よく似た孤独

 陽が落ち、うっすらと闇が広がる空の下を歩く。うっすら、と言ったのは歩く道がとても明るいからだ。駅前は繁華街になっていて数え切れない程の車が道路を走り、血気盛んな若者が甲高い声をあげながら闊歩する。吉良は若者に目をつけられないよう、だが同時に綺麗な手を持つ女性はいないかと目を凝らしながら帰路についた。だが今日もめぼしい成果は得られなかった。
 駅前を通り過ぎると、途端に人気はなくなる。時たま物音がすると思えば、野良猫が鋭い目を光らせて去っていく。それを眺めるのは己しかいない。いつまでも無駄な時間を過ごしてはいられない、また近いうちに新たな彼女を見つけなければ……。吉良は足早にその場を立ち去った。

 いくら手が綺麗だからといっても、個人によって違いは出る。懐にいるそれは肌の質感と、少しだけ浮き出た筋が好きだった。だがそれも過去の話。そろそろ潮時なのだ。いくら香水を吹きかけようとも、独特の異臭が鼻をつくようになってきてしまった。

「……やけに月が明るいな」

 雲ひとつないのだろうか。闇に染まる頭上を見てもよくわからない。満月とも半月ともいえない月が、吉良の少しこけた頬によりいっそう深く影を作る。吉良はむくむくとした衝動が自身を駆け上がっていくのを感じた。ギ、ギ、と軋んだ音も聞こえる。ああ、早く家に帰って寝てしまおう。今日はもう終いにしなければ。
 やっと自宅が見えてきたところで、少しだけ歩く速度をあげた。鞄の中から鍵を取り出し顔を正面へ向けると、何か人影のようなものが玄関先に立っているのが見える。月光は足先しか照らしてはくれない。だが吉良には目の前の影が一体誰なのか心当たりがあった。その証拠に吉良が口を開く前に、その人物は吉良の名前を呼んだ。

「また家出したのか、君は」
「……はい」

 吉良は制服姿で立ちすくむ彼女の背中にゆっくりと手を添え、自宅へ招き入れる。名はみょうじなまえと言い、近所に住んでいる。なまえは時たま、こうやって吉良の自宅に逃げてくることがしばしばあった。その理由を吉良に説明したことはなかったが、なまえは説明する気もさらさら無かった。だから、吉良が何も詮索してこないのは逆にありがたかった。
   いつからこの少女との奇妙な関係ができたのだろうか。吉良は夕飯の支度をしながら考える。
 なまえが吉良のことについて何も聞いてこないので、吉良も彼女のことについては何も聞かないことにした。人間、誰しもが秘密を抱えている。吉良は自分の秘密がバレやしないかと一時期は身構え、彼女を殺そうとも考えた。だがそれは出来なかった。休日のある日、なまえが彼女の友人と思われる人物と遊んでいる姿を目撃したのだ。なまえには人脈がある。それに、近所に住んでいることが問題だった。所詮は田舎町、下手に殺せばすぐに話の尾は広がっていくだろう。
 殺せない。否、殺さない。
 幸か不幸か、なまえの手は吉良の好みには合致していなかった。そのことも、吉良の殺人意欲を刺激しないで済んだ。なまえは吉良の背中をじっと眺め、「テレビをつけてもいいですか」と尋ねた。

「構わないよ」
「ありがとうございます」

 直後、四角い画面から音声が流れてくる。軽快なテンポの音楽が流れてきたかと思えば、数十秒後にはまた違った曲に変わる。ちょうどCMが放送されているらしい。吉良は盆に料理を乗せて運ぶ間、しばらくテレビとなまえとを眺めた。
 学校から指定された鞄が彼女の足元に置いてある。ぶら下げているキーホルダーは何かのキャラクターのようだが、生憎、吉良はそういうものに疎かった。名前すらわからないそれは、なまえが動かした足に当たって軽く揺れる。
 不意に、なまえが大きなくしゃみをした。破裂音が部屋の中にこだまし、鼓膜を震わせる。吉良は盆を机に乗せ、開いていた窓を閉めた。日毎に冷たくなる風が遮断される。同時に葉擦れの音や人の歩く音などが途切れ、部屋の中を満たすのはテレビの音だけになった。……かと思うとなまえの腹からか細い音が聞こえ、なまえは少し恥ずかしそうに俯いた。

「食べようか」
「はい」

 いただきます、と二人揃って声を合わせる。お互いに向き合ってはいるが、一言も会話をしない。CMが終わったようで、テレビからはバラエティー番組と思われる司会の声が響いてきた。普段、吉良が見ない番組だった。
 食事をしながら、吉良はなまえのある部分を見つめる。語弊があるが職業病と似たようなもので、箸や椀を持つたびに角度を変える手をどうしても視界に入れてしまう。
   なまえの手は未熟だ。
 吉良は米粒を奥歯で噛み締めながらそう思った。吉良はなまえより先に食事を終えると、食器を片付けようと立ち上がる。ガタンと音がしたかと思うと、なまえも食事を終えたようで食器を持ち吉良の横に立っていた。彼女の口の端は少し汚れていた。

 そのあとも特に会話という会話はなく、先になまえが風呂に入り吉良が二番目に入る。風呂から出るとなまえは布団を敷いていて、さすがに寝るにはまだ早すぎるんじゃあないかと思ったが吉良は口に出さなかった。
 なまえは寝る時、いつもパジャマを着ている。そもそも彼女は吉良の家に来るときはまるで図ったかのように着替えを持参してやってくるので、吉良は半ば諦めていた。前は家に返そうと躍起になっていたが、静かな暮らしを望む彼にとっては大事になるのは御免だった。
 だがなまえは頻繁に来る訳ではない。吉良は棚からマグカップを二つ取り出しながら考える。大抵、彼女とそろそろ手を切ろうか迷っている時に姿を現すのだ。

「なまえはココアにするかい?」
「そうします」

 出来上がったそれをなまえへ差し出すと、両手でカップを持つ。吉良はその両手を見つめ続ける。熱いだろうに、彼女の手はそれを微塵も感じさせないようにしっかりと、カップを包み込んでいた。
 吉良は短く息を吐きながら、その姿を脳に留める。
   未熟だが。
 吉良はなまえと何度かの邂逅を経て、彼女の手の魅力を引き出すにはどうすれば良いかと常々考えていた。爪の手入れがなっていない。ささくれがある。肌が少し乾燥している……。

「吉良さん」

 不意に、なまえの手が吉良の手に重ねられた。吉良はとても驚いたが、それを表に出さず努めて冷静に返事を返す。勘付かれたかと一瞬身構えたが、「手が冷たいですよ」という一言に安堵の息を漏らした。

「これからの時期は寒くなります。温めないと、すぐ風邪を引いちゃいますよ」

 なまえの手はとても温かかった。吉良の手は本性を表しているとでもいうかのように冷たく、氷のようだ。なまえはそれに気付かず、自身の手で吉良の手を温め続ける。
 吉良はまるで母親にあやされている赤子にでもなったような、心地いい気分に慕っていた。実際の母親はそうではなかった。だから余計、その温かさが染み入ってくる。

「なまえ……」

 名前を呼ばれた相手ははゆっくりと微笑んだ。吉良はこの奇妙な関係が続いて欲しいと、そう願う。吉良は今この瞬間だけは、殺人のことも、手のことも、何も考えずにいることができたのだった。

title:ジャベリン
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -