カリカリとシャーペンを動かしていると、ふいにケータイが小刻みに震えた。
開いてみれば、メールではなく着信だった。表示された名前を見て、最近よくかけてくるなぁとちょっとだけ口元が緩んでしまい、そんな自分になんだか呆れた。
ケータイを耳にあてるとすぐ、もしもーし、と聞き慣れた声がした。思わずすこし笑う。するとそれが伝わったのかなんなのか、軽やかな笑い声が返ってきた。
「また暇なの?及川くん」
電話の相手は及川くん。同じクラスになって二年目。どういう経緯でかは忘れたけれど、3年の夏にはこうしてよく電話で話すくらいには仲が良くなった。
…そして。付け加えておくと、現在、私は及川くんに対してほのかに恋心を抱いていたりする。気の迷い程度だと思いたいが、こんな電話をどこか心待ちにしてしまっているあたり、どうなのだろうか。
夏休みを来週に控えた今日。夏に向けいつもよりさらにハードな部活で疲れているはずなのに、暇だ暇だと私に電話をかけてくるあたりよくわからない。男子高校生のタフさには驚かされる。
「またっていうか…でもまぁそんなとこ。にしても眠そうな声だね?」
「うん…ちょっと今日は疲れたかも」
「そう?なんで?」
「クラスマッチの練習がさ」
「あー」
私が運動があまり得意ではないことを、及川くんはよく知っている。「苗字の運動の出来なさは意味がわからない」などと言ってけらけら笑いはじめたので、私は若干腹立たしい気持ちになった。
「そんなバカにしないでよ。運動出来る人にはあの辛さはわからないんだよ」
「ぷ、そうなの?…ていうか苗字、クラスマッチどれだったっけ。女子はたしかバレーとバスケとドッジボール?」
「うん。で、私バレーだよ、バレー」
「バレー!」
何やらひときわ面白いことを耳にしたというように及川くんは笑った。
「…切るよ及川くん」
「えっうわちょっやめて!ごめんごめん!…ふはっ」
「………」
「ごめんって!切らないで、今日は大事な用事があって電話したんだって!」
「用事?」
「そうそう。さっきちょうど言い出すタイミング探ってたんだよ」
どうしたのだろう。いつも及川くんとの電話で話すのは、学校でする会話と何ら変わりないものだ。用事があってかけてきたことなんて、思い返せば一度もなかったような気がする。
だからなんだか逆に不思議で、及川くんの次の言葉をあれこれ考えつつじっと待っていると、次の瞬間私の耳に飛び込んできたのは。
「俺ね、苗字が、すきだよ」
思考が一瞬完全に、カチッと止まった。
「…苗字?」
「……………え、いや、あの?」
「ん?あれ?」
「え………え、?」
お互いになぜか戸惑ってしまった。及川くんがなぜ不思議そうにしているのかはわからないけど、私はとりあえず先ほどのやりとりの意味がわからなかった。黙り込んでしまった私に向かい、及川くんは「知らなかったんだ…?」と続けた。…いや知らないも何も。
「いま初めて知りました…」
「…………俺がなんでよく話しかけてくるかとか、なんでこんなふうによく電話かけてくるかとか、考えたことなかったの?」
「いや…うん…はい…。だって及川くん、女子ならだれにでもしてそうで」
だから、よく電話をかけてくるってことくらいで期待を膨らませるわけにはいかない、そんなことしたら余計にがっかりすることになるのだと自分に言い聞かせ続けてきて今に至る。
のに。
そんな私の努力を木っ端微塵に打ち砕くほどの威力をもって、及川くんのセリフは私の頭に飛び込んできた。
「えっ…俺そんなことしないよ!?」
「私これまで、噂でいろいろ聞いてきたんだよ…?」
学校一の美少女を落としたとか。三角関係のただ中にいる女子をかっさらっていったとか。バレー部の試合には他校も混ざり多くの女子たちが黄色い声援を送っているとか。ファンクラブなるものに、その甘いルックスと柔らかいセリフに魅了された女子たちが大勢ひきずりこまれているとか。
多少の尾ひれはついているとしても、きっといくつかは本当のことだ。
加えて及川くんとは、まわりに来る女子たちに優しく笑顔を浮かべて応対し、その女子たちの可愛さに圧倒される私を見てはくくっと笑みをこぼしているような人だ。
だから実を言うと、何度か、なぜ私は及川くんをすきになってしまったのかと本気で悩んだこともある。
「噂と俺、どっちを信じるの!」
「……うーん」
「ねえそれ迷っちゃだめだってば!」
ひどい!といつもの軽い調子で言ってから、及川くんは「ていうか、苗字の返事を聞いてない」とふいに真剣な声で続けた。ぐっと言葉に詰まる。
「俺は、苗字も俺のこと、すきだと思ってたんだけど」
「…っそ、れは」
それは、そうだけれど。言い澱む私に、及川くんはそうだと確信したのだろう、及川くんは「俺は、すきだよ?」と再度繰り返した。
…なんだろう、この人恥じらいとか無いのだろうか。それともよほどこういうことに慣れているのか。
しかし先ほどよりもより現実味を帯びたように感じるそのセリフは、まっすぐ私にぶつかった。どうしようもなく頬に熱が集まる。…いまの私の顔だけは、及川くんに見られたくない。電話でよかった、と私がそう思ったそのとき。
「…電話でよかった」
そんな呟きが、電話越しにちいさく聞こえた。つづけて、うわ、と何やら慌てたような及川くんの声。おそらく、思わず口にしてしまっていた、という感じなのだろう。
きゅうっと胸が締め付けられるような感覚がしたあと、ふわふわと体が浮き上がるようなへんな気分になった。ーーーどうやら及川くんは、冷やかしじゃなく本気で私のことがすきらしい。
心臓が、いつの間にかどくんどくんとやけに大きな音を刻んでいるのにびっくりした。
「私もそう思う」
私の言葉に、電話の向こうで及川くんが笑ったのがわかった。いまの私のように、及川くんもあの余裕ぶった整った顔を赤らめていたりするのだろうか。
そう思うとなんだかおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
電話での会話ではあるけれど、私たち二人の雰囲気はこれまでとは明らかに違っていて。私にはそれが、ひどく心地よかった。
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