと呆れながら、ある者は快活さに目を細めながら、過ぎ去る淡いスカイブルーの靡きを見つめる。
 様々な思惑の視線を背に受けても、男の足は止まらない。たんたんと明朗な靴音を響かせて、遂に艦首へと辿り着いた男は、昇った太陽の光をいっぱいに浴びながら、両腕を挙げて高らかに叫んだ。

「オーラ・アミーゴ!!」

 その声に応えるように、旋回していたイルカ兵が飛沫を撒きながら大きくジャンプした。



 朝一番に聞こえる彼の一声は始業合図にも等しく、将官の中にはそれを合図に仕事を始める者も居るほどだ。
 艦隊のとある一室で机に伏せっていたサヴァスもその一人である。分厚い鉄の壁を突き破ってくるように耳に届くおはようの声に、サヴァスは小さく肩を震わせ、ゆっくりと覚醒した。下敷きになっている書類は数日以内に担当する事務の詳細が書かれた、所謂回覧板のようなもの。回ってくる仕事と言えば他部隊に比べて随分と地味なものが多く、またバタリーブームが眉間に皺を寄せるイメージがありありと浮かんだ。

 先の大戦を終えたからといって、戦がなくなることはない。小さな火種は毎日のように何処かで燃えている。此処には多様な任務に応じてそれをこなせる技量のある部隊が数多く存在する。大規模の激戦が予想されれば真っ先に投入されるのは蒼嵐艦隊や蒼波戦艦のような武力制圧の適任者、中規模且つ迅速さを求められれば速さを得意とする波紋部隊、場面に応じて投入されるアサルト部隊や戦場の歌姫たちといった、小回りの利く者からサポート、武器の実験要員まで、全てにおいて様々だ。
 だが『臆病者の将官』のレッテルのためか、サヴァスの部隊に大きな任務が回ってくることは非常に少ない。能力は高く、部下たちからの信頼も厚いのだが、未だに上層部はサヴァスの力量を正確に評価することを濁している。下手をすれば自分たちの地位が危ぶまれるからか――もしくは掘り返してはならない真実を隠匿しておく必要があるからか――先日の一件を過ぎても、サヴァスの評価は少将の地位であることを除けば『部下に慕われる臆病者の将官』と僅かに昇格したぐらいのままである。

 至らなさに眠気も飛び、凝り固まった身体を伸ばして資料を整理しはじめたサヴァスの耳に、たったっ、と誰かの走る音が聞こえる。部下に急ぎの仕事を任せた記憶はない。となれば、十中八九彼だろう。

「ハーイ、サヴァス! 起きてるー?」

 ノックもなしに部屋を訪れたのは、さっきまで甲板を駆けていた男――名をハイメという――だった。薄いスカイブルーの髪はぐちゃぐちゃで、此処まで全力疾走してきたのだろうと想像することは容易だ。相変わらず緩く着崩された軍服のままへらりと笑う彼に、サヴァスは一旦資料を置き、直属の戦場の歌姫たちが寛ぎに来た際使えるようにと常備してあるブラシに持ち替えて、ハイメの跳ねた髪を梳きはじめた。

「逃げてきたんだ、匿ってよ!」
「今度は誰にちょっかいを?」
「ドロテアとスタシアに声をかけたら睨まれて、オルティアにウインクしたら突かれて、カリスタに微笑んだらローデに追い回されて、そこにアデライードが合流したところさ!」

 これまた随分なラインナップである。いや、今日はこれでも少ない方だ。
 相手がサヴァスにしろ誰にしろ、朝の挨拶を交わす程度では彼女たちがここまで露骨に反応することはない。しかしハイメはただで終わらせない。傅き手を取り愛を囁く、この一連の行為を挨拶代わりにするのだ。最初こそこの職場では滅多にない女性扱いをされたことにときめいたマーメイドたちだが、そのすぐ後に他の女にも似たようなことを言っているハイメを見てしまえば、胸の高鳴りなど一瞬で幻想に散る。御伽噺も馬鹿らしい。
 彼女たちに限らず、この艦隊でのハイメの第一印象は『ナンパ野郎』のままずっと定着している。最早この艦に、彼の口説き文句を鵜呑みにする女性はほぼ居ない。

