羽化するソプラノ
 ついにその日がやってきた。前の日の夜になかなか寝付けず、目覚めが悪くなってしまったのが悔やまれる。おかしいところはないか、鏡での入念なチェックも欠かさない。少し、目が腫れぼったいような気がした。
 自宅を出てしばらく歩き、空条邸の門が見えてきた辺りで、菓子折りの袋を反対の手に持ちかえる。

「あ、空条くん」
「…よう」

 門は開けられるのだろうか、と迷っていると、空条くんが内側から開けてくれた。空条くんは、部屋着だった。帽子を被っていない姿を見れるなんて!これだけでも、十分すぎる程の収穫だ。

「おふくろが待ちかねてたぜ」
「うん。お、お邪魔します」
「…まだ玄関にも着いてないぜ」

 門から空条くんの家の戸までは数十メートルある。正直どこで上記の台詞を言えばいいのかわからなかった私は、門を通り越したらすぐにその言葉を口にした。どうやらこのタイミングではなかったようだが。
 今度こそ玄関をくぐりお邪魔します、と声をかけると、ホリィさんが上機嫌に出迎えてくれた。手土産を渡すと、あら、気をつかわせちゃって…でもありがとう!と、弾けるような笑顔を浮かべる。こちらまでつられて笑顔にしてしまう、魔法使いのような人だ。こんな母親がいて、毎日楽しいだろうな…と思いながら空条くんを盗み見たが、空条くんは眉間に皺を寄せたまま無言で歩き出してしまった。

 空条くんの後ろを無言のままついていくと、通された場所の床はフローリング、そしてテーブルと椅子がセットで置いてある。キッチンから程近い位置の部屋だ。純和風な内装を想像していたが、意外だった。

「名前ちゃん、ちょっと待っててね!すぐにお昼ご飯を作ってくるわ!」

 そう言い終わるか終わらないかの内に、ホリィさんはキッチンへぱたぱたと小走りで向かう。
    気まずい空気が再び。空条くんは横向きになって頬杖をつき、足を組んで座っている。ああ、なんて話しかけよう。

「空条くん、き、今日も良い天気だね!」
「……」

 空条くんは、口元を少し引きつらせた。眉も心なしか片方は上がり、もう片方は下がっていて、どう考えても「何言ってんだこいつは」とでも言いたげな顔つきである。だが次の瞬間、空条くんは口元を片手で覆ったかと思うと笑いを堪え始めた。時々、押し殺した笑いが手の隙間から聞こえてくる。

「ど、どうして笑うの空条くん!」
「いや、思った通りの台詞が来たと思ってな…」

 そう呟くとまた口元を手で覆う。今度は堪えきれないようで、ククッ、と笑え声がもれている。思わず「ひどい!」と口にすると、空条くんはまるでお笑い番組でも見ているかのように声をあげて笑い始めた。
 暫くすると落ち着いたようで、空条くんはフー、と長くため息をつく。

「悪かったな、急に笑い出して」

 言いながら、口の端はつり上がっていた。空条くんは笑いの沸点が相当低いのだろうか。だとしたら、いつものあのポーカーフェイスは何なのだろうか。よく笑うのは、家の中限定なのか。
 考えてもキリがないので、私は考えることを即座に放棄した。いずれにせよ、空条くんが笑っている姿は貴重である。「急に笑ったからびっくりした」と口を動かしながら、心のシャッターを切る。
 と、そこにお盆を持ったホリーさんが現れた。パスタとサラダ、それぞれ三人分がのせられている。

「あら、何だかとっても楽しそうじゃない!私にも聞かせて」
「…関係ないことだぜ」

 ホリィさんがエプロンを外しつつ、私の隣へ座る。目の前には出来立てで湯気が立ち、食欲をそそられる香りがするパスタ。お洒落に盛り付けられた、付け合わせのサラダ。調味料を隔てた向かい側には、眉間に皺が寄り始めた空条くん。私はその狭間で、またなんともいえない気持ちのまま「い、いただきます」と手を合わせた。

