ちぎって破って
 昼食後の古文の授業は地獄だ。先生が厳しい訳ではないが、睡魔との戦いが待っている。進むのが早いので、寝たら最後取り残されるのは目に見えていた。
 予鈴が鳴り、教科書を出そうと机の中を探る。これは数学、現代文、英語…。三冊まで出したとこで、嫌な汗が背中を伝う。鞄の中をひっくり返すが、古文の教科書が無い。どうやら家に忘れてきてしまったようだ。

 隣のクラスは体育で教室にいないし、それ以外のクラスには知り合いらしい知り合いがいない。今からコピーしに行くのも既に遅いだろう。本文が書いてあるかも!と自分のノートを開いたが、口語訳すら書かれていなかった。心の中で悪態をつく。
 鞄の中をもう一度探していたら、本鈴が鳴ってしまった。先生が教室に入ってきて、号令をかける。私の前にあるのはノートと筆箱のみ。ああ…やってしまった。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり…」

 先生がお経のように唱える文を聞こえるままに書き写す。その後すぐに訳してしまうので、これまた素早く書き写さなければならない。進むのが早すぎて、自分の字がいつにも増して汚くなってしまう。
 教科書を読むスピードはどんどん速くなる。私はもはや書くことを諦めようとしたが、ここで諦めてしまっては中間テストで赤点をとってしまうことは目に見えている。それだけはどうしても避けたい。

 私は冷や汗を垂らしながら隣を見る。空条くんは教科書を開きもせず、ただ置いたまま。足を組んで帽子を目深に被っていた。授業を聞いている様子は無い。ノートの端を適当な大きさに千切り、必要事項を書く。字はいつもより綺麗に書いた。先生を見ると、黒板に文字を書いている。今がチャンスだ!私は意を決して空条くんに小さく声をかける。空条くんは帽子の下から鋭い目を覗かせ、なんだ、と口を動かさず訴えてきた。私も口だけで「これ、読んで」と動かすと、すかさず相手の机の上に丸めたそれを投げる。うまいこと乗ったその紙を、空条くんは何とも言えない表情で見つめている。

 ものの数秒の出来事だが、何時間も過ぎたように感じられた。教科書を忘れてしまったことを悔いればいいのか、だがこうして空条くんとやり取りしていることが嬉しくて喜べばいいのか、よくわからない感情のまま返事が来るのを待った。
 そして、机の上に紙が投げられる。と同時に、教科書が音もなくスッと横から差し出された。紙を開いてみると、私がいつもより丁寧に書いた文字の下に走り書きで「グズ」と一言。それ以降、空条くんは帽子で顔を覆うと眠る体勢に入ってしまった。お礼を言う隙も無く、私は受け取った教科書を開き先生の言葉に耳を傾けることにした。




 まさか空条くんから本当に教科書を貸してもらえるとは思えず、授業終了のベルが鳴ってからもしばらくボーッとしていた。隣にいた空条くんがいなくなっていることにも気付かないで、友人に名前を呼ばれるまで教科書とノートを開いたまま地蔵のように動けずにいたのである。
 友人は私の手元から教科書をとると、「ここの部分わかんなかったんだけど…名前はわかった?」と聞いてくる。

「あ、うん。確かここはね…」

 私は友人に教えながらこの後どうやって教科書を空条くんに返すかで頭がいっぱいだった。そのうち予鈴が鳴り、友人も自分の席へ戻っていく。空条くんは戻ってこなかった。帰ってしまったのだろうか。

 授業が始まってからも、耳から入ってきた言葉は反対の耳へ出て行く。先程やりとりしたメモを前に思案をめぐらせ、どうやって返すか頭をひねる。うんうん考え込んでいる内に、授業終了のベルが鳴った。今度は私が友人にノートを見せてもらうことになってしまった。

 帰りのHRの時間。結局、あれから空条くんが戻ってくることは無かった。朝から来た時は最後まで学校に残るのは珍しい…いや、ほとんど無いのだが、それでも隣が空席だと寂しさを感じる。
 先生は連絡事項も特に無かったようで、月一で発行されているらしい“学校便り“と銘打たれたプリントを配ると日直に帰りの挨拶を頼んだ。さようならー、と間延びした号令がかかると共に、教室はザワザワと喧騒に包まれる。

 私は手洗いへ行ったり鞄の中身をできるだけゆっくり整理しながら、人がいなくなるのを待った。友人は用事があるようで「ごめん、先帰るね!」と、いの一番に出て行ってしまっていた。これから私の中で今日一番のイベントが起こるので、近くにいてほしかったのだが…仕方ない。

 30分もすると、教室には誰もいなくなった。運動部の威勢の良い掛け声が、開いた窓から響いてくる。念のため廊下を確認したが、隣のクラスにまだ残っているらしい生徒の話し声が聞こえるだけだ。私は意を決して自分の席へ戻ると、机の上に置きっぱなしだった鞄から古文の教科書と一枚のメモ用紙を取り出す。メモの内容を確認して教科書に挟み入れる。
 そして、空条くんの机の中へそっと入れた。心臓がバクバクと波打って痛いくらいだ。私は自分の鞄を抱えると、ほとんど走る形で下駄箱まで移動した。

 校門をくぐりながら、頭の中でメモの内容を反芻する。今思えば、少し大胆だったかもしれない。私はあのメモ用紙に”ありがとう、助かりました”と綴った後、空条くんの似顔絵を添えたのだ。可愛らしくデフォルメされた空条くんが、これまた可愛らしく微笑んでいる絵。何回も練習してから描いた。
 そのメモ用紙は柄もほとんど無く少し寂しかったので、ほんのお遊びのつもりで付け足したつもりだった。今になって、どうしよう、あのメモ用紙を広げられたら最後、嫌われるかもしれない。ぐるぐるとマイナスな方向へ思考が向かう。

 もう置いてきてしまったものは仕方がない。明日は空条くんは朝から登校してくるだろうか。至って普通に接しよう、いつも通り挨拶をしよう。
 よし、と踏ん切りをつけた時はもう自宅の前で、ただいま、と居間に聞こえるよう帰宅の声を発した。
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