深海トラジディー
 身にしみる寒さが無くなってきた頃。学生らは春休みに入り、多いとも少ないともいえない、だが容易には片付けられないであろう課題を出され、口々に不満をこぼす。名前も例に漏れず、重いため息をつきながら自宅への道を歩いていた。

「来年は受験だからなあ……うーん」

 大学受験。考えるだけで気が重い。名前は鞄の中からプリントを取り出した。そこには、自分の進路について今一度よく考えること、と学校からの言葉が書いてあった。自分の進路に合わせて授業の選択を行わなければならないからである。
 名前はどの道に進めばいいのかよくわかっていなかった。秀でて成績が良いわけではなく、かといって悪くもない。極めて平々凡々なのだった。

「どこ行っても平均なんだ、良かったじゃあねえか。選択肢が増えるってわけだ」

 承太郎は面白がるように言った。つい先日、彼の自宅へお邪魔した時のことである。承太郎は相変わらず学校へ来る頻度は少ないが、テストを行えば常に上位に食い込んでいた。ポーカーフェイスを装っているが、内心ガッツポーズをしているに決まっている。名前はそう妄想することで嫉妬心を四散させていた。この空条承太郎という男は、テスト前にちょっぴり教科書を読むだけで高得点を叩き出してしまうのだ!影ながらの努力もあるとは思うのだが、それにしてもあっぱれである。
 頭もよくてかっこよくて、自慢の彼氏なのに。羨ましい気持ちが勝る。
 名前は帰宅すると自分の部屋へ駆け込み、ベッドへ思い切りダイブした。弾みで枕が床へ落ちた。



 後日、名前は承太郎に呼ばれて駅前の喫茶店に来た。承太郎は窓際の席でコーヒーを飲んでいた。こうしていると、とても高校生には見えない。
 名前が承太郎の目の前に座りコーヒーを注文すると、彼は珍しく言葉を選ぶように慎重に話し始めた。進路についてである。

「え?海洋学者?」
「そうだ」

 承太郎は真剣な眼差しで言った。対する名前は、運ばれてきたコーヒーに口をつけようとした態勢のまま固まっている。承太郎から海洋学者、という単語が出てきたことに驚いたのだ。
 承太郎は次に、アメリカへ行こうと思う、と言った。祖父母が住んでいるし、環境も整っているからだという。名前はコーヒーをソーサーへ置くと、震えそうな声を抑えながら「凄いね」とだけ呟いた。

「アメリカ……行くんだ」
「まだ決まった訳じゃあねえ」

 口ではそう言うが、承太郎は一度決めたらなかなか曲げない性格である。ほぼアメリカへ行くことは心に決めていた。それに加え、名前を日本に残すことも懸念していた。だが、無理矢理に連れて行く訳にもいかない。本心は、常に共に在りたいのだ。まだお互い学生の身なので、その辺りは後々に回すとして。
 承太郎はガラス越しに外を見つめた。大勢の人が通りを急ぎ足で歩いている。次に、名前を見つめた。向こうはこちらを見ておらず、少し青ざめた顔で俯いている。

   お前も、アメリカへ来ないか。

 その一言が、何故か思うように口に出せない。きっと笑顔になってくれるはずだと思う反面、もし断られたら、という不安が頭をよぎる。本人が了承しても、その後どうするか。経済面の問題も出てくる。気軽に「はい、行きます」とは答え難い。なんだったら、出来れば願い下げだが祖父に頭を下げたっていい。工面してくれと。だが、それを名前はもちろん、彼女の両親、己の両親が共に了承してくれるのか。ただの不良高校生の提案にしか過ぎないそれは、現実には厳しいだろう。いくら祖父が不動産王で、父親がミュージシャンだとしても。

「名前、お前が良いなら」
「私、承太郎のこと応援するからね」

 承太郎の言葉を遮るように、名前は努めて笑顔で言った。そしてコーヒーを一気に飲み干すと、またメールする、と言葉を残して店を出て行った。律儀に自分が頼んだコーヒー代も置いて。
 残された承太郎は、空いた席を黙って見つめていた。しんしんと降る雪が積もる無人駅で、いつまでたってもやって来ない、もしくは既に発車してしまった列車を待つような、そんな気分だった。



 名前は暗雲が立ち込める空の下、俯きながら歩いていた。頭の中は承太郎とアメリカのことで一杯である。それに、まるで子供のような反応をしてしまったことを反省していた。  何も、ずっと離れている訳ではない。電話もあるし、夏休み等を使えば直接会えるではないか。そう自分に言い聞かせるも、ぽっかりと空いた空間は中々埋まってくれなかった。

「私も、アメリカに行けば」

 そこまで口にして、やめた。自分の語学力のなさを思い出したからだ。試験で筆記はなんとかなっても、実際に話すとなると話は違ってくる。それに、もしも私がアメリカへ行くとしてそれが承太郎の障害になってしまうのでは、と考えると身がすくむ思いであった。
 名前は上の空で自宅へ戻ると、自分の部屋へ行き携帯を取り出した。承太郎へ謝罪の連絡をいれる為である。その前に、ネットを開いた。日本とアメリカの距離を調べると、約一万キロメートルと表示された。
 今は直接会えるし、話もできる。まだ実際に行くと決まった訳ではない。なのに、こうやって数字で見るとその遠さに目が眩む。急に心細くなって、一筋の涙を流した。袖で乱暴に拭ったが、反対からも流れ出てきた。

 離れるのは嫌だった。だが、相手の進路を妨げてまで願うことではない。それはただのエゴだ。名前はまだ一文字も打たれていない携帯のメール画面を見つめると、そのまま電源を落とした。そして携帯を握り締めて、泣いた。承太郎がアメリカへ行ってしまうかもしれないことや、応援すると口では言いながらも、本心では離れ離れになる事に対して拒絶してしまっている自分、それを言葉に出来ず、こうして泣くに留まっている愚かさ。それら全部をひっくるめて、涙となって溢れた。

 ひとしきり泣いた後、部屋の空気を入れ替えるため窓を開ける。いつの間に降り始めていたのか、ばらばらと激しい音を立てて雨粒がとめどなく流れ落ちていた。時折びゅおっ、と風が吹いて、名前の髪を広げると同時に水滴を押しつけてくる。
 雨の音は、頭の中をからっぽにしてくれた。母親が階下から呼ぶまで、名前は窓縁に頬杖をついて外を眺めていた。遠くで雷鳴の鳴る音が、名前の鼓膜を震わせた。
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