 柔らかい髪を整え、肌蹴た軍服を風紀に煩い輩から指摘されにくい程度に直してやる。我ながら甘いとは思うが、この恰好でうろついて叱られる彼を想像するとどうしても手をかけてしまうのだ。自分のような者に普通に接してくれる数少ない隊員だからだろうか。ならばこれは自己満足だろう、問題はないのかもしれない。

「アデライードなら此処に居るとわかってしまうだろう。どこか別の所に逃げた方がいいのでは?」
「んー、まぁ見つかったらそれはそれでいいかなって。それにサヴァスが一緒に居るところで、彼女が怒り狂う姿を見せることはないだろうからね」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ。特に、誰かを慕ってる女の子はね」

 こういう部分が、何だかんだといってもハイメが慕われる理由だろう。軟派でちゃらんぽらんで、考えなしに明るいように見えて、奥底の瞳は一歩引いた位置で物事を観察し、推し量ることのできる冷静さを持っている。取っ付き易い性格も相俟って、下は元より上の将官たちからも期待株として有望視されているほど。まるで自分とは正反対だ。

「サヴァスはもうちょっと女の子の気持ちに聡くなった方がいいんじゃないかなぁ。あ、でもアデライードもメラニアも、ブラシとか小道具置いてるのは嬉しいって言ってたよ」
「報告でも息抜きでも、わざわざ此処に訪れてくれるというのに、仕事ばかりの無作法な場所であるのは失礼な気がするからな」
「そういう気遣いはプラス点かな」

 伊達にマーメイドたちの尻を追いかけてるわけではないらしい。その後もつらつらと、人伝だったりそこにハイメ自身の見解を加えた『サヴァスのいいところ・悪いところ』が挙げられていく。褒めると謙遜気味に薄く微笑んで、欠点を指摘すると申し訳なさそうに苦笑する。少しぐらいは怒ってくれてもいいのになぁ、とハイメは思うが、そんなサヴァスのことも好きなので、いつも黙っておく。

「あと、サヴァスの淹れてくれる紅茶がすっごい美味しいって!」
「……少し待ってくれ。この間ネオネクタールから評判のいい茶葉を仕入れたんだ」
「ワォ、ナイスタイミング!」

 ハイメの言わんとすることを察したサヴァスは、戸棚からティーセットを出す。細やかな彫りと滑らかな乳白色が麗しい陶器たちは、全てサヴァスの趣味である。いつどこで手に入れているのかは部隊員ですら知らないのだという。噂ではオラクルシンクタンクの執事やメイドたちの伝手で買っているだとか、とあるバミューダ△のマーメイドからのプレゼントだとか、出回る話は様々だが、真相は未だ謎のままだ。
 そう時間もかからず用意された紅茶を受け取ったハイメがすん、と鼻を鳴らせば、ほのかな茶葉の香りが身体のみならず心も満たす。サヴァスもカップを持ち、二人して直立のまま、縁に唇を寄せる。少々行儀が悪いが、この場でそれを咎める者は居ない。

「こういう時間もいいね」
「すぐに仕事に行かねばならないがな」
「だからこそだよ」

 暖かい紅茶をひと啜りして、どちらともなく小さく息を吐く。二人分のカップから揺れる湯気の向こうで、それはそれは満足そうに笑ったハイメがサヴァスには見えた。
 ハイメを追いかけていたアデライードたちと今日の任務を尋ねに来たバタリーブームによって、この部屋が賑やかになるのは、もう間もなくである。



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連波の指揮官発売記念。


どんな言葉で貴方を飾ろうか、水面にそれを描いてばかりだ
151023
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