三拍子の胸の奥
 ガヤガヤとした駅前の喧騒の中、首筋の汗をそっとハンカチで拭き取る。7月下旬は、もう夏真っ盛りととっても良いのだろうか。夏、というと8月の、大きい入道雲が空に浮かんで蝉がひっきりなしに鳴いている中を、少年が虫かごをぶらさげて走り回る、そんなイメージが思い浮かぶ。まあ、今は7月だが。
 それにしても暑い。汗が止まらない。夜は涼しくなる、と言っていた天気予報士に悪態をつく。扇子を持って来ればよかっただろうか。額の汗を拭うと、ハンカチに肌色がくっついた。

 テスト最終日であった今日。午前でテストが全て終わると、教室は晴れ晴れとした空気でいっぱいになった。もちろん私も例外ではない。テストとは、学生にとって天敵である。RPGでいうと、ラスボスを倒した気分だ。まだ冬にも待ち構えているが、それはそれ、これはこれである。それに、私にとっての最終ステージはまさにこの時間、この場所だ。既に日は落ちたが、街灯や車、家々の明かりで照らされていて真っ暗闇になることはない。駅の時計で時間を確認すると、待ち合わせまで5分を切った所だった。

「あ」

 人混みの中でも特に目立つ、背の高い人物を見つける。手を振って合図を送ると、向こうも片手を上げて応えてくれた。空条くんである。
 下駄の音を響かせつつ近付く。空条くんも浴衣姿だ。いつものトレードマークとも言うべき学ラン姿ではないので、幾分か大人に見える。私も浴衣を着てきたが、彼のようにはいかないだろう。馬子にも衣装、と母に言われたが、少しはよく見えているだろうか。

「テストお疲れ様」
「…ああ、お前こそな」

 祭りの会場へ行くには、電車で一つ隣の駅となる。歩いても着くだろうが、何しろ下駄が歩きにくい。靴擦れ対策をしてきているとはいえ、あまり足に負担をかけたくはない。そう考える人が多いのか、ただ単に歩くのが面倒なのか、電車の中は人で混雑していた。通勤ラッシュに匹敵するんじゃあなかろうか。
 目的の駅に着くと、人の波が動き出す。空条くんは背が大きいから、あまり動じてはいないようだ。空条くんの後ろをなんとかついていく。

 駅のすぐ近くが会場だ。浴衣を着た人たちが大勢歩いて行く。私たちも例に漏れず、その列に従った。

   わあ」

 列の先は屋台の明かりで埋め尽くされていた。そこかしこに人が歩き、正面には境内へ続く道がある。美味しそうな香りが辺り一面に漂っていて、思わずお腹が鳴ってしまいそうだ。と同時に、汗の臭いやら若干の酒気も感じられる。祭り特有の高揚感に包まれていた。
 見ものはやはり、花火であろう。その時間までは一時間ほど時間がある。ゆっくり屋台を見て回れそうだ。

「ねえ、どこから行こうか」
「…名字の好きなとこでいい」

 数日前から今日という日を迎えることにあれほど緊張していたというのに、実際に来てみると「祭り」という興奮にそれらは打ち消されてしまったらしい。今度は空条くんを後ろに従えた私は、嬉々として屋台巡りを始めた。巾着から財布を出すことも忘れない。
    数十分後には、私の両手には買い占めた戦利品がたくさんぶら下がっていた。焼きそば、牛串、焼きとうもろこし…他にも色々ある。お小遣いを使い果たす勢いだ。
 対する空条くんはというと、焼きそば一つと、ペットボトルのお茶を手にしているだけだった。あ、目の前でたこ焼きが追加された。美味しそうだ。

「そんなに買ったのか」
「うん」
「食い切らなくても知らんぞ」
「あー…あんまり考えてなかった」

 そんな会話を繰り広げつつ、花火を見るため場所を探す。よく見える場所は既にレジャーシートが敷かれていた。かといって立ち見しようにも、人が多すぎてそれどころではなさそうだ。歩いても歩いても、人、人、人。隙間がなかった。空条くんは舌打ちすると、辺りを見渡す。

「名字、少し遠いが歩けるか」
「うん。良いとこでも見つけたの?」
「ああ、あそこだ」

 空条くんが指さしたのは、神社のある裏手の山だった。展望台があるのが見えるが、何故かそこには人が一人もいない。皆その場所には目もくれず、近場の場所を探し回っている。私は快く返事をすると、いくらか少なくなったビニール袋を持ち直した。



 空条くんの背中を、人混みのなか小走りで追いかける。追いかけようにも、人の波が押し寄せてくるのが厄介だった。小走りというよりも、ほぼ人を押し返す形でなんとか空条くんを追いかける。

(   あれ?)

 人混みをかき分けていたが、空条くんの姿がいつの間にか目の前から消えている。辺りを見回しても、背伸びをしてみても見当たらない。展望台の方に行こうとしても、人に押し返されてしまい中々身動きがとれない。

 どうしよう、はぐれてしまった。花火も始まってしまう。焦れば焦るほど周りはどんどん見えなくなり、嫌な汗が背中を伝う。
 来た道を戻ってみようと踵を返したところで、左手がグイッと強い力で引っ張られた。誰だか分からないまま、グイグイと引っ張られていく。振り解こうにも、強い力で握られていてそれができない。
 人混みから抜け出すと、滴る汗によって張り付いた前髪をかき分けながら相手を見た。その人物は、なんと空条くんであった。空条くんも、私と同じように大量の汗をかいていた。肩で息もしている。

「心配したぞ」
「……ごめん、なさい」

 空条くんはそれ以上責めることはなく、無言のままだった。それが逆に恐ろしく、私は両の手で巾着の紐とビニール袋とを握り締める。

「いなくならなくて、良かったぜ」

 空条くんは息を切らしながら言うと、再び私の左手を強く握りしめ展望台へと続く階段を上る。先程より優しく、しかし逃がさないようにとしっかり握られた空条くんの手は、いくらかゴツゴツしていた。それに、互いの汗でじっとりとしている。私の首にも、目の前を歩く空条くんの首にも、大粒の汗が滴っていた。

 夜だというのに、蝉がたくさん鳴いている。二人の周りでも、ひっきりなしに鳴いている。それが、今の沈黙にはちょうど良い幕間となっていた。
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