 パスタはとても美味しかった。お店で販売できるのでは、と言うと、ホリィさんは至極嬉しそうに謙遜の言葉を述べる。そんなことを繰り返しつつ、あっという間にランチタイムは終了した。殆どホリィさんとしか話していない気がする。
 ホリィさんはさっさと食器を片付けると、「デザートも作ってるの!ちょっと待っててね!」とパタパタとまたキッチンへ駆けていってしまった。
 しばらくすると、バターの焼けた香ばしい匂いが漂ってくる。クッキーだろうか。

「すごいなあホリィさん。私もああいう風になれたらな…」

 口で言ってはみたものの、実際にはできそうも無い。今でさえ、自堕落に生活してしまっているのだ。お母さん、ごめんなさい。心の中で謝る。
 それまでだんまりを決め込んでいた空条くんであったが、私が上記の台詞を言うと「お前には無理だろ」と返事が返ってきた。即答すぎやしないか。

「や、やってみなきゃ分からないでしょ」
「出来ないね」
「根拠は?」
「カン、ってやつだ」

 自らの頭を指先で軽くトン、と叩き、得意気に口元を緩ませる。その姿が何とも様になっていて、しかし言っていることはカン、なんて適当なことを言うので言い返そうとしたが、できなかった。なぜなら、空条くんならば全てを完璧にこなしてしまいそうだからだ。容易に想像出来てしまう。
 …ああ、でも、エプロンを付けた姿は少し見てみたい気もする。

 想像してニヤリと口元をあげる。と、「変な笑い方するな」と柔らかく注意を受ける。それでも一度思い描いてしまったものは取り消すことができず、空条くんは「やれやれだぜ」と呟くのだった。



 空条邸をお暇する頃には、空は黄昏色に染まっていた。自宅までの帰路を見送ってくれるという空条くんと並んで歩く。
 お互い無言で、聞こえてくるのはカラスの鳴き声くらい。だが私は、もうこの静寂が気まずいとは思わなくなった。無理に話題を振ると、空条くんは迷惑そうに眉間に皺を寄せてしまうからだ。せっかく仲良くなれる機会なのに、それはいただけない。今日一日で学んだことだった。

 すぐ前の道を右に曲がれば家、というところで、横から空条くんに呼び止められる。両手を突っ込んでいたポケットから、おもむろに何かを取り出した…見覚えのある紙切れだ。

「もしかして、それ…!」
「見た。なかなか上手く描けてるじゃあねえか」

 あろうことか、空条くんが手にしていたのはあのメモ用紙だった。空条くんの手の中で、私の書いた文字と、私によって描かれた空条くんが風にひらひら踊っている。

「か、返してよ!それ!恥ずかしい!むしろ捨てて欲しい!」

 取り返そうと飛びかかったが、平均より背の高い相手に平均身長ぴったりな私には無駄な行為だった。子供をからかうように、頭上でそれはピラピラと音をたてる。
 そのうち体力がつき、肩で息をする私の手に何かが握られる。開いて見てみると、真っ白いメモ用紙だ。折り畳んである。私が空条くんに送ったものではない。

「…返してくれないの?」
「記念に貰っとく。それも記念だ」

 それ、とは手の中で折り畳まれているものだろう。開いて中身を見てみると、真っ白い背景に大胆な黒字で「どーも」と一言。それに付け加えられていたのは、デフォルメ化された女の子。これは、私…だろう。髪型もこんな感じだし、眉毛も、目も。
    と、いうことは。これは、空条くんが書いたものだろうか。
 ばっ、と顔をあげるが、空条くんの姿は既に消えていた。私はカラスの鳴き声を背景に、手の中のメモ用紙を見つめ続ける。

 家に帰ってから夕飯を食べ風呂に入り、寝るために布団の中に入っても脳裏にはあの文面を思い描く。大切に引き出しに閉まったそれは、暗闇の中で縮こまっていることだろう。
 つり上がりそうになる口元を押さえつつ、ふと時計を見ると既に午前0時を過ぎていた。
 今夜はあまり眠れそうにない。
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