背中には硬い壁の感触。目の前にはなんともいえない表情をした東峰くんの顔があって、私の顔のすぐ右には片手がつかれている。足元にはお弁当が二つ。…これがいわゆる壁ドン、と、どこか遠くにいってしまいそうな意識の中で考えついたところで、それまでどこか余裕のないかんじだった東峰くんの表情が、突然気弱なものに変わった。

「………はぁぁぁ」
「あ、東峰くん…?」

ひとつため息をつくなり、東峰くんはその高い身長を折り曲げるようにして頭をかくんと下げた。私の視界が、東峰くんのゆるくまとめられた茶髪のみになる。…私はこれ、どうしたらいいのだろう?



***



今日のお昼は東峰くんと一緒に食べることになっていた。
週に数回そんな日があって、きまって二人で屋上に出てお弁当を食べるのだ。東峰くんとは隣のクラスだから、一度私が呼びにいくか、来てくれるかして屋上へむかうようにしている。
そういうわけでいつものように、教室に東峰くんを呼びにいこうとしていた途中、廊下で、私はなんだか久々に幼馴染もとい大地を見かけた。進学クラスということで大地とはまずクラスが違うし、大地には部活があるため朝も夕方も会うことが少ないのだ。
嬉しくなって駆け寄ると、大地はすぐに私に気がついて、ぱっと笑顔を浮かべた。

「なんか久々だな、なまえ」
「うん、そだねー!元気そうだね!」
「まあなぁ。お前もだけど」

くく、と同じタイミングで笑い声がもれる。なんだかこの感じがひどく懐かしくて、大地と一緒に廊下のすみに寄ってすこし立ち話をすることにした。見た感じ、東峰くんのクラスはなんだか授業が長引いているようだったし、まだ大丈夫だろう。

しばらく二人でけらけら笑いながら話をしていると、ふと大地が思い出したように言った。

「なあ、なまえヒゲチョコとは今…
って、お、噂をすれば」
「え?」

大地の視線を追ってくるりと振り向くと、そこには東峰くんが立っていた。見ればもう教室の扉は開いていたから、授業は終わったのだろう。

「よお、みょうじ、大地」

頭をかきながら、片手に弁当を持っている東峰くんの表情は、なんだか冴えない。待たせてしまったのかと慌ててそばに行き、振り向いて大地に手を振った。

「じゃあね大地!」
「おーう!…それじゃ、なまえ!」

思い出したように付け加えられた最後の言葉が聞こえるか聞こえないかぐらいのタイミングで、私の右手がぐいっと強い力で引かれた。体勢が崩れかけると慌てたように支えられ、私たちはいつもよりすこし早めの速度で歩きだすことになった。

「あ、あ、ずまねくん?」
「…………」

屋上へ向かう階段の途中で、突然東峰くんはその足を止めた。そして間髪入れず私の体は階段の壁に寄せられ、冒頭の状況に至ったというわけである。




ーーー私の前でため息をつき、俯いた東峰くんからは、先ほどまでの強いなにかは感じられなかった。ちょっとほっとする。怒っているわけではないみたい。
しかし、では、どうしたのだろう?疑問に思って東峰くんを見つめるけれど、なんだか動く気配がない。なんだか、これからどうしたらいいか迷っている感じだった。

「東峰、くん。…どうしたの?」

おずおずと尋ねてみると、東峰くんはゆっくりその顔をあげた。そしてすぐ、「ごめん!」とぱっと後ろに飛び下がった。完全に焦った顔になっていた。

「俺、その、何と言うかだな!べつに怖がらせようとかそんなんじゃなくて!…腕痛くなかったか?大丈夫?」
「いや、ううんそれは全然大丈夫…だけど、」

どうしたの、ともう一度尋ねてみる。人一人分開いて距離をあけた位置にいる東峰くんの肩が、びくりと跳ね上がった。
…東峰くんがあのとき、なにやら慌てたようにして私を連れあの場を離れたことが、ずっとひっかかっているのだ。いつもなら大地となにかしら話をするはずなのに、それもなかった。
心配も含めた私の問いかけに、最初は誤魔化そうという顔をしていたけれど、やがて諦め顔になった東峰くんは、とても言いづらそうに口を開いた。

「…名前」
「え?」
「名前で、呼んでたからだよ」
「?………あ、!」

名前、ともう一度頭のなかで繰り返して、やっと私は東峰くんの言いたいことがわかった。と同時にとくとくと小気味良い音が私の頭に響き始める。
つまり私と大地が名前で呼び合っていることに、妬いたということだろう。
だから大地と話そうとしなかったのだ。…きっと大地もそれをわかっていて、最後あんなふうに私に声をかけたのだ。そう気付いて、大地の声色が最後だけ、すこし何かを企むようなものになっていたのに合点がいった。
そして。これまでにも、私が気づかなかっただけで東峰くんはそんなことを思っていたのかも、と思った。べつに、東峰くんの前で大地と名前呼びしあうのなんて初めてではない。ただ今日限界が来た、ということなのではないか。
あれこれ考えながらも、私は思わず頬を緩めた。そしてそんな私を見て、東峰くんは決まり悪そうに頭をかく。

「なんだよ、そんなに笑うなよ…」
「いや、ほら、だってさぁ」

くくっ、と堪えきれず笑い声をもらす私に、東峰くんの表情はさらに萎れていく。身長もあってガタイもよくて、髪も結んでてヒゲもあって、と高校生に見えないことでやたらからかわれる東峰くんだけれど、そのしょんぼりした様子はすごく可愛らしく思えた。

「…旭」
「!!!」

小さくつぶやくなり、東峰くんはばっとこちらに顔を向けた。ひと気のない階段の上で、目が合った私たち二人の顔はだんだんと赤く染まってゆく。

「っやっぱむり、やっぱむり。東峰くん、もうちょっとまって、まだむり!」
「いやすぐに呼べなんて言ってないし、っていうか俺もまだむり…!」

びっくりするほど強引で、どこか鋭さのあった先ほどとは、うってかわって気弱な表情。
どちらにしても私の心臓はうるさくなるばかりで、ああ私はこの人がすきなんだな、と改めて思い知らされる。

ーーーとりあえず当面の目標は名前で呼びあえるようになることだ。
付き合いだして半年にして、こんな目標がたつことになるとは。そりゃ名前で呼ぶとかしたかったけれど、どうも恥ずかしくて言い出せないうちに半年経ってしまっていたのだ。

こうなることを見越していたかのような大地の言動を思い出して。思わず私は苦笑いを浮かべた。